概要
民主党・改革クラブなどに所属し、衆議院議員を5期16年務めたが、2009年の総選挙で落選。そして2012年の総選挙にて衆議院議員として返り咲きを果たしている。
戦後体制に否定的評価を下すだけではなく、戦前への回帰こそ望ましいと明言する希有な政治家である。具体的には、日本国憲法無効論による大日本帝国憲法の復活(憲法の有効性を前提とした改憲論を否定)、核武装の積極的検討、12ヶ月間の国防訓練義務と国軍の創設、教育勅語の復活と全教員の自衛官出身者化、日本の戦争責任の完全否定(ただし「勝てたはずの戦争に敗れた責任」と言う意味での「戦争責任」は問う)などを提唱している。
これらの主張を見てもわかるように、政界では最右派に位置する議員の一人として知られていた。また台湾の独立派や拉致被害者の支援にも熱心であり、議員職を失った現在でも彼らからは強い信頼を寄せられている。
ちなみに本名は「西村眞悟」だが、「眞」が常用漢字でないため「西村真悟」と表記されることも多い。
経歴
国政進出以前
1948年7月7日、大阪府堺市にて衆議院議員・西村栄一の四男として生まれる。
父・栄一は、戦前は堺市議などを務めながら大東亜共栄圏設立に奔走し、戦後は反共主義者として「自民党より右」と言われた政党・民社党の中心人物となり、同党の委員長まで上り詰めた筋金入りの右派政治家だった。
この父の薫陶もあっていわゆる「戦後教育」の影響はあまり受けず、既に小学生時代には日本の戦勝譚を誇りに思い、反戦映画を浅薄と断じる感性を身に付けていた。大教大付属天王寺校を出て一浪後京都大学法学部に入学してからも学生運動には見向きもせず、山に登ったり武術を学んだりして過ごしていたという。
大学4回生の時に父が死去し、地盤は従兄の章三に引き継がれた。翌年から司法試験を受験し始めたが落第続きで、8回生まで粘り、さらに司法浪人を続けても合格には届かなかった。その後神戸市役所に就職、民社党元衆議院議員・岡沢完治の長女と結婚し家庭を築いてからも勉強を続け、34歳にしてついに司法試験に合格する。
修習後は弁護士として活動。実父・義父・従兄が揃って民社党衆議院議員だという縁もあり、民社党の支持母体だった右派労組「同盟」の後身である労働組合「連合」の顧問弁護士を務めるなどした。
民社党・新進党時代
1992年、連合が母体となった「連合の会」の公認候補として参院選大阪府選挙区(定数3)から出馬、民社党・社会党の推薦を受けるも5位で落選。
しかし翌年7月の総選挙では、前回総選挙で落選していた従兄・章三から地盤を引き継ぎ、民社党公認・新生党推薦で旧大阪5区(定数5)から出馬、4位で初当選を果たす。奇しくもこの選挙で55年体制が崩壊したため、民社党も参加した連立政権下でいきなり与党議員を務めることになった。
民社党が新進党結成に加わった際にはこれに帯同して移籍。小選挙区制に移行した1996年10月の総選挙では、代々西村家が地盤としてきた堺市を含む大阪17区から新進党公認で出馬、再選を飾っている。
1997年2月3日、衆議院予算委員会において北朝鮮拉致事件の被害者らの実名を挙げた質疑を行い、注目を集める。この質問を契機に拉致問題が広く取り上げられるようになり、彼は拉致問題解決に先鞭を付けた男として名を上げた。さらに同年5月には領有権を巡り中国・台湾と争いになっている尖閣諸島に国会議員としては初めて上陸し、領有権をアピールするなど、外交タカ派として積極的な活動を見せた。
1997年12月に新進党が解党すると、旧民社党員の大半が新党友愛を経て民主党に合流したのに対し、中井洽らと共に小沢一郎率いる自由党の結成に参加。かつての同僚たちと袂を分かつことになった。
自由党・民主党時代
1999年1月に自由党が自民党と連立を組んだことで与党議員に返り咲き、同年10月に発足した第2次小渕改造内閣で防衛政務次官に任命される。
ところが直後に「週刊プレイボーイ」誌上で「民族主義者として大東亜共栄圏・八紘一宇を地球に広げたい」「(核攻撃を強姦に例えた上で)強姦しても罰せられんならオレらみんな強姦魔になるけど、罰という抑止力があるからそうならない」「日本も核武装したほうがええかもわからん」といった発言をしたことが与野党から問題視され、就任からわずか16日で辞任に追い込まれた。だが発言内容については正当な持論であるとして、最後まで撤回しなかった。
