調所広郷とは江戸時代後期の武士であり、薩摩藩の破綻した財政を立て直した経済官僚である。
幼名は良八。別名清悦、笑悦、笑左衛門など。
概要
安永5年(1776年)、薩摩藩御小姓組(下級士族)、川崎主右衛門の次男に生まれる。
天明8年(1788年)、同じ御小姓組の調所家の養子となる。寛政2年(1790年)、清悦と改名し、表坊主(茶坊主)として勤め始める。
調所の若い頃の記録は余り残っていないが、大工の事は大工に、商売の事は町人に、農業の事は農民に詳しく聞き、問われた際には即座に答えられた事や、明け方まで書き付けをするなど、勉強熱心な青年であったことがわずかに伝わっている。
茶坊主から藩重役へ
寛政10年(1798年)、江戸への出府を命じられて出向。半年ほど勤めた後、御隠居御付の奥茶道に任じられ、既に隠居していた薩摩藩8代藩主・島津重豪(しげひで)に仕える事になった。
この後数年間重豪の側近として勤め、文化元年(1804年)頃に薩摩藩世子・島津斉興の奥茶道に転じる。
文化8年(1812年)、勤続20余年にして茶道頭に任じられる。次いで文化10年(1814年)、数え歳38歳の時に茶坊主から藩重役の御小納戸に抜擢され、蓄髪を許される。名も笑左衛門と改め、20年以上勤めた茶坊主生活から異例の栄転を遂げた。
薩摩藩の財政事情
江戸時代初期から薩摩藩の財政事情は不安定であったが、宝暦3年(1753年)から宝暦5年(1755年)にかけて起きた「宝暦治水事件」や、その直後に藩主となった重豪による施設建造、洋学振興、政略結婚など一連の藩政に伴う費用によって財政が圧迫され、享和元年(1801年)には藩の借財が120万両に達していた。
重豪から家督を継いだ9代藩主・島津斉宣(なりのぶ)はこの状況を改善すべく藩政改革を進めようとしたが、その方針が父である重豪の政策を否定する内容だった為重豪の怒りを買い、策謀によって強制的に隠居に追い込まれ、斉宣の子息である島津斉興を藩主に据えた重豪が再び藩政を後見することになった。この事件は文化朋党事件、別名近思録崩れと呼ばれる。
文化10年(1814年)、重豪は大阪に赴いて徳政令を実施し、120万両に上る借財の破棄を宣言したが、これが上方銀主達の不興を買い、以後薩摩藩への貸し出しに一切応じなくなった為、藩の財政が混乱に陥った。
また重豪は、財政再建策の一環として琉球を経由した唐物貿易の拡大を実行に移すべく幕閣に働きかけ、文政3年(1820年)に貿易の一部拡大が認められたが、なお財政を立て直すには至らず、加えて島津家一門の経費増大に歯止めが利かなくなり、文政12年(1832年)には120万両をはるかに越える500万両の借財を抱える羽目になった。
このような危機的な財政状況の中、調所は藩の財政再建に関わり始める事になる。
財政再建
文政7年(1824年)、唐物貿易の調達掛を命じられた調所は、まず貿易品目の増加に取り組むと共に、幕府から許可が下りていない品目の密貿易に関与し始め、一定の成果を挙げるが、膨大な借金の前では焼け石に水の状態であった。
文政10年(1827年)、上方商人との借り入れ交渉に失敗した薩摩藩では、事態に対処できる人材を捜し求めており、その際に重豪の目に留まったのが調所である。
調所を呼び出した重豪は財政改革の主任を勤めるよう命じたが、「財政問題に関しては詳しくなく自信も無い」と断ったところ、重豪が脇差を持ち出し今にも斬り付けるような強い態度で命じたため、止む無く引き受ける事になった。
前任者から上方銀主たちとの交渉を引き継いだ調所は、大阪に赴き交渉を始めたが全く相手にされず初っ端から躓きかけたが、この時出雲屋孫兵衛という商人の協力を得て、どうにか新たな銀主たちを集める事に成功し、調所の死までの20年間に渡る財政改革が始まった。
まず藩財政にとって以前から懸案となっていた藩主一門の支出の縮小を行い、薩摩藩領内では頼母子講(庶民金融の一種)の加入者から強制的に資金を徴収することで参勤交代の費用に当てた。
