賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)とは、豊臣秀吉と柴田勝家の間で1583年に起こった賤ヶ岳の戦いで活躍した7人の武将達である。
なお、この戦いで秀吉から感状と領地を与えられた戦功者は実は9人居たのだが、うち石川一光は討ち死にしていたため弟が代理で感状を受けており、桜井佐吉も戦いの傷が原因で数年後死去している。
よって残された7人をもって「七本槍」と称しているらしい。
ただし、賤ヶ岳の戦いでは石田三成や大谷吉継ほか若手の武将が活躍しており、七本槍は豊臣秀吉による宣伝工作や誇張であるともいわれる。実際に福島正則は「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」と言ったり、加藤清正も七本槍の話題を嫌うなど、誇張である可能性が高い(正則、清正は秀吉の縁戚のため豊臣政権内の格が高くなるのは当然であるため、他の5人と一緒にされるのを嫌ったともいえる)。
テストにはほとんど出ないが知っておいて損はない。
該当武将
- 福島正則 (1561~1624)
- 七本槍筆頭。市松。
- 気性の荒さと酒癖の悪さと三成と仲が悪いことに定評のある豊臣政権屈指の猛将。石田三成襲撃事件の七将にも名を連ねている。
- 秀吉の子飼いとして三木合戦などに従軍しており、賤ヶ岳の戦いでは拝郷家嘉を討ち取って(糟屋、片桐説もある)、七本槍でも格別の5000石を与えられている。
- 賤ヶ岳の戦い後は、九州征伐まで秀吉の戦いに従軍し続け、伊予今治10万石を受け賜わっている。しかし、朝鮮出兵後、石田三成ら文治派と険悪になり徳川家康に近づいた。
- 関ヶ原の戦いでは三成と対陣できなかったり、抜け駆けされたりもしたが東軍の勝利に貢献、広島49万石の主となったが、大坂の陣では従軍も許されず飼い殺し状態にされ、広島城の補修にいちゃもんをつけられて改易、領土をボッシュートされる。
- その後は信濃に移され、64歳で死去。晩年は内政に励んで慕われていたという。子孫は旗本となった。
- 加藤清正 (1562~1611)
- 秀吉の子飼い。虎之助。せいしょこさん。
- 虎狩りと築城に定評のある猛将。正則とは親友。んで輪をかけて武闘派で三成襲撃の七将にも入っている。でも本人は小西行長の方が犬猿の仲。
- 賤ヶ岳の戦いでは山路将監(正国)を討ち取っている。その後は各地を転戦し、九州征伐後、失政をして自害した佐々成政の後釜として肥後半国を与えられた(もう半国は小西行長)。一説には讃岐と北肥後のどちらがいいと問われ、来る朝鮮出兵のため北肥後を選んだという。
- 出兵後、文治派と険悪となり、関ヶ原の戦いでは東軍に付いて小西行長の宇土城や柳川城を攻めている。その後、行長の領土を加増され、熊本藩52万石となる。
- しかし、豊臣と徳川の折衝にあたっていた1611年に50歳で死去した。一説には家康の毒殺という。清正の死から4年後豊臣家は滅亡。加藤家も清正の子忠広の代で熊本をボッシュートされた。
- 加藤嘉明 (1563~1632)
- 沈勇の士。通称左馬助、孫六。こらそこ、地味な方の加藤って言わない。
- 七本槍最年少。父は元松平家臣。正則、清正とともに地味に七将にも入っている。仲良いなお前らw
- 賤ヶ岳の戦い後、各地を転戦。朝鮮出兵後10万石に出世。国主大名になる予定もあったらしいが、その前に御猿様が死んでポシャった。運が悪い。
- やっぱり正則、清正コンビ同様に文治派と険悪になる。関ヶ原では主力として東軍の勝利に貢献する。戦後伊予20万石に加増された。のちに蒲生家断絶後の会津43万石を任される。この間に家康が豊臣家を滅ぼすが、嘉明は徳川軍として大坂夏の陣に従軍している。
- 1632年に69歳で死去。七本槍では一番最後に亡くなった。子の明成は嘉明と違い暗愚であったため騒動を起こし、加藤家は幕府に領地をボッシュートされる。
子孫は1万石で存続したのがせめてもの救い。 - 脇坂安治 (1554~1626)
- 七本槍最年長。でも正則にry。
- 出身は近江国。んで元浅井家臣。でも1573年に主家が滅亡。明智光秀に仕え、この時何気に丹波の赤鬼こと赤井直正に家宝をもらう。その後秀吉に仕える。
- 賤ヶ岳の戦いでは柴田勝政を討ち取ったという。あれ?でも勝政って生存説もあry。1585年に淡路洲本に3万石を与えられる。その後秀吉が天下をとり、朝鮮出兵となった時も従軍、しかし抜け駆けをしようとして李舜臣にフルボッコにされる。
- 関ヶ原の戦いでは西軍として本戦に臨み、小早川が寝返ったと同時に華麗に寝返った。事前に内通を明らかにしていたので寝返った4人組(脇坂、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保)の中で唯一ボッシュ―トされなかった(朽木は半減、小川・赤座はボッシュート)。
- 1609年に伊予大洲へ移される。その後1626年に73歳で亡くなるまで生きた。大谷吉継の呪い?なにそれおいしいの?
