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蒋経国(1910年4月27日-1988年1月13日)とは、第6期・7期の中華民国総統、中国国民党主席、国防部長や行政院長等の要職を務めた人物である。
概要
幼い頃にソ連に留学し、人質になるが西安事件で帰国を果たす。台湾に渡ってから権力を握り、1978年に総統に就任。十大建設等の経済政策の成功により、アジアの四龍と呼ばれるまでに成長した。
その後、戒厳の解除・党禁の解除・報禁の解除と、民主化への道を開いた。独裁者でありながら、民政移管を進め、しかも暗殺されることも亡命することもなく、畳の上で死んだ稀有な独裁者である。
幼少時代
蒋経国は1910年4月27日に中国の浙江省の奉化市で生まれた。母は毛福梅で、父は蒋介石。
蒋経国は1916年には奉化の武嶺学校に入り、1919年まで学んでいた。
1917年から蒋介石の恩師でも有る顧清廉を家庭教師として漢学を重点的に学んだ。
1921年には奉化の龍津学校に入り、1922年には上海の万竹高等小学に四年生として転入する。
革命への熱意
1925年に五・三〇事件が勃発した際、蒋経国はデモに複数回参加し、退学処分を受ける。
6月には北京に渡り、吳稚暉が外国語を教える海外補修学校で入学した。その時も、蒋経国は反軍閥デモに参加し、逮捕されて二週間も投獄拘束される。
国民党員の邵力子の紹介によって、ソ連大使館に住んでいた共産党員の李大釗と知り合いとなる。その際何人ものロシア人と知り合い、ロシア人達の勧めによってモスクワ中山大学に行くことを決めた。
その後北京を発ち、10月上海から船でウラジオストクに到着し、シベリア鉄道で11月末にモスクワに到着した。
ソ連での生活
モスクワ中山大学はロシア語の他、通訳付きで中国革命運動史、唯物論哲学、資本論、レーニン主義等とコミンテルンの共産主義者が指導する革命家育成学校であった。
有名な出身者は蒋経国の同期で後に中国の指導者となる鄧小平や元中日友好協会会長の廖承志、後の国家主席の楊尚昆等と中国共産党の有力者達が学んでいた。
蒋経国はロシア語を熱心に学び、1年で鉄道労働者の集会で演説するほど上達した。とりわけトロツキーに心酔していており、しばしば校長のカール・ラデックに直接教えを請いた。後にそれがトロツキストの疑いの原因となる。
蒋経国の運命を暗転させたのは、父蒋介石が中華民国国民政府内の共産党勢力を一掃するために起こした、上海クーデターであった。その際、蒋介石を糾弾する集会に参加し、一共産主義者として父を批判するが、ソ連は彼を「国共合作を粉砕した反革命の頭目の息子」と見ていたため、蔣経国は難しい立場に立たされることになる。その後1927年4月には中山大学を卒業した。国民党籍の他の学生の帰国は認められたが、蒋経国だけは認められず、実質人質状態になった。
その後、赤軍の入隊を志願するが、研修生身分での訓練で正式な入隊は認められなかった。
1927年12月に当時レニングラードに有ったV.I.レーニン名称軍事政治アカデミーに推薦され三年間学び、その時に候補党員になる。1930年5月に卒業したが、帰国も赤軍の入隊も拒否されてしまう。同年、臨時に中山大学の中国人学生の修学旅行の引率を行った際、モスクワに帰る途中の汽車で病を患う。
10月には病が完治し、モスクワの近郊の電気工場への勤務を命じられ、工員として働いた。蒋経国は労働改善のために夜間に工学や軍事学を学び、その努力が実ったのか一年以内に管理部門から主管生産委員会副主任に昇進している。
しかし蒋経国の災難は止むことはなかった。
王明の策謀により、1931年5月にはコミンテルンの幹部が蒋経国に対しモスクワを離れるように勧告し、同年の秋にはモスクワ近郊のシコフ村という寒村に送られた。最初は農民に馬鹿にされるが、必死に田を耕すことで、農民たちの支持を得て、村の借款や農機具の購入等の交渉人として選ばれ、数カ月後にはその集団農場のトップになる。