天保元年(1830年)、予想以上の進捗に気を良くした重豪は、調所に対して以下の指令を与えた。
1.天保2年から12年までの10年間に50万両の備蓄金を蓄える事
2.その他幕府への上納金及び軍資金を蓄える事
3.借金の証文を取り返す事
この後天保4年(1833年)に重豪は数え歳89歳という高齢で逝去。その前年に家老格にまで昇進していた調所は、藩主・島津斉興の側近として引き続き財政再建を進めていく。
藩政専断
重豪の死に伴い、それまで手を付けられなかった重豪の子息・有馬一純(島津久亮)に対する経費を削る為、強引に薩摩藩に帰国させた。この人物は丸岡藩有馬氏の婿養子に出ていたが、病弱を理由に廃嫡され、そのまま藩邸で部屋住み生活を送っており、経費節減の格好の標的となった。
商業の面では、米、生蠟(ロウソク)、菜種、ウコン、砂糖など国産品の品質向上から取引現場の不正取締りまで徹底的に行い、特に砂糖については、原産地の奄美大島において監視体制を厳しくし、一舐めしただけで厳罰に処し、生活必需品は生産した砂糖と交換させて金銭との交換は行わせないという異常なまでの過酷さを呈した。
そして財政改革の最大の懸案である500万両の借金にカタを付けるべく、天保6年(1835年)に、銀主たちに対して250年割賦、つまりこれまでの借金は今後250年間かけて返していき、返済も元金のみで利息は払わないと宣言。銀主たちから渡された証文を目の前で燃やしてみせ、「生かすも殺すも勝手にしろ」と啖呵を切ったという。
事実上の借金踏み倒しで当然銀主たちが大騒ぎし、奉行所に申し立てられたが、処罰を受けたのは調所の片腕となっていた商人・出雲屋孫兵衛だけで、調所や薩摩藩は咎められなかった。これは将軍・徳川家斉の正室が島津重豪の娘だったことや、幕府に対する事前の上納金などの根回しが効いていたためとされる。
天保6年(1835年)、当時禁教とされていた一向宗門徒の西本願寺への上納金に目を付けた調所は大規模な取締りを実施。 隠れ信者が大量に検挙され、拷問を持って取調べが行われた。この件が原因となり、薩摩藩からの脱走農民が続出し、後年まで尾を引く事になる。
対象となった人々からの恨みを一身に受けながら調所は改革を進めていき、弘化年間(1844年~1847年)には50万両の備蓄に加え、150万両の余剰備蓄まで蓄える事に成功した。
更には軍制改革から、琉球に渡来した西洋列強との外交問題にまで関わり、薩摩藩政は調所政権の如き様相を呈していた。
最期
嘉永元年(1848年)12月、江戸藩邸にて調所は急死した。享年数え歳にして73歳。
死因については、薩摩藩の密貿易を疑った幕府から嫌疑を受けた為、その責任を取る形での自殺といわれている。密貿易の情報については、当時調所の政敵であった薩摩藩世子・島津斉彬がその情報を老中・阿部正弘に横流ししたとされる。
調所の死後、藩主継嗣問題で斉興派と斉彬派の争いが激化し、嘉永朋党事件(別名お由羅騒動または高崎崩れ)が発生。幕府が介入するに至り斉興は隠居に追い込まれ斉彬が藩主の座に着いた。
調所によって蓄えられた資金を梃子に、斉彬率いる薩摩藩は幕末の動乱に積極的に関与していく事になる。
専断の悪名を一身に背負った調所とその協力者や子孫は、本人の死後一斉にその憎悪を浴びることになり、免職、隠居、遠島、資財没収などの罰を受け悉く没落していった。
幕末に至る直前で消えていった調所にとってはその後の動乱など知る由もなく、ただ薩摩藩の財政を立て直すという命題に取り組んでいたがために藩政を事実上牛耳ることになり、後年開明的な君主として知られる島津斉彬に疎んじられ、西郷隆盛や大久保利通ら士族からも君側の奸と見做された。
だが調所の行った財政再建によって出来た資金がなければ、幕末における薩摩藩の活動も有り得ず、したがって明治維新も起こり得なかったことは歴史の皮肉と言えるかもしれない。
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