ちなみに家も明治維新まで生き残った。七本槍ではある意味一番の勝ち組かも? - 平野長泰 (1559~1628)
- 唯一大名になれなかった男。
- 一説には鎌倉幕府の執権北条氏の末裔。賤ヶ岳の戦い後も戦功を重ねたが、大名にはなれなかった。加藤嘉明と仲が良く家に無断で入れた仲。だが、嘉明の家臣と同じ石高だと聞いたときはショックだったとか。
- 関ヶ原の戦いの際は、世紀の大遅刻で有名な秀忠の軍の中にいたそうで大した功を挙げられなかったそうな。「それでも豊臣への忠義は忘れない!大坂の陣は豊臣方に味方するぞ!」・・・だが公言したことが仇となり大坂の陣の際は江戸にとどめ置かれた。でも何故か大坂の陣が終わった後、そのことを理由に領地がボッシュートされたりすることはなかった。
- その12年後の1628年に死去。彼が果たせなかった大名の夢は交代寄合であった彼の子孫が維新立藩で大名となり果たされた。良かったね! まあ三年後には廃藩置県だけど、大名になってたから男爵になれたよ!
- 解説動画
- 領地で善政を敷いていたり、大坂城に単身向かうため家康に暇乞いを直談判していたり、晩年の愚痴の内容からも、裏表ない武辺者という意外な人物像が見えてくる。大坂の陣前の行動を不問にした家康の温情も含め、彼の人生も案外悪いものでは無かったのかもしれない。
- 糟屋武則 (1562~?)
- 七本槍唯一の関ヶ原で改易された男。名前がたくさんあることに定評ある男。そして四度死ぬ男。姓は糟谷、粕屋、加須屋など。名は数正、真雄、宗孝(息子とされる人物もこの名前)、正之助など。
- もともと家は鎌倉時代から続く家柄で別所家臣だった。しかし、織田家の侵攻で降伏し、秀吉の配下となった。大身槍を振って戦に臨んでいたらしく、長浜市の博物館にその槍が残っている。
- 賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政の配下を一突きで討ち取った。その後も様々な戦いで従軍し、関ヶ原前には加古川で1.2万石の大名になった。しかし、関ヶ原で西軍に付き敗北。領地をボッシュートされ糟屋氏は廃絶した。……はずなのだが、江戸時代に糟屋氏の裔を名乗る500石の旗本がいたり、1602年に糟屋内膳という男が備中の領主になっていたりと、その末裔の顛末すらよく分かっていない。
- 一説には大坂夏の陣で討ち死にしたともいう。だが1601年、1602年、1607年死亡説もある。さらにはそれらよりずっと前の時期に、毒殺された説まである。名前が多ければ死亡年も多い……。討ち死に説以外どのみち七本槍では一番最初に死んでるが。
死亡年が多いのは子との混同があるからとされる。また姓が多いせいで、読みの同じ「カスヤ」氏のエピソードが、七本槍として最も有名だった彼を中心に混ざってしまった可能性も高い。 - 解説動画
- 秀吉の秘書のような立ち位置で、内政や後方支援に手腕を振るった知性的な人物という意外な姿や、死んだと言われながらヒョッコリ後の世に姿を現すミステリアスな姿は、一本の創作物の題材にもなり得るほど、興味深いものだと言わざるをえない。
- 片桐且元 (1556~1615)
- 豊臣家と徳川家で板挟みのストレスマッハなお方。通称助作、東市正。
- もともとは脇坂さんと同じく浅井家臣。しかし1573年に浅井氏は滅亡。且元も落城を経験している。
- 前線で活躍することは少ない人物だったようで後方支援が主な仕事だったようだ。朝鮮出兵の頃は摂津茨木1万石の大名だった。秀吉により秀頼の傅役に選ばれ、関ヶ原は西軍だった。傅役だったため秀頼の無関係を主張した。
- 家康に人質を出し西軍に付いたが加増されて大和竜田2万石となる。その後二条城での会見など豊臣・徳川の仲立ちに奔走していたが、大坂の陣が勃発してしまう。
- 且元は隠居を願い出たが許されず、何とか秀頼の助命などを嘆願していたが、秀頼は落城とともに自害。且元もその20日後に死去したという。心労で病に倒れたとも、秀頼に殉じたとも、あるいは内通の疑惑をかけられ殺害されたとも言われる。
- 片桐家も例によって幕府に目をつけられボッシュートにあった。しかし、且元の弟の家系が大名として明治まで存続した。
とこのように脇坂、平野以外の5名の家系がボッシュートにあっている。豊臣政権~明治まで大名として存続したのは脇坂家のみ。徳川家が豊臣恩顧の大名を隙あらば改易しようとしていた事情はあるが、羽柴四天王といい、秀吉関連の活躍者は悲劇的な運命をたどることが多いです・・・。
出身国 | 関ヶ原の去就 | 最大時の石高 | |
福島正則 | 尾張国 | 東軍 | 安芸国広島49万石 |
加藤清正 | 尾張国 | 東軍 | 肥後国熊本52万石 |
加藤嘉明 | 三河国 | 東軍 | 陸奥国会津43万石 |
脇坂安治 | 近江国 | 西軍→東軍 | 伊予国大洲5万石 |
平野長泰 | 尾張国 | 東軍 | 大和国田原本5000石 |
糟屋武則 | 播磨国 | 西軍 | 播磨国加古川1万2000石 |
片桐且元 | 近江国 | 西軍 | 大和国竜田2万4000石 |
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