譙周とは、三国志に登場する人物である。
なお、譙の字が機種依存文字なのでショウ周という表記もみられる。
概要
字は允南。益州巴西郡西充国県(四川省南充市)の出身。
身長は八尺あったが風貌は朴訥に見え、聡明だったがとっさの機転は利かなかった。幼くして父を亡くしたため家は貧しかったが、独学で六経を精細に研究し、書簡に巧みで、天文に明るかった。
諸葛亮に登用され蜀漢に仕える。諸葛亮が死去した時、譙周は家にいたが直ちにその場に駆けつけた。直接政治に携わることはなかったが、学問に秀でたため何かあると多くの人から意見を求められていた。劉禅の享楽を諌めたり、毎年のように出兵する姜維に対し『仇国論』を著しこれを批判している。
263年に魏が侵攻してきた時は劉禅に「もし逃げるのであれば早くから準備すべきであり、呉よりは魏に降ったほうがましです」と降伏を薦めた。司馬氏の政権からは亭侯に封ぜられている。
269年、弟子の陳寿(正史『三国志』の著者)が休暇を取るため譙周の元へ挨拶に来た時、「今、自分の年は70歳を超えている。願わくは孔子(享年72歳)の遺風を慕い、劉向・楊雄(同71歳)と同じくしたいものだ。おそらく次の年を迎えることなく長い旅路に出ることになるから、二度と会うことはないだろう」と言い、陳寿はこの時の会話を正史の譙周伝に残している。
翌年270年、没。『法訓』『五経論』『古史考』等の著作を残した。
逸話
- 諸葛亮に初めて会った時、諸葛亮の左右の者は譙周の風貌を見て思わず笑ってしまった。後で、この時笑った者を処罰しましょうと言い出した人がいたが、諸葛亮は「わしでさえ我慢できなかったのだ。ましてや他の者がこらえ切れないのも無理はない」と特に咎めなかった。
- 劉備と劉禅の名前について、「『備』とは完結するという意味で、『禅』とは授けるという意味だ。劉氏は完結した、他人に授けるべしという意味であり、晋の穆侯[1]や後漢の霊帝[2]よりその命名の仕方は酷い」と言っていた。
家族
- 譙岍…父。字は栄始、尚書を学び経典や図讖術に優れた学者だったが、州郡からの仕官要請を受けなかったので、逆に州からわざわざ彼の家に出向いて師友従事の役職を与えた。
- 譙熙…長男。父の死後、これを故郷に葬っている。
- 譙賢…次男。
- 譙同…三男。父の仕事を手伝っており、朝廷からの招聘を受けなかった。
各メディアにおける譙周
劉禅に降伏を勧め蜀漢を滅亡に導いたということで後世の人の受けはあまり良くない。
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関連項目
関連リンク
脚注
- *春秋戦国時代の君主で、長男に「仇」、次男に「成師」と命名した。国は長男が継いだが、のちに次男の家系に乗っ取られた。
- *長男(劉弁)を「史侯」、次男(劉協)を「董侯」と呼んでいた。二人とも皇帝となったが(少帝、献帝)それぞれ帝位から引きずり降ろされた。
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