落合博満とは、ロッテオリオンズ・中日ドラゴンズ・読売ジャイアンツ・日本ハムファイターズで活躍した元プロ野球選手であり、2004年から2011年まで中日ドラゴンズを率いた元監督。
三度の三冠王を達成したプロ野球史上に残る大打者であり、中日ドラゴンズの黄金時代を築いた名将である。
現役時代
秋田県若美町出身。高校時代はほとんど練習に参加せず、映画ばかり見ながら、試合のときだけ野球部に加わっていた。東洋大学でも体育会系の慣習に馴染めずすぐに退部、大学も中退。その後プロボウラーを目指したが、プロテストに向かう途中でスピード違反で捕まり受験料を罰金として取られ、プロテストを受けられなくなり挫折。社会人の東芝府中に加わり、ここで頭角を現す。
1978年、ロッテオリオンズにドラフト3位で指名され入団。プロ入り時、既に25歳だった。当時の監督だった山内一弘の打撃指導が合わず、我流でバッティングを磨き上げたことが、のちに「オレ流」と呼ばれるようになった由来。当時、そのバッティングフォームを金田正一に面と向かって酷評されたことで金田を嫌っており、2000本安打を達成した際にも、金田が中心である名球会への入会を拒否している。
80年、シーズン後半にレギュラーを掴むと、81年には打率.326で首位打者を獲得。翌82年には打率.325、32本塁打99打点で史上最年少の三冠王に輝く。が、どれも突出した数字では無かったため豊田泰光に「三冠王のレベルではない」と批判された落合は、85年にそれを見返すかのように打率.367、52本塁打146打点という驚異的な成績で再び三冠王に輝いた。翌86年も三冠王を獲得、3度三冠王に輝いたのはプロ野球史上落合のみである。
しかし、「プロ野球選手の評価は金」と公言してきた落合の年俸の高騰が、当時のロッテの不人気ぶりによる経営状態とそぐわなくなり、また落合が絶大な信頼を寄せていた稲尾和久監督が解任されたこともあって、86年のシーズンオフに4対1という大型トレードで中日ドラゴンズに移籍する(交換相手は牛島和彦、上川誠二、平沼定晴、桑田茂)。この際、日本人選手として初めての年俸1億円プレイヤーとなった。中日移籍後も毎年のようにタイトル争いに絡み、2度の本塁打王・打点王に輝く。
93年には導入されたばかりのFA制度を利用し、読売ジャイアンツに移籍。この落合の移籍によって、当時巨人の一塁手だった駒田徳広は出番を奪われ横浜にFA移籍する。既に現役晩年ながら長嶋政権での主軸打者として活躍し、95年に2000本安打を達成(前述の通り名球会入りは拒否)。96年、清原和博の入団に伴い出番を求めて自由契約となり、日本ハムファイターズに移籍。98年に引退。
生涯通算打率.311は日本人右打者の歴代最高打率。鈍足の右打者でありながら圧倒的な打撃成績を残し続けたことで、「プロ野球史上最高の右打者」に挙げられることも多い。
主なポジションは一塁手・三塁手。二塁を守っていたこともある。歴代全プロ野球選手のベストナインを選出する際には、一塁は王貞治、三塁は長嶋茂雄がいるため、本職ではない二塁手として選出される場合が多い。
監督時代
引退後は解説者を務め、2004年に中日の監督に就任。それまでコーチの経験が無かったため本人は断ろうとしたが、妻に押しきられて就任を受諾した。
就任1年目にして「補強を凍結し、現有戦力を10%底上げして日本一になる」という公約を掲げる(この年行った補強は、現役引退のはずがゴタゴタで巨人を退団した川相昌弘と、横浜を退団したドミンゴ・グスマンの獲得のみ)。また「一芸に秀でた選手を使う」という方針も掲げた。それまで3年間一軍登板の無かった川崎憲次郎を開幕投手に抜擢するなど、全ての選手を横一線で競争させることでチームを刺激。セ・リーグを制覇し、同じく1年目の伊東勤率いる西武ライオンズとの日本シリーズに挑むが3勝4敗で敗れた。
戦術としては、就任当初はタイロン・ウッズ、福留孝介などの強打者を擁し、その打撃力と川上憲伸、山本昌、岩瀬仁紀らの強力投手陣を生かして盤石な試合運びを行う、といったものであったが、その後川上や福留ら主力が相次いでメジャーなどに移籍すると、他チームを戦力外となった選手(中村紀洋、河原純一ら)の積極的な登用と投手コーチの森繁和による投手陣整備に努め、その投手力を有効に活用し少ない失点で逃げ切るという戦法に変貌していった。さらに、他チームの意表を突く戦術も多用し(所謂オレ流。主な例として2004年の開幕投手に川崎憲次郎を起用)、中日の黄金期を現出した。しかし落合が野手の出身であるにも関わらず在任中に生え抜き打者の育成は悉く失敗しており、打撃陣の成績は主力の高齢化と相まって徐々に降下していった。また、同時に2012年時点で40代の選手が実に4人も数え、(山本昌、山崎武司、谷繁元信、和田一浩)更に30代中盤を超えるベテラン選手も相当数存在するなど選手の高齢化が進んでおり今後こういった選手の成長はほぼ望めないため、落合政権以後の課題は打撃陣の強化と世代交代が喫緊の課題といえよう。
2005年は横浜からタイロン・ウッズを獲得して連覇を狙うが、この年から始まった交流戦で失速。後半に阪神を猛追するも逃げ切られ2位に終わる。
2006年は落合自身「この年が最強」と言い切るチームを作り上げ、阪神の猛追を振り切ってリーグ制覇を果たすも、日本シリーズで日本ハムの勢いの前に屈した。
