金剛正裕(こんごう まさひろ)は、二所ノ関部屋に所属していた元大相撲力士である。「ホラ吹き金剛」などと呼ばれた人気力士だったが、27歳の若さで現役を引退して二所ノ関部屋を継承し、指導者となった。
概要
1948年11月18日生まれ、現在の北海道深川市出身。本名は吉沢正裕で、のちに北村に改姓した。
1964年に15歳で二所ノ関部屋に入門すると、1969年に20歳で十両へ、1970年に21歳で幕内へ昇進と、順調に出世した。同じ部屋の横綱大鵬の横綱土俵入りで従者を務め、大鵬引退後は幕内上位力士として二所ノ関部屋を引っ張った。灼熱の名古屋で開催された1975年7月場所は初日から好調。6日目に「明日、北の湖に勝って休場させるか」と言い放ち翌日本当に横綱北の湖から金星を奪うなど、奔放な語録も冴え(しかも有言実行)、なんと平幕優勝を達成してしまう。このことから「ホラ吹き金剛」と呼ばれた。まだ若い衆だったころにはたわしとスポンジを組み合わせた「痛くないたわし」を発明したこともある(実用新案登録も申請したが却下)。
しかし、この初優勝した年の3月に二所ノ関部屋の当時の師匠(元・佐賀ノ花)が亡くなっており、暫定的に別の親方が二所ノ関親方となってはいたものの、二所ノ関部屋は実質的な師匠不在状態が続いており、激しい後継者争いは揉めに揉めた。押尾川親方(元・大麒麟)が内乱を起こして押尾川部屋を独立するなどの騒動にまで発展したが、最終的に金剛が亡くなった二所ノ関親方の未亡人の婿養子となる形で決着。金剛は優勝した翌年、27歳の若さで現役を引退して二所ノ関部屋を継承した。その後、師匠の次女とはすぐに離婚したが、養子縁組は解消しなかった。
名門二所ノ関部屋を継承して指導者となったが、自身の直弟子からは関取がわずかに1人(小結大善)にとどまり部屋は衰退してしまった。二所ノ関部屋の弟子はたったの3人にまで減少してしまい、部屋付きの親方が3人いたものの部屋は閉鎖されることになった。名門・二所ノ関部屋閉鎖のニュースが流れると1週間後に部屋出身の横綱大鵬が亡くなるなど、二所ノ関部屋にとっての歴史的出来事になった。
10代目二所ノ関親方となった金剛は、日本相撲協会でも花形といわれる審判委員に任命されたが、1995年に麻雀賭博で現行犯逮捕され、処分を受けた。それでも2008年には協会の理事に就任し、広報部長などを歴任したが、在任中に野球賭博問題が発生。過去に麻雀賭博で逮捕歴のある親方が広報部長として不祥事の対応にあたるという事態になってしまった。
2012年1月限りで任期満了のため2期務めた理事を退任したあと、同年10月に病に倒れた。脳の病気であり治療も長期化したことが先述した部屋閉鎖の決めた最大の理由だという。部屋閉鎖後は松ヶ根部屋所属の親方となっていたが、65歳の停年退職をわずか5ヵ月後に控えた2013年6月に退職した。治療費や入院費を工面する必要があり、停年退職を待てなかったという。その後は部屋建物も取り壊されて土地は売却されたため、家も失ってしまった。以降は関東の病院を転々としたが、2014年8月12日に千葉県内の病院で死去した。派手な土俵人生とは真逆の寂しい晩年だった。
昔は「金剛」と検索すれば真っ先にこの人のことが出てきたが、最近では上位にはまったくヒットしなくなってしまったのも時代の流れだろうか。
関連動画
関連商品
関連項目
- 0
- 0pt