1932年10月に転任され、シベリアの小さな駅の運搬夫として働き、1933年の1月にはアルタイ金鉱に送られた。実質シベリア送りで、追放された学生や学者技師と共に非常に苦しい生活の中9ヶ月も働き、成績優秀で10月にはスヴェルドロフスクのウラル重機械工場に異動した。翌年1934年には副工場長にまで昇進し、工場新聞の編集長に就任した。1935年には工場の女工であったファイナ・イパーチエヴナ・ヴァフレヴァ(後に蒋方良に改名)と結婚し、12月には長男蒋孝文が生まれた。だが、1936年の9月には副工場長と工場新聞の編集長の職を追放され、その上候補党員資格も剥奪される。
翌年2月にはソ連共産党スヴェルドロフスク州大会において、蒋経国は日本のスパイでかつトロツキストであるという疑いをかけられて糾弾される。しかし、スヴェルドロフスク州の党書記の保護により追及を免れた。
3月にモスクワに来いと至急電報が届き、モスクワに訪れると、蒋経国の中国への帰国が許可された。その背景としては、西安事件(反共を優先し対日を後回しにしようとする蒋介石の政策に不満を持つ国民党内の者たちによって蒋介石が誘拐され、共産党指導者と面談させられた事件)によって国共合作への目処が付き、人質の意味を失ったからである。
以上のソ連での経験は蒋経国にとって非常に重要なものとなった。その後もソ連的な政治手法を用いたりと、彼にとってはソ連は第二の故郷と言えるものであった。
中国への帰国から台北遷都まで
1937年4月には蒋経国は中国大陸に帰国するが、すぐに父蒋介石に面会することは出来ず、蒋介石の側近であった陳布雷が仲介に入ることで二週間後に面会が許された。
蒋介石は反共主義かつロシア嫌いが激しい人物な上、蒋経国がモスクワ中山大学在学中に父を革命の敵と罵った過去や、候補党員だったとはいえ一時はソ連共産党の党員だった事を考えると、父子の間がそう簡単にはいかないのは当然の事である。
父と面会した後、故郷の奉化に行かせ、そこで中国式の結婚式を行わせ、王陽明全集や曾文正家書を読ませ、字の練習を行わせた。特に孫文の教えを入念に読むように言い聞かせていた。
その際、ロシア時代の感想文を書かせるが、蒋経国はロシア時代が長すぎて中国語が分からなくなっていて、ロシア語で感想文を書き、これを「中国語に翻訳してほしい」と言い蒋介石を呆れさせた事があった。その後何ヶ月もかけて中国語で感想文を書き終えた。
蒋経国の初仕事は1938年の江西省南昌で保安部隊の訓練といった事で、翌年1939年には江西省南部の贛南の県長兼行政督察専員として赴任する。1940年には三年計画を立て、阿片、賭博、私娼の取り締まりの徹底化に社会主義的な生産形態の統合や税制一本化を推し進めた。蒋経国は公私分別を自ら徹底化し、住民の意見をよく耳を傾けた。住民からは「公正無私」や「蒋青天」と好評だった。
1943年には12月には三民主義青年団中央幹部学校教育長として重慶に赴任し、1945年には外交部長の宋子文率いる国府代表団の蒋介石の代理としてモスクワで中ソ友好同盟条約の交渉に携わった。
1945年には、東北部に駐留するソ連軍の撤退と東北部にある施設等の接収を行う交渉人として国民政府軍事委員会東北行営外交部特派員を務めるが散々な成果で、中国共産党の浸透を許し国共内戦の敗因の一つとなる。
1948年には上海で経済監督官として派遣され、インフレ抑制の物価統制や財政界の不正を暴きに専念した。「蒋経国の虎狩り」として恐れられるが、蒋介石の妻(すなわち蒋経国の義理の母)であった宋美齢の介入によって不徹底に終わり、改革も失敗に終わった。
その後、台湾省党部主任委員として台湾省主席の陳誠と共に台湾への撤退の下準備を行う。その際、南京に有った中央銀行の金塊を台湾に移送した。
1949年12月10日に蒋介石と共に成都から飛行機で台北に向かった。中国大陸の土を踏むことは二度となかった。
裏の顔として
蒋経国は1950年7月に蒋介石によって中国国民党改造方案で中央改造委員を第七回中央委員会まで従来の中央執行委員会や中央観察委員会の代行を行うという臨時的な決定をし、蒋経国は序列12位となった。
その後、1952年の第七回中央委員会で蒋経国は中央常務委員の序列2位と後に蒋経国系(太子系)の派閥が台頭する。
表向きは中国青年反共救国団主任で、青年組織の指導者としていたが、裏の顔は特務(秘密警察の中国語読み)の長であった。