2000年4月に自由党が連立政権から離脱した際には、連立継続派が結成した保守党には加わらず、そのまま自由党の公認候補として同年6月の総選挙に臨んだ。しかし上記発言で無党派層の一部が離れた上に、自由党への移籍により労組の組織的支援を受けられなくなったことが響き、大阪17区では4位とまさかの惨敗。比例区での復活当選に回る。
2003年9月の民由合併時には、右派色の薄い民主党への合流を躊躇したものの、渡辺秀央の説得もあり合流を決意。直後の総選挙では、前回民主党の公認候補として西村を上回る票を得た尾立源幸との公認争いを制し、大阪17区から民主党公認候補として出馬。再び連合の支援を受けられるようになり、無事4選を飾った。
郵政旋風吹き荒れる2005年9月の総選挙でも大阪17区から出馬、僅差で敗れるも比例復活し、5期連続当選を果たす。ただこの頃になると、非常に右派色の強い西村が民主党内で浮いていることは誰の目にも明らかになっており、次第に旧自由党議員の定期会合にも呼ばれなくなるなど、党内での孤立は深まりつつあった。
無所属・改革クラブ時代
ともあれ議員として着実にキャリアを積んでいた西村だったが、ある事件により一転して議員生命の危機に立たされる。政治活動資金を捻出するため、示談屋をしていた弁護士事務所の元従業員に自身の弁護士名義を違法に貸し与え、報酬の一部を受け取っていたことが明るみになり、逮捕されたのである。最終的には弁護士法違反(非弁提携)の罪で懲役2年・執行猶予5年の有罪判決が確定し、弁護士生命も事実上断たれることになった。
この件で民主党から除名され、さらに自民党・公明党提出の議員辞職勧告決議案が衆院本会議で可決(戦後4件目)。法的拘束力がないことから辞職せず無所属で議員活動を続けたものの、政党助成金も国会での発言機会もなくなり、院内活動は停滞。さらに司法試験に失敗しうつ病に陥った長男が転落死するなど、公私共にどん底の時期が続いた。
2008年9月、民主党内で孤立した渡辺秀央らが結成した改革クラブに入党する。だが、西村は首班指名選挙で同党が閣外協力する麻生太郎ではなく無所属の平沼赳夫に投票するなど、独自の行動が目立った。
そして迎えた2009年総選挙では、自民党が現職・岡下信子を大阪17区にそのまま擁立したことで保守分裂選挙となり、さらに労組の組織的支援は民主党の辻恵に移るなど厳しい選挙戦を強いられた。結局、幸福実現党の支援もむなしく、得票率17%で3位に終わる。また改革クラブで唯一の名簿登載者として臨んだ比例区では、その幸福実現党をも下回る得票率0.5%に留まり議席を獲得できず、5期16年守り続けた議席をついに失った。
落選後
その後は在野の政治活動家として様々な右派系政治活動に携わりつつ、再起を図っている。
改革クラブには顧問として籍を残していたが、舛添要一によって「新党改革」へと党名変更した後も残留するかは不明。2010年4月6日には自身のホームページ上で「…日本再興の為の平沼新党への参加、保守政党結成への参加は、私の政治活動における必然である」として(参考)、平沼赳夫率いる新党「たちあがれ日本」への参加を仄めかし、2010年7月、たちあがれ日本へ入党したことを正式に発表した。
政界返り咲き
2012年11月に太陽の党(元たちあがれ日本)が日本維新の会に合流したのに伴い、維新の会の党員となった。12月17日、第46回衆議院議員総選挙にて日本維新の会公認で比例近畿ブロックから出馬し、政界への返り咲きを果たした。
2013年5月17日に維新の会の会合で「韓国人の慰安婦は今も大勢日本に来ている」などと発言したため、会合に出席していた党員らから撤回を要求された。西村はその場でその発言を撤回した上、維新の会に離党届を提出した。これに伴い維新の会は西村の離党届を受理せず、除名処分にする意向を示した。また松井一郎維新の会幹事長は西村に対し議員辞職を求めている。
