許靖とは、三国志に登場する人物である。
月旦評
字は文休。豫州汝南郡平輿(河南省駐馬店市)の出身。従弟に許劭(許子将)がいる。
若い頃は許劭と共に「月旦評」と呼ばれる人物評論会を開いていた。しかし許靖は許劭との仲が悪く、先に許劭が郡の功曹(人事担当)に取り立てられても許劭は決して許靖を採用しようとせず、許靖は馬磨きをして糊口をしのいだという。太守が変わると許靖も採用され孝廉・計吏、次いで尚書郎となる。
董卓が中央に乗り込んでくると許靖は周毖と共に人事担当に任命され、汚職を働いた官僚を罷免する一方、才能があると思った人物を抜擢することに精を出した。荀爽・韓融・陳紀・韓馥・劉岱・張咨・孔伷・張邈らの人事に関わり、許靖自身も巴郡太守に任命されたが朝廷に留まり御史中丞となった。
僻地への逃避行
しかし冀州牧となった韓馥らが反董卓連合の軍を挙げると、周毖はその責任を問われ処刑されてしまう。許靖は従兄の許瑒が予州刺史の孔伷に協力していたことから孔伷の元へ逃れるも、孔伷没後は揚州刺史陳禕、更に呉郡都尉許貢や会稽太守王朗の元へ逃れる。
江東で勢力を拡張していた孫策が攻めてくると許靖は交州を支配していた士燮の所へ逃れるも、ここまで連れてきた一族郎党の九割を戦乱や風土病で失っている。
士燮には厚遇されたが、許靖が交州にいると聞いて黙っていられないのが人材コレクター曹操である。しかし許靖を招聘しようとして遣わした使者が強引に許靖を連れようとしたため許靖は拒絶し、使者は怒って許靖の手紙を水の中に捨ててしまう。
許靖はその後益州を支配していた劉璋に招聘され、巴郡、広漢郡次いで蜀郡の太守となる。214年(建安19年)劉備が益州に侵攻し成都城を包囲すると、城内にいた許靖は脱出しようとして劉璋に捕らえられたが、特に咎められなかった。こういう経緯もあり、劉璋を降伏させた劉備は許靖を任用しようとしなかったが、法正が「許靖の虚名は天下に聞こえわたっており、彼を礼遇しないと多くの人が殿が君子を軽んじると思ってしまいます。燕王が郭隗を遇したやり方を真似るのが良いでしょう」と説得したため許靖は左将軍長史に任ぜられた。
蜀漢の重鎮
以降の許靖は劉備に忠実に仕えた。鎮軍将軍として、劉備が漢中王になるよう推挙した群臣の一人として名を連ね、のち太傅(太子劉禅の補佐役)となる。
220年(延康元年)、後漢が魏に禅譲したという知らせが、後漢の献帝が殺害されたという形で誤って伝わると、翌年許靖は群臣と共に漢の皇帝として即位することを劉備に薦めた。劉備政権のもと許靖は司徒となり、翌222年(章武2年)8月に没した。
許靖はその頃年70歳を超えていたが、人物を重んじ高尚な議論をして飽きること無く、諸葛亮らに尊敬された。また、魏に仕えた旧知の華歆、王朗、陳羣(陳紀の子)らとの友好も変わらなかった。
評価
王朗や蒋済などから、許靖の才能は高く評価されていた。楊戯の『季漢輔臣賛』では、劉備、諸葛亮の次に許靖の名前が登場する(関羽や張飛はその次である)。
陳寿は許靖について、その行いは必ずしも理に適ってはいなかったが蒋済の「大較廊廟器」という評価はもっともだとした。裴松之は許靖が江東に居た時、孫策から逃れたことを智者ではないと批判している。
家族
- 許瑒 - 従兄。陳国の相
- 許虔 - 従弟
- 許劭 - 従弟、許虔の弟。許子将の字で知られる
- 許混 - 甥、許劭の子。魏の明帝(曹叡)に仕え尚書となった
- 許欽 - 子。許靖に先立って早逝した
- 許游 - 孫(許欽の子)。景耀年間(258~263年)に尚書となった
- 陳祗 - 兄の娘の子で、幼少の頃に家族を亡くしたため許靖が養育した
費禕の伝記では、費禕は董允、汝南の許叔龍という人物と一緒に名声があったという記事に続いて、許靖の子の葬儀での費禕と董允のエピソードを載せている。
関連動画
関連商品
関連項目
- 三国志の登場人物の一覧
- 許劭
- 劉備 / 劉禅
- 陳祗
- 0
- 0pt