鈴木亜久里(すずき あぐり)とは、元F1ドライバー・レーシングチームオーナー、実業家である。
概要
中嶋悟に続き、F1では日本人2人目のフルタイム参戦ドライバーとして活躍したドライバーである。
1988年に急遽日本GPにスポット参戦し、翌1989年からはザクスピード・ヤマハでF1にフル参戦を開始フルタイム参戦を果たす。だが、デビューの年は戦闘力不足のマシンに苦労し、「シーズン全戦で予備予選落ち」という不名誉な記録を残してしまう。
1990年、ラルースへ移籍。前年度とは比べ物にならない戦闘力のマシンを操り前半戦は全戦予備予選通過し、後半戦は予備予選免除となる。中盤戦のイギリスGPでは6位入賞を果たし初のポイント獲得、終盤戦のスペインGPでも6位入賞を記録。さらに日本GPでは荒れたレースの中一時はファステストラップを記録し、見事日本・アジア人初の3位表彰台を獲得する。(2020年現在、F1表彰台は鈴木亜久里・佐藤琢磨・小林可夢偉の3名。)
1991年からベネトン移籍の話が舞い込んだが、スポンサー契約の関係で本人自ら断った。
その後は1度6位入賞があったものの、所属チームの経営悪化、シャーシ問題、戦闘力不足のマシンなどに悩まされ、93年にシートを失ってしまう。チームメイトはポイント獲得をする中、自身は予選落ちするなど単純な速さ不足が大きな要因であった。
その後、1年の浪人を経て95年にリジェチームに加入。しかし、この契約はチームが戦闘力のある無限エンジンと契約するための口実でしか無く、チームメイトのマーティン・ブランドルとシートをシェアする形となり、わずか6戦参戦するに留まった。しかし、そんな中でもドイツGPでは6位入賞を果たし、4年ぶり(51戦ぶり)のポイント獲得と意地を見せた。その後、日本GPでの予選アタック中にクラッシュし負傷(肋骨骨折・肺挫傷)、そのままF1の舞台を後にした。
F1引退後、全日本GT選手権やル・マン24時間に参戦し、ル・マンでは3位表彰台を獲得。
その後、SUPERGTのチームオーナーを経て、2006年にチームオーナーとしてF1に参戦。「SUPER AGURI F1 TEAM(スーパーアグリF1チーム)」として2008年まで参戦。
2007年は佐藤琢磨が22戦目にして8位入賞を遂げたほか、王者フェルナンド・アロンソをオーバーテイクして6位入賞を果たした。
その後、2013年にフォーミュラEに参戦することを発表し、2014年に「アムリン・アグリフォーミュラEチーム」として参戦。スケジュールの都合上開幕戦のみの参戦となった佐藤琢磨がファステストラップを記録し初のポイントを獲得、4戦目には初優勝を果たす。
しかし、2016年途中に亜久里自身が「数ヶ月以内にチームを離れる」とアナウンスされ、ライセンスを売却、フォーミュラEの世界から去ることとなった。なおスタッフはそのまま売却先のチームに引き継がれた。
エピソード
- 目鼻立ちの良いルックスであるが、父がフランス人と日本人のハーフであり、亜久里はクオーターである。
- フル参戦前年のスポット参戦の際、テレビ中継の解説として鈴鹿へ移動中、新幹線の車内で自身のスポット参戦を知らされた。突然のことだったためレーシングスーツは欠場したドライバーのものを借り、練習もセッティングする時間もほぼ無かったため何度かスピンしていた。レース自体は16位完走。
- フル参戦デビューのザクスピード時代、マシンのあまりの遅さと信頼性の低さに「捨てちゃいなよ、そんな車」と吐き捨てたことがある。
- 「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」のカート企画でとんねるずに破れ、バリカンを入れられたことがある。
- テレビ番組の企画で、幼少期の小林可夢偉とレース対決をしたことがある。
- ミハエル・シューマッハデビュー直後に彼の面倒を見ていたため、非常に仲が良い。
- スーパーアグリは参戦前にゴタゴタが多く、急造チームとして亜久里が設立した経緯がある。デビューイヤーのマシン「SA05」はかつてアロウズが2002年に使用していたマシンをレギュレーションに準拠するように改造したものであった。(要するに4年落ちのマシン)ちなみにミナルディのオーナーが所有していたものとメルボルン空港に展示されていたものを流用している。
- フォーミュラEの監督時代、チームの初優勝時にソファーで居眠りをしてしまい、優勝の瞬間を見逃している。
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関連項目
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