右派系団体との関わり
非常に右派色が強く、かつ行動的な人物であるため、様々な右派系政治団体・市民団体等と関わりを持っている。
維新政党・新風
戦後体制の否定と戦前への回帰・日本国憲法無効論・国軍創設・核武装推進・戦争責任の完全否定などを党是とする維新政党・新風とは、思想的に一致するところが多いこともあって党友として友好関係を結んでおり、新風も選挙の際に西村を推薦候補と位置付けて支援を行っている。
また、維新政党・新風の党員らが左派の政治集会で空き缶を投げるなど妨害行為に及んだとして威力業務妨害罪等で逮捕された際には国会でこの事件を取り上げ、集会は天皇を侮辱するものであり彼らは当然の行為をしただけとしつつ「検察官、裁判官は、大学紛争及びその後の左翼的風潮の中の学園で学んで司法試験に通って…左翼的な観念で、ただ左翼の運動の手助けになるように刑事司法を操っておる」との疑念を表明し、彼らの救済を求めている。
チャンネル桜
右派系の政治番組を制作・放送しているチャンネル桜の番組には度々出演しており、「西村眞悟の『眞悟十番勝負!』」という看板番組を持っていた時期もあった。またチャンネル桜による従軍慰安婦問題に関する米下院決議への抗議や、同じくチャンネル桜が制作した南京大虐殺否定説の映画「南京の真実」に賛同者として名を連ねており、これら以外にも同局が主催する政治活動によく参加している。
刀剣友の会
一方で、弁護士法違反事件で非弁提携を持ちかけた元従業員が右派系政治団体の元構成員だったように、筋の悪い団体と関わりを持ったことで問題が起きることもある。その一つがこの「刀剣友の会」である。
刀剣愛好者の団体である同会の会長・村上一郎は右派の政治活動家でもあった。村上とは99年頃に支持者の紹介で知り合い意気投合、友人として交際するとともに、同会の講演依頼を受けたり、最高顧問に就任したりと活動に協力し、他方で村上が経営する会社から政治献金を受けるなど友好関係を結んでいた。
ところが同会を母体として結成された「日本人の会」が「建国義勇軍」を名乗り、自民党左派系議員の事務所や社民党・日教組・朝鮮総連本部などに拳銃を撃ち込む、放火する、実弾入り脅迫状を送り付けるなど数十件のテロ行為に及び、2003年12月には村上が首謀者として逮捕されるという事態に至る。いわゆる「建国義勇軍事件」である。
この事件への関与を疑われた西村は徹底して否定したものの、「道義的責任を取る」として、内定していた衆議院災害対策特別委員長への就任を辞退することになった。
選挙に関するエピソード
- ちょうど政界再編期に居合わせたこともあり、選挙に出る度に所属政党が変わっていた(連合の会→民社党→新進党→自由党→民主党→民主党→改革クラブ)。もし「たちあがれ日本」から出馬すれば7党目ということになるが…
- 西村家は戦後24回実施された全ての衆院選で、堺市を含む選挙区から候補者を立てたという記録(?)を持っている(栄一→章三→眞悟)。公職追放・公認漏れ・鞍替え・後継者不在などにより中断することなく、「同一地域一家皆勤」を戦後一貫して続けている家系は非常に珍しく、小沢家(佐重喜→一郎)や河野家(一郎→謙三→一郎→洋平→太郎)など、西村家を含めわずか8例しか存在しない。
- ちなみに西村家全体では24戦19勝2比例復活3敗となっている。父・栄一は11戦全勝、従兄・章三は7戦5勝2敗、そして眞悟は今のところ6戦3勝2比例復活1敗である(ただしこれとは別に章三は衆院選比例四国ブロックで1戦1勝、眞悟は参院選大阪府選挙区で1戦1敗の記録がある)。
- 2009年総選挙に際してニコニコ動画で行われたネット出口調査では、保守・右派優位のニコ動の風潮から、自民党が圧倒的な支持を得て大勝を納めるとの結果が出たが(詳細は単語記事「ネット世論調査」を参照)、自民党よりよほど保守的・右派的なはずの西村は、現実よりやや支持率を上げたものの、民主党の辻恵と同率2位に留まり、現実同様落選相当という結果が出されている(参照)。
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