藤原秀郷(?~?)とは、平安時代中期に活躍した武者であり、軍事貴族秀郷流藤原氏の祖にあたる人物である。
伝説の将軍・俵藤太として名高いが、源頼光と同様に時代を経ていく中で英雄としての性格付けをなされていったもののようだ。
軍事貴族・藤原秀郷
9世紀ごろに坂東の群盗退治のために、賜姓貴族をはじめとした王臣貴族が多数東国に向かった。このような存在は高望流桓武平氏や経基流清和源氏が極めて有名だが、それに先立つ存在として、嵯峨源氏、南家黒麻呂流藤原氏、南家為憲流藤原氏、北家利仁流藤原氏、そして北家秀郷流藤原氏がいたのであった。
藤原秀郷は左大臣・藤原魚名の子孫であり、魚名の息子・藤原藤成以来、鳥取氏などの現地の豪族と数代にわたって交わっていき、下野に土着していった一族の出身とされる。そんな彼が最初に歴史上に現れるのは916年、秀郷の配流を命じられたにもかかわらず、それを国司が実行できていない、という記録である。さらに929年にも下野国から秀郷の濫行が訴えられており、秀郷は実のところ一歩間違えば後の平将門とさほど変わらない存在であった。
しかし、状況は変わる。940年の承平・天慶の乱、つまり将門の蜂起である。これに対し毒を以て毒を制すというわけで、平貞盛ら反将門の桓武平氏や国衙の藤原為憲に加え、藤原秀郷ら現地の地方軍事貴族が対将門のために押領使に任じられたのである。秀郷はこのころすでに高齢であったと思われ、老練な計略を駆使し見事将門の退治に成功した。その功績は称えられ、平貞盛の従五位上と比べても高位の従四位下に任じられたのであった。そして彼は下野守や武蔵守を歴任していったのである。
………実は歴史上の彼本人について書けることはこの程度しかない。
鎮守府将軍・秀郷流藤原氏
その後どうやら藤原秀郷の一族は醍醐源氏源高明と結びついた。……そう、源高明に従い中央で活動していた秀郷の息子・藤原千晴の一門は安和の変でともに失脚してしまったのである。この安和の変は中央で天皇の外戚をめぐる北家藤原氏と醍醐源氏の争いの決着として説明されることが多い。しかしこれに絡んでくるのが源高明が陰謀を企てたと密告した清和源氏・源満仲である。実は、この背景には彼を筆頭にした他の軍事貴族と秀郷流藤原氏との、坂東での権益をめぐる争いと連動していたのである。そしてその結果秀郷流藤原氏は中央での武家の棟梁としての躍進の機会を失い、各地に散らばっていくのである。
そしてその結果得た官職が代々受け継がれる鎮守府将軍、つまり資源豊富な陸奥の権益であった。記録上は秀郷の孫・藤原文脩からしかその任にあったことが確認できないが、系図上は藤原秀郷までさかのぼることができる、まさに秀郷流藤原氏にのみ許されたステータスシンボルだったのである(実際のところは貞盛流桓武平氏と争っていたのだが)。一方中央での栄達の機会を失ったとはいえ、京で武者として活動を続け、武芸を継承していく一門もあった。
こうして秀郷流藤原氏の中から武藤、佐藤、首藤、後藤、近藤、尾藤といった一門が中央で官人や武芸者として活動していく一方、本拠地とされる下野に根ざした藤姓足利氏、奥州に進出した奥州藤原氏、そして治承・寿永の乱でそれらを打ち倒し、見事秀郷流藤原氏の嫡流と認められた小山氏が現れるのである。
さらに藤原秀郷は鎮守府将軍の名とともにこうした人々の憧憬の対象として伝承がつむがれていき、室町時代になるとすっかり伝説の将軍・俵藤太として、秀郷流藤原氏のシンボル・レガリアともいうべき存在になったのであった。
伝説の将軍・俵藤太
説話の中の英雄・俵藤太のイメージは、前述したとおり「俵藤太物語」といった室町時代の御伽草子に至るまでに組み立てられていった。その内容は以下のとおりである。俵藤太は東国へ下る際、近江の瀬田の龍神に三上山の百足退治を依頼された。藤太はその依頼を見事に成功させて鎧と剣を獲得し、それらは三井寺に寄進された。そして平将門が反乱を起こすと三井寺に先勝祈願に行き、知略をもって見事将門を退治した、というものである。
また秀郷流藤原氏の本拠地とされる下野には百目鬼退治の伝承が残る。
このような説話はここまで見てきたような歴史的事実をある程度反映させ、小山氏を筆頭としたその子孫のステータスとしての祖先礼賛や、秀郷流藤原氏の武芸が広まった東国の御家人らの藤原秀郷への憧憬によって生み出された伝承などが合わさっていき、誕生したのである。
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