街娼単語

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本記事は売買春行為、及びそれを元にした創作作品に言及する都合上、直接的・間接的に性的な表現が頻出します。
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街娼 (英:Street Prostitution) とは、公共の場所で客引きや価格交渉を行う売春形態、あるいはその婦をす (こちらの場合は英:Street Girl) 。

世界中で有史以来見られる売春形態であり、2024年現在でもなお世界中いたるところで行われており、日本もまた例外ではない。

概要

街娼は後述するように古代ギリシャの時代から存在し、現代でも行われている有史以来存在する売春形態である。売春宿や風俗店などに所属していない婦が広場や路上で客引きを行い、価格で合意すれば行為に及ぶというもの。

古代では政権や教会、領が認めたは基本的に的に定められた売春宿に所属していたため、街娼をやるような婦はえてして私であった。私の多くは税の取り立てから逃れやすかったことや、性感染症の流行リスクを高めるために有史以来規制されることも多かったが、一定の要件を満たしていれば認あるいは黙認されるケースもままみられる。街娼は必ずしも若いとは限らず、30 - 50代の女性もしばしば街娼としてに立ち客を引く。これは古代から世界で変わらぬ実態である。若く見たがよい女性は店で客を取ることができ、時代によっては為政者や貴族の寵を受けることさえあったなかで、それができないからに立つ婦が多いのである (論若くルックスのいい街娼も多くいるが) 。

街娼は婦全体の1 - 2割に過ぎないと言われているが、逮捕される婦の8 - 9割は街娼であると言われている。これは、街娼行為が売春行為が合法のでさえも違法であることが多いためである。

現代日本でもホストクラブへの高額の支払いのために街娼 (俗に「立ちんぼ」と呼ばれる) を行う女性が後を絶たず、税金の申告漏れや梅毒の流行の因として、パパ活頂き女子と並び問題になっている。

世界の街娼の事例

古代ギリシャ

古代ギリシャでは、女は基本的にの中におり、外に出るどころかの外を見ることさえいかがわしいことであるとされていた。客人が来ても客の前にすら出ることは慎まれた。必然、男たちは普段女性と話すことはなかっただろう。そんな彼らにとって、女性と話す機会というのは遊女とのみ存在していた。

中でも高級婦であるヘタイラは自分が客人を選べる立場におり、ソクラテスと懇意にしたヘタイラもいるほど教養に溢れていた。ペリクレスアスシア政治にさえ口を出し、アテナイラミア遊女という立場でありながら格化さえされ、人々の信仰を集めたのだ。しかし、女性の美しさは年を重ねることで失われてしまう。やがて彼女たちは客を取れなくなると下級婦として館に身を落とすか、頭で客を取るのだ。館の婦は最下層の存在としてポルノイと呼ばれ、街娼はまだ頭で客を取れるだけマシな存在として一応はポルノイの上位にいたようだ。

近代ヨーロッパ

ドイツヴィルヘルム時代は産業化による生活スタイルの変化、そして出生率低下・死亡率の上昇といったことから性に関する事柄が社会問題として認識されつつあった。その中で、レックスハインツェ事件と呼ばれる強盗殺人事件を起こしたハインツェ夫婦売春旋業と婦だったことで、皇帝自ら政府婦と売春旋業者への法的処罰をより厳しくせよと命じたことで、いよいよ婦の生活はかなり制限され、的な管理売春制度が成立をみた。

といっても、そんな制限を受けたなかでになろうという女性はすくなく、大概はモグリの婦として頭で客引きをすることのほうが多かった。そして彼女たちは道徳逸脱した存在として醜業婦のレッテルを貼られたと同時に、性感染症の感染としてもみられるようになっていく。


オーストリアハンガリー帝国プラハでは、19世紀後半頃は館が立ち並んでいたというが、20世紀初頭にはどんどん減っていった。これは、館が地域住民の反対を受けたことや、立していたヨゼフォフ地区の再開発が要因である。第一次世界大戦前の時点では4分の1にまで減っていたが、登録された館で働くが減っただけで、プラーター公園で客を引く街娼をはじめとした私が増加したという。

