金聖嘆(きん・せいたん/1608-1661)とは明末清初の文芸評論家である。水滸伝の70回本の作者として有名。本名は金人端で、聖嘆は号である。
概要
蘇州出身。貧困に喘ぎ、9歳の頃に私塾に入塾すると取りあえずは科挙合格を目指すが、既存の価値観がぶっ壊れつつあった明代の影響されてか反俗、反常識的な方向へと進んでしまう。
彼の業績としては「荘子」「離騒」「史記」「杜詩(杜甫)」「西廂記」そして「水滸伝」を一級の文学として六才子書と号し、それぞれに警抜な批評を上げる。特に西廂記と水滸伝は戯曲と通俗小説という当時の価値観から見れば取るに足らないものであり、それを「論語」など肩を並べる存在にしたことは画期的なことであった。(要は例えるなら、ライトノベルをノーブル文学賞級の作品として評価したもの)その過程で作られたのが、水滸伝70回本である。
しかし、既成の価値観がぶっこわれつつあった明の時代が終わり、儒教的価値観が強固となって覆い尽くす清代になると、彼の存在は危険なものになっていく。
1661年、土地の役人が年貢を納められない百姓たちに鞭打ちを加えるという事件が発生。これに蘇州の士人たちが激怒として金聖嘆以下の人々が孔子廟に集結、ほぼ同時期に当時の皇帝である順治帝が亡くなったことから、集まったことを危険視した清の役人たちは中心人物を死刑にした。これを哭廟事件といい、その中に金聖嘆がいた。享年53歳
水滸伝70回本について
水滸伝を一流の文学作品として認めた金聖嘆ではあったが、「本来の水滸伝は好漢たちが集結する70回までであり、それ以降は羅貫中が捏造した。その証拠に私は本来の作者である施耐庵の原稿を入手した」という理屈で改作したのが、70回本である。ただし、施耐庵の原稿を入手したというのは大嘘であるが。
特徴としては好漢が集結した時点で終わっていること、宋江を貶めたこと、文章の添削を行ったこと、自分のやったことを正当化するために施耐庵の文章を捏造して自画自賛をしたということである。何故、このようなことをしたかというと、「宋江たちは極悪人であって即刻処刑されるべきである。朝廷に帰順して、反乱討伐するなんて許せない」という意図があったようで、本来の金聖嘆の70回本では廬俊義が全員処刑される夢を見て、起きてみたら、寝ていた部屋に「天下太平」と書かれた額がかかっていたというオチで終わっている。(現行版では中国共産党の検閲で削除されている)
このように問題があった70回本であったが、集合前と集合後ではクオリティにバラ付きがあったことや、原作もどこかのロボットアニメのように二期なんてなかったんや! もとい主人公たちが巨悪の思うがままにいいようにコキ使われて思惑通りに全滅。巨悪は傷一つつかないというすっきりしない終わり方を迎えているだけに原作の100回本や追加の120回本を駆逐してしまい、明治期に日本に渡った留学生たちが再発見して再輸入する羽目になったほどである。
逸話
この人が面白いのは、何とも処刑時にまつわる話である。
- 死刑執行の直前、酒を求めるとゆっくりと飲みながらこう語った。
「斬首は痛事、飲酒は快事である。斬首に先だって酒を飲む。なんたる"痛快"なことよ。 - 息子が決別のために刑場に赴くと泣いた。
「泣くな。お前に対句を出そう。上の句は「蓮子、心中苦し」だ」(蓮の実の中身は苦い)
当然ながら詩を作っていられる余裕がないので、答えられないでいると金聖歎は口を開いた。
「息子よ。どこにそれほど悲しむことがあろうか。わしがおまえに代わって答えよう。下の句は「梨児、腹内酸なり」だ。(梨の中身は酸っぱい)
実は上の句は蓮と憐の音が近いので、"悲しむ息子が憐れ"だという意味があり、下の句は梨と離が同音なので、息子と離ればなれになろうとする状況を差している。このように死を前にして巧妙なだじゃれ、もとい詩を作ったわけである。 - 処刑前に「一通の手紙を書いたので家族に渡してほしい」と首切り役人に依頼した。死刑執行後、役人には渡された手紙を監視官に渡した。反朝廷的な文章が書かれているのではないと疑った監視官が検閲してみたところ、手紙にはこんなことが書かれていた。
どういうことか言えば「プリンに醤油をかければウニの味がする」とか「キュウリに蜂蜜をかければメロンの味がする」と同じ話である。こんな事、本気で主張していたわけではなく、検閲されることを見越して官憲をからかったというべきだろう。文句を言おうにも、当人はこの世にいない。従って監視官は「金先生は、死に際まで人を手玉にとられる」とぼやくしかなかった。
関連項目
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