「袁渙」(エンカン ? ~ ?)とは、三国時代の政治家であり、持ち前の冷静さと度胸で人中の呂布の脅迫に屈せず、劉備→袁術→呂布と流浪した後にめぐり合った曹操の旗下にて重職を歴任して統治に貢献し、病死した際に曹操が泣いて死を悼んだとされるもっと評価されるべき逸材である。
字(あざな)は「曜卿」。
※三国志に登場する「袁」姓の人間は残念な者が多いが、袁渙はマイナーながらも非常に優秀である。
正史では
豫州陳郡扶楽県の出身で、後漢の司徒「袁滂」の子に生まれる。袁紹や袁術と同姓であるが、あちらは汝南を本籍とする汝南袁氏で、袁渙は陳郡を本籍とする陳郡袁氏なので系譜としては異なる。
実子は「袁侃」「袁寓」「袁奧」「袁準」。
若い頃から地方の行政官として辣腕を振るい、悪質な官吏を追放する等して善政を務めていたところを、劉備に見出された。
その後、劉備と呂布が戦った際に非難した先において袁術に仕えるようになり、常に正論をもって事にあたる事から袁術から厚遇されていたが、袁術の軍が呂布に敗れた際に捕虜となり、呂布に仕える事になった。
ある時、呂布から劉備を罵倒する文書を作成するように命じられると、袁渙は断固たる姿勢で断りつづけ、ついには呂布は武器をつきつけて「いいから書け!」と脅すと言う、普通の人間なら言う事を聞いてしまわざるをえない状況にまで追い詰められたものの、持ち前のクソ度胸で顔色ひとつ変える事なく、
他人を辱めるのは文書ではなく、その人の徳が高ければ対立する者が辱められるのです。
呂布が曹操に滅ばされると、元呂布軍の者達が曹操に平伏する中で対等の挨拶を行い、曹操が物資を分け与えた際は、他の者が車が一杯になるまで物資を詰め込んだのに対して、物資を車一杯に積み込んでもまた軍に取り上げられるだろうと判断した袁渙は、書物数百巻と僅かばかりの食料のみを受け取り、劉備・袁術・呂布に続いて曹操からも高い評価を得た。
その後は、曹操の元に落ち着き、沛郡南部都尉から梁国相、諫義大夫兼丞相軍祭酒そして郎中令兼行御史大夫事を歴任し、若い頃から変わらない仁愛の政治と清貧さが民衆の心を掴んで、魏の領内統治に貢献した為、袁渙が病死した際には、曹操は涙を流して仁愛とクソ度胸を貫いた秀才の死を悲しんだ。
演義では
三国志演義には登場しない。
※その他「袁渙」についての詳細はWikipediaの該当項目参照
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補足
能力一覧 | 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 陸指 | 水指 | 身体 | 運勢 |
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