彼女たちは国家からすると、性感染症の感染として注されており、逮捕して強制的に検を受けさせたりしていた。社会の除け者であった婦たちだが、とりわけ私第一次世界大戦がはじまるとナショナリズムからくる憎悪が向けられ、国家の敵やスパイとみなされることも多かった。

現代

ヨーロッパ

イギリスにおいては、売春行為そのものは合法となっている。しかし街娼は認められていない。この法律に反して街娼は多くおり、その多くは貧困によるものである。生活費が増大するなか、人員整理などを受けたり元々低賃の労働にしかありつけなかった女性たちが選ぶ副業として、街娼は魅的であるとも言われている。

かしこの街娼行為が犯罪であることで、かえって女性たちは支援を受けられず危険にさらされていると摘する団体がある。いつの世もそうであるが、婦を問題視すればするほどセックスワーカーはより差別を受け、より危険な状況に置かれるものである。犯罪である以上その場でどんな取り扱いを客に受けたとしても言い出せなくなるため、かえって買う側が有利になってしまうのだ。


フランスでは街娼行為は2003年に禁じられた。フランス売春宿そのものも違法化しようとしていたが、貧困に喘ぐ中国人婦の反対デモをうけて頓挫することとなる。とはいえ、中国人婦たちは中華料理店の中国人たちからは恥ずかしいものとして同胞扱いされていないようだ。

サン・ドニ通りではフランス人自身も街娼を行っている。婦の靴へのこだわりは大きなものであり、靴を見れば婦のランクがわかるのだという。


オランダでは街娼行為ができるエリアが4都市に設けられており、免許を持っているならば街娼を行うことができる。

オセアニア

オーストラリアでも売春免許を持っていたとしても、ニューサウスウェールズ州を除き頭で価格交渉をすることは禁じられている。街娼行為が認められているニューサウスウェールズ州でも学校の近傍などでは街娼は禁じられている。


ニュージーランドでは2003年まで売春に関わるあらゆる内容が禁じられていた (売春行為そのものを規制していたわけではないが、売春することで何かしらの法を犯すことになったということである) が、2003年の法正で売春は非犯罪化され、街娼も認めらている。

アジア

日本に関しては後段で述べるため、ここでは割愛する。


中国では風俗店や売春への共産党の弾圧が強いものの、それでも売春宿は何かしらの店に偽装して存在している。2010年代後半の不気を上海の町にも街娼が立つようになり、アフリカに出稼ぎに出る街娼も増えているという。上述のフランスのような事例もある。

逆に同じ中国でもマカオでは中国本土や諸外から街娼を的にオーバーステイする者たちが後を絶たず、しばしば検挙されている。


韓国では2004年に性売買特別法が施行された。これにともないかつて見られた街娼は立つ存在ではなくなったとされている。ただし摘発されるのはに街娼のほうであり、客サイドはあまり捕まらないようだ。街娼は逮捕されることや逮捕を避けるためのコストがかかることから海外へ行くようになったとされている。

街娼の日本史

江戸時代より前

平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄 (931 - 938?)』には既にに性を売る「( やほつ ) 」という存在が掲載されている。この発は遊女と区別され、に遊行するものが遊女に性行為を行うものが発とされていた。つまりこの辞典では遊女婦の意はなかったということになり、事実遊女や傀儡女がが美しく歌舞に優れ品もよく教養もあるなど現代の婦に対するイメージとは逆の存在としてられている。平安時代には他にもに舟を浮かべた婦がいたことがわかっており、後述する舟饅頭につながると言える。また、室町時代にも立君と呼ばれる路上で誘客する婦がいることがわかっている。

しかし江戸時代より前の婦をと私にわけることはそもそも難しいことでもある。というのもこの時点ではあまり区別と呼べる区別はなく、教養と品格があり歌舞に優れていれば貴族や武に寵されることもしばしばであり、そうでなければ卑賤な婦扱いというグラデーションのある存在であった。他べると日本制を導入するのが遅かったのである。