2007年はシーズンは2位に終わるも、クライマックスシリーズを全勝で勝ち上がり日本シリーズへ。前年敗れた日本ハムにリベンジを果たし、53年ぶりの日本一へ導く。第5戦での山井大介の降板については物議を醸した(後述)。
2008年は波に乗りきれず3位。2009年は巨人に大きく引き離され、3位とも離れた2位独走に終わる。
2010年はほとんど補強を行わず迎え、前半戦は苦戦したが、投手陣が5試合連続完封を達成するなど巨人・阪神が失速した夏場からスパートをかけ、貧打を投手力でカバーし優勝。CS前の「全選手登録抹消」が話題を呼んだ。CSでも巨人を破り2007年に果たせなかった完全優勝を狙ったが、日本シリーズではロッテと死闘の末2勝4敗1分で敗れた。
2011年は統一球の影響からか、前年以上の貧打に陥り前半戦から大苦戦。8月の時点でも一時は5位に沈むなど、Aクラス入りすら危うい状況であった。しかし9月22日、首位ヤクルトとの直接対決を前に任期満了による落合退任が突然発表されると、チームは逆に奮起し猛烈な追い上げを見せ、ヤクルトを逆転。最大10ゲーム差をひっくり返し、球団史上初の連覇を成し遂げた。チーム打率、チーム総得点とも12球団最下位での優勝はプロ野球史上初の記録。最後の目標であるリーグ優勝からの完全制覇を目指してソフトバンクとの日本シリーズに挑み、圧倒的不利の下馬評の中3勝3敗の逆王手まで持ち込んだが、最終戦に敗れ、悲願の完全制覇はならなかった。
在任期間の成績は優勝→2位→優勝→2位(日本一)→3位→2位→優勝→優勝(連覇)と、歴代の中日監督の中でも最長政権となり、最高の成績を残した。中日球団の70年以上の歴史の中で、優勝9回のうち4回が落合政権である。8年間全てAクラス入り(しかも3位は一度だけ)、クライマックスシリーズはファイナルステージ皆勤賞。唯一、リーグ優勝からの日本一だけは果たせなかったものの、名将の称号を確かなものにしてグラウンドを去った。
人物
選手時代は生活の全てを野球に捧げており、その尋常でない練習量に関する逸話には事欠かない。ただ本人は努力を人に見せることを嫌い、カメラの前でそういった姿を見せることはほとんど無かった。また前述の通り、プロとして年俸での評価を何よりも重視した姿勢を見せ、何かと物議を醸した。
監督としては「勝利こそ最大のファンサービス」という立場をとり、勝てる試合は確実に勝ちにいく采配をした。また選手の情報(特に故障など)を公開しないなど徹底した情報管理の体制を取った。そのため、チーム状態が悪いように見えても、シーズンが進んでいくと気が付けば上位にいるということが多かった(2010年や2011年はまさにその典型である)。ただその分、明らかな捨て試合を作ることもあり、プロ野球の「興業」としての側面を軽視しすぎである、という批判を受けることも多かった。
2007年の日本シリーズにおいて、日本一のかかった第5戦、8回まで無安打無四球、パーフェクトを続けていた山井大介を降板させ、守護神・岩瀬仁紀を送り出した采配は各方面で物議を醸した。岩瀬は9回を3人で抑え史上初の継投による完全試合を達成(ただし参考記録である)。この采配は「興業」よりも「勝利」を優先する落合采配の象徴ともいえる。
ボヤキ節で有名な野村克也とは違い、滅多に選手を責めることがない。ただし褒めるわけでもなく、基本的には寡黙。負け試合では試合後にコメントを残さないことも多い。が、外野守備要員である英智が凡フライを落球した際に「あいつが捕れないなら、誰も捕れないさ」と発言したエピソードや、2006年にタイロン・ウッズが優勝を決める満塁弾を放ったときの号泣する姿など、ときおり見せる選手への信頼や愛情に溢れた言動から、ツンデレ監督と呼ばれる。
裏方やマスコットにも気を配る姿がたびたび目撃されている。ドアラとも仲良しで、よくじゃれ合っている。
無類のガンダム好きとしても有名。00も毎週楽しみに見ていた。息子の福嗣に影響され、ガンダムに限らずアニメ全般、深夜アニメまで嗜んでいる。家族揃って『CLANNAD』を視聴し中村悠一のファンになったとか。
自己流を貫き派閥的なものを嫌う性格や、その言動から、球界では何かと毀誉褒貶が激しい。たとえば『燃えよドラゴンズ』の作詞・作曲者である山本正之は反落合派で、本来その年の監督名が入る「○○監督の胴上げだ」の部分の歌詞が、落合の就任以降は「オレ流監督の胴上げだ」になっている。中日監督時代も球団上層部からはほとんど目の敵にされており、白井文吾オーナーひとりが絶大な信頼を寄せ庇っていた。2011年の解任劇も、そのあたりの事情が大きい。
野球殿堂の投票では2年続けて1票足りず落選していたが、2011年にようやく殿堂入りを果たした。
家族
妻・信子
長男・福嗣
どちらも個性的な人物で、度々ネタにされる。
この二人について金村義明は「福嗣と信子何とかしてほしい」とうっかり漏らしている。
特に一人息子の福嗣は自由奔放すぎるキャラクターから生きる伝説とまで呼ばれた。
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参照の事。
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読み:オチアイヒロミツ
初版作成日: 09/02/22 15:32 ◆ 最終更新日: 12/03/04 21:50
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