最初は1949年の12月に政治行動委員会の統括から始まる。政治行動委員会は、国防部保密局、内政部調査局、憲兵司令部、国防部第二庁、台湾省警務処、台湾省保安司令部等の情報・治安機関のトップを委員とし、バラバラだった特務工作の指揮系統を単純化するものだった。
この組織は性質上秘密だったが、命令や報告を潤滑に行う為総統府機要室資料組として改名され、蒋経国はその主任となった。蒋経国は表向きは最高の地位にあったわけではないが、蒋経国の署名が有れば、特務機関のみならず党や行政機関でも通用した。総統府機要室資料組は24の組織をコントロールし、対象組織は党、行政院、軍と幅広い事から、「小型の行政院」「地下の小朝廷」と言わしめるほどの権力を有していた。
それのみならず、国防部政治部の主任を勤め、51年には政工幹部学校の設立に大きく関わる。蒋経国は軍への関係を強くすると共に影響力を強くしていった。
1957年に起きた、米兵により台湾人が殺害されたことを契機に台湾とアメリカの間で緊張が走った「劉自然事件」でも特務の本領を発揮している。この事件を受けてデモ隊がアメリカ大使館を襲撃した際、機密文書や外交暗号の略奪が行われており、米国側もただの暴徒ではなく蒋経国の率いる特務の仕業と推定していた。それが蒋介石の逆鱗に触れ、アメリカに対する配慮なのか、それ以降蒋経国の出世は一時抑えられる。
6年の謹慎期間
前述のように劉自然事件によって、蒋経国はアメリカの圧力をかわすために大きな動向が出来なくなった。
その後彼は6年の間は行政院国軍退除役官兵就業輔導委員会の主任として務めていた。
この組織は元々、アメリカが国軍の精鋭化の為老兵の排除を求めたことから始まった。だが老兵の大半は大陸から来た者が大半で、教育水準が低く、まともに就労出来そうもなかった。そのまま除隊させようものなら治安に大きな問題を与えるのは明白であったため、アメリカが4200万ドルの援助を行い、退輔会の活動する原資とし、退役軍人達に仕事を与えて彼らを養う事にしたのであった。
1954年に発足し、蒋経国は副主任委員を務め、1956年の4月には主任に就任し1964年の6月末まで務めていた
1963年には53年以来の2回目の訪米をした。1964年には国防部副部長に就任し、翌65年には国防部長へと出世する。このように謹慎は解け、以後出世街道の道を歩むのであった。
行政院長就任
1972年に行政院長に就任し、万年国会(大陸地区での選挙が不可能なため、その選挙区の議員が改選されず議会に居座り多数を占める状態)による本省人の不満解決のため、自由地区の議員定数を大幅に増加させた上で、自由地区選出の議員限定だが改選を認めた。大陸地区の改選は行われない為万年国会は完全には解消しないが、国民の不満を和らげるのには役立った。
次に、本省人の閣僚の抜擢を行い、今まで3名だったものを倍の6名に倍増している。その際、李登輝も抜擢され、政務委員として最年少での入閣を果たしている。また、半山(日本統治時代に中国大陸に渡り国民党に協力した台湾人)とはいえ謝東閔が台湾人初の台湾省主席に選出され、1978年には台湾人初の副総統に就任している。
1975年の4月5日に蒋介石が亡くなった後、副総統である厳家淦が総統に就任した。
そして国民党「総裁」を蒋介石だけの名誉職とし、代わりに蒋経国は4月28日に国民党「主席」のポストを就任する。
蒋経国の主席就任の際に、厳家淦総統が蒋経国の自宅に訪問し、流石に蒋経国は「私のほうがご挨拶に伺うべきなのに」と恐縮したと話がある。厳家淦はお飾りの総統であって国民党主席の方が偉いという、党国体制を示したエピソードだろう。
総統就任
1978年に厳家淦から蒋経国に中華民国総統が変わり、蒋経国は中華民国の指導者としての名実を獲得した。
最初の難題は中華民国の生命線でもあった米国との国交断絶である。
1971年のニクソン訪中やアルバニア決議等でアメリカとの国交断絶はXデーとして考えられていた。アメリカが中華人民共和国との国交を結んだという緊急事態を収束するために国家緊急権を発動し、選挙と選挙活動が中止された。それに反発した党外人士達は無許可デモを行った事で美麗島事件が起こった。それに対して警察による鎮圧を行った。
在米の台湾民主化運動家のロビー活動をうけ、自由主義の旗手を自認するアメリカから人権侵害を止めるよう圧力がかかった。アメリカの機嫌を損ねることを恐れ、蒋介石時代のような強硬的なやり方は不可能になった。自由中国という称号に見合う様、裁判も公開されるようになった。