江戸時代

饅頭に餡もなく、羽根はなけれども

平賀源内志道軒伝』より

江戸時代に入る頃にはさまざまなところにいた婦 (散) はやがて吉原などの幕府が認した遊郭に集められた (集) 。ここにおいて、遊郭に属さない婦は私となり、その私の中でも場所などに属することもなかった者が街娼と呼んで差し支えない存在だろう。

江戸時代には「( よたか ) 」と呼ばれる街娼がいた (江戸での呼称であり、京都では君、大坂では惣白湯文字と呼ぶ) 。現代の街娼は外で客を捕まえても、実際に行為に及ぶのはラブホテルなどであるが、は常に茣蓙を抱えて歩き、物陰にそれを引いてその上で行為に及んだとされている。また、その行為に対する報酬は掛け蕎麦1杯と同じ24文とされ、現代の貨幣価値に換算しても350円程度だったとされている。

言わずもがな遊女としては最下層の存在であり、であった吉原の代が現代の貨幣価値換算で数万から数十万、に至っては万単位がザラであったわけだから、それと較すればあからさまに破格値といえよう。現代の街娼の場合、破格値と呼んでいい値段設定が「ホ別」、つまり行為を行うホテル代を除いても1万5千円であり、値段に約42倍の開きがある。

行為を行う女性15歳から40歳程度と幅があり、中には60をえる老女もいたという (むしろ若い女性は稀であった) 。こうした女性たちは年齢をごまかすためにく染め、白粉で顔の皺を隠したが、それでも石川望の著『都の手ぶり (1809)』では「みぐるしうきたなげなり」と評された。なお梅毒が削げ落ちた女性たちも多かったとされており、感染でもあった。遊郭場所では通用しない身なりでありながらも、体を売るより他に食べるすべがない女性たちが、薄給の下級武士や町人を相手にしていたわけだ。

ちなみにトラブル対策として付き人の「夫 (ぎゅう)」がいたとされる。夫は遊女屋で客引きをする男性の役職名でもある (漫画鬼滅の刃』の妓夫太郎後者。) 。


江戸時代にはもうひとつ、特筆すべき街娼がいる。街娼といっても路上ではなく、水上で誘客した舟饅頭である。舟饅頭江戸運を利用しての袂に舟を止め、岸辺をいく男たちにをかけたという。

なかでも江戸の有名人になった舟饅頭のお千代は「ぽちぽちやおちよ」とられ、人気があったとされている。「舟饅頭は気楽な暮らし」という諧謔も見られるが、実態は頭に見られながら舟に閉じ込められた過酷な遇であったともされている。

幕末 - 明治・大正期

明治政府遊郭等の館に身売りされ年季奉を行っていた解放 (1872)で解放すると、貸座敷渡世規則・規則 (1873) および私取締条例 (1873) を相次いで制定し、売春国家管理を推し進める。この国家管理において、それまでの「身売り」されて「不本意に」働く婦はいないことになり、売春責任はただ婦にあるというイデオロギーが見られることが摘されている (参考exit) 。にせよ私にせよ、体を売るより他に稼ぐ宛のない者が江戸時代に続きなお多かったとされるが、それに対しての見方がより差別意識に満ちたものになってしまったということになる。後に運動が勃するが、倫理風俗衆衛生の観点からを地域社会から一掃すべきであるという議論から来るものであり、当時輸入された西欧的な価値観に基づき婚外交渉を罪悪と看做し、不定と性病蔓延の元の『醜業婦』として批判する運動であった (東京婦人矯会がとりわけこのの代表格である) 。


では、そのような世論の悪化で街娼はいなくなったのか?論そんなことはなく、同様に批判にさらされていた遊郭戦前まで存続していたように、あるいはなんだかんだで私取締条例からお溢しされた銘屋の酌婦やカフェーの女給がいたように、街娼もまた存在していたことがわかっている。

背景にあったのは都市人口の増加であり、都市下層民が増加したことで需給両面から街娼が栄えるきっかけとなった。また、開港地である横浜外国人を相手にした「テンセン・オーライ」と呼ばれる街娼も現れる。この名前は対価が10銭であったことから来ている。その後上級員を狙って身なりの良い高級街娼が出現した他、銀座などの繁で相手を取る洋装の「ストリートガール」も存在しており、こうした高級街娼は誘客にカフェーを使用したり、路上ではなく待合や館を利用して接客を行ったとされる。このあたりは2022年頃から盛んになった大久保公園の街娼と非常に近い。

第2次世界大戦後

パンパンガールは総体に明るい。売笑窟に定住してゐ婦にべて、暗さといふものがどないし、( すさ ) み方もすくない。論荒みはあるけれども、婦の荒みと全然異るもので、インチキ・バアの女給よりも、邪気であり、明るい。

坂口安吾パンパンガール』より

第2次世界大戦で敗戦した日本連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の統制下に置かれた。このとき進駐軍兵士相手に売春を行っていた街娼はパンパンと呼ばれた。インドネシア語の「プルンプァン (女)」とも、女性を呼ぶ合図として手をいていたからとも諸説言われているがはっきりしない。

上野( ノガミ ) 新宿( ジュク ) 有楽町( ラクチョウ ) をはじめ東京では3万人、6大都市で4万人のパンパンがいたと言われていた。中でも白人を相手にするパンパンを「白パン」、黒人を相手にする「黒パン」といった用を始め、さまざまな隠語でやり取りをしていたとされ、これを「パングリッシュ」と呼んだ。

パンパン市民運動からも「醜業婦」と問題視され、婦人活動家からもあまりいいでは見られてこなかった。また、梅毒の感染としてGHQも「パンパン狩り」と呼ばれる摘発を行い続けた。

なお厳密にはパンパンのすべてが街娼というわけではなかったらしく、上級将校と愛人契約を結んだ「オンリーさん」と、街娼として営業する「バタフライ」という区別があったようだ。もっとも、多くのパンパンは (そちらのイメージが後世にり継がれるように) バタフライであったわけであるが。

昭和後期 - 平成・令和期

こうしたなか、パンパンをはじめとした売買春を取り締まる的で売春防止法 (1957) が制定された。同時期にはパンパン以外にも線区域と呼ばれる地域で街娼が活動していたが、取締後もなお8000人程度の街娼がいたとされている。当時の街娼の活動地域は二幸新宿店 (現・アルタ) の裏、町、歌舞伎町港区青山、新といったエリアだったようだ。

かしこの後テレフォンクラブブーム女子学生がテレクラに集まった。1980年代後半 - 1990年代のころである。しかしテレクラが問題視されると女子学生はテレクラ離れをお越し、新宿コマ劇場 (現・新宿東宝ビル) の前で街娼をはじめるようになる。彼女たちは俗に「立ちんぼ」と呼ばれており、新宿歌舞伎町のありきたりの風景となった。

その後歌舞伎町韓流ブームで新大久保へ向かうマダムなどが行き交う明るいエリアへと様変わりを見せ始めていたが、そのなかでも外国人の街娼が活動していた。

2020年代になると再びこのエリア――コマ劇場前から「新宿東宝ビル」の横ということで『トー横』と呼ばれる――に行く宛のない若者たちが集うようになり、ホストクラブなどで借を作って、大久保公園 (交縁と俗称される) で街娼をはじめるようになった。つまり日本人の街娼が戻ってきたことになる。彼女たちは俗に「交縁女子」と呼ばれるほか、単に「立ちんぼ」と呼称することもある。交縁女子自体は2021年以前にもいたものの、立つようになったのは2022年頃。パパ活の延長線上で「交縁」に集うようになった者も多くいるといい、そこから男性と繋がって歓心を買いつつ、の窮状で銭を要する者 (いわゆる『頂き女子』) もいることが摘されている。また、2020年代梅毒の流行の原因ではないかとも言われている。

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街娼

1 ななしのよっしん
2024/04/17(水) 21:33:57 ID: y8AswJf3k6
今も昔も性の営みは変わらんな
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