国民党政権を維持するためには、国民党を台湾に根付く様にしなければならない。その為には、台湾人の支持が必要だった。野球帽にジャンパーといったカジュアルなスタイルで、地方の住民と親しく話す地方視察を行うことで、国民からの支持を集めた。今でも野球帽にジャンパーのスタイルで視察を行う政治家が居ることから、成果を上げたのは間違いないだろう。
十大建設
蒋経国が行政院長を務めていた1973年11月に発表されたプロジェクト。
最初は九大建設
①南北高速道路(中山高速公路)
②北廻線鉄道の敷設
③西部縦貫鉄道の電化
④桃園国際空港の新設
⑤台中港の造港
⑥蘇澳港の拡大
⑦中国造船の創設
⑧中国鉄鋼の創設
⑨石油化学プラントの建設
と呼ばれていたが、後に
⑩原子力発電所の建設
が加えられ十大建設と呼ばれるようになった。
この開発独裁のスタイルは蒋経国の歴史的評価を高く上げる事になった。
民主化への道
前述されているように、民主化を求めるアメリカの圧力に抗しきれず、特務による恐怖支配は縮小せざるを得なくなった。世は冷戦時代ただなか、アメリカとの関係が悪化すれば国家存亡すら危うい時代である。
蒋経国自身は息子への世襲を否定し、「私も台湾で暮らして40年になる。台湾人の内に入るだろう。」と自分は台湾人という認識を発表し、国民党や中華民国の本土化路線を表していた。先代の蒋介石は生涯中国人という認識を有していたのと真逆の事象であった。
蒋経国には三男一女がいた。当初は後継者として育成するつもりであったようだが、
- 長男の蒋孝文は酒や煙草に溺れる生活をしており、素行と健康状態の悪さもあって後継者から脱落した。
- 次男の蒋孝武も酒癖煙草癖が悪かったが、党営のラジオ局である中国広播公司の代表職を務めるなど切れ者のイメージも有って世襲の噂があった。しかし江南事件(蒋経国を批判する「蒋経国伝」の作者・江南がアメリカで暗殺される事件)で暗殺を実行した特務との関わりが発覚。アメリカとの関係悪化を恐れた蔣経国が彼を駐シンガポール商務団の副代表に左遷した事により政治生命が断たれた。
- 三男の蒋孝勇は政治嫌いで当初経済界に進んだ。兄二人が失脚したため政治家に転身するも、時すでに遅く、また前述の世襲否定発言もあって後継者指名を受けられなかった。蔣経国の死後、李登輝との権力闘争に敗れ、カナダに移住した。
- 長女の蒋孝章は早々にアメリカに留学し、そこで結婚・永住した。政界に参入することはなかった。
1987年には(世界最長の)38年間続いた戒厳令が解除され、結党禁止も解除されたことにより、1986年の結党以来黙認状態だった民主進歩党も正式に合法化された。
1988年の元旦には、新聞の創刊を新規承認や新聞ページ数の増加といったメディア規制解除が行われる。
彼の民主化は不完全で、完全な民主化は李登輝によって行われる。しかし李登輝が完全な民主化を行える土壌を作ったのは蒋経国であった。
評価
国民党内では十大建設や民主化への道を開いたことで評価が高く、弾圧されていたはずの民進党内においてすらあまり否定的に評価されることはない。
台湾でも一番人気の高い総統と呼ばれており、2007年のTVBSの世論調査でも49%と、2位の李登輝の12%の大差を付け1位である。[1]
中国共産党でも、彼が亡くなった時に弔電を送っており、機関紙の人民日報の記事では「蒋経国逝世(蒋経国は亡くなった)」と丁寧な表現を使用した。そこには同窓にしてライバルだった、当時の共産党重鎮・鄧小平の思いが見て取れる。
蒋介石が亡くなった時に「蒋介石死了(蒋介石は死んだ)」と罵倒する内容の記事を書いた時とは大違いである。当然ながらその時弔電も送っていなかった。中華民国側も毛沢東が亡くなった時には毛沢東を罵倒する記事を書いているのだが。
習近平は蒋経国の梅花餐を参考にした四菜一湯を掲げたり、蒋十項(政府の綱紀粛正を定めた訓令)によく似た習八条(党・政府の職務規定)を定めたり、マレーシアでの会見で蒋経国の座右の銘を引用したりと蒋経国を参考にしているのは間違いないだろう。
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