鍋島直茂(1538-1618)とは戦国時代に『肥前のクマー熊』こと龍造寺隆信に仕えた西国きってのオールラウンダーであり、後の肥前佐賀の礎を築いた人物である。(佐賀藩初代は息子の鍋島勝茂)
彦法師・孫四郎・左衛門大夫
直茂の誕生と龍造寺家の台頭
1538年、肥後の豪族である鍋島清房の次男として生まれ、当初は他家へ養子へ出されたが、龍造寺隆信の曽祖父ちゃんである龍造寺家兼を中心とする血生臭いすったもんだの末、また鍋島家へ戻っている。
その後、龍造寺家は家兼から曾孫の隆信に家督が受け継がれるが、隆信の実母である慶誾尼が鍋島清房に嫁したため、隆信と直茂は義理の兄弟ということになる。
そういう繋がりもあってか隆信の信認は厚かったようで、1570年に起きた今山合戦では、篭城すべしとの意見が多数を占める中、直茂は夜襲を進言。自ら夜襲隊を指揮し、大友軍を潰走させている。この一件で、直茂は家中の誰もが一目置く人物として、龍造寺家の重鎮となる。
その後も龍造寺家は順調に勢力を伸ばし続け、隆信が家督を息子の政家に継がせた際は、その後見を任されるなど、家中からの信認が厚かった。
隆信の戦死と後継者問題
1584年の沖田畷の戦いで、釣り師こと島津家久の強襲により、龍造寺隆信が戦死してしまったのである。この時、隆信はいったん軍議で決まった作戦を急遽変更。直茂と反対の進軍路を取る事となり、それが結果として隆信の死につながった。そのため、この件については直茂が隆信に疎まれていた説(隆信暗愚説)や、釣野伏のための島津の陰謀説など、様々な議論がなされているが、真相は不明である。
確かなのはこの時、隆信が討たれた事によって3万とも5万とも7万とも言われる龍造寺軍が、5千程度の島津軍に壊滅させられ、龍造寺四天王と呼ばれる武将をはじめ多くが討ち死にし、龍造寺家は一気に興亡の危機にまで追い込まれた事である。(この辺、龍造寺家が大友家を破った今山合戦と通じるところがある。)
この合戦の際、直茂は龍造寺政家と共に進軍し、有利に戦いを進めていたが、隆信戦死の報を受け全軍が潰走。直茂自身は自刃を覚悟したというが、近臣に諌められ、辛くも戦場を脱出している。
それからは政家を主として龍造寺家を支え、島津が隆信の首を返そうといった時も、断固拒否することにより島津家には屈しないという対外的なアピールも忘れなかった。結果的には島津家に降る事になるが、この時の毅然とした態度から、龍造寺家は島津家の下でもそれなりの立場を保つことができた。
秀吉の九州進行と龍造寺家の実権掌握
島津家の下で恭順の意を示しながらも、直茂は早くから中央権力である豊臣秀吉と誼を通じており、秀吉に早くから九州征伐を促している。そして実際に秀吉の九州征伐軍が来ると、龍造寺家はいち早くそれに加わった。この動きが、秀吉にいたく気に入られたようで、この際、龍造寺政家の本領安堵とは別に、直茂も秀吉直々に所領を安堵されるという、奇妙な現象が起こった。(この時点で安堵された領土は、政家親子より直茂親子の方が多かったという説もある。)
単に秀吉に気に入られなかったのか、それとも出来がよくなかったのか、政家はこの本領安堵の時に強引に隠居させられ、秀吉の命により直茂が国政を見る事となり、これにより佐賀の実権は事実上直茂に移ってしまった。その後、朝鮮出兵においては加藤清正の与力として、龍造寺家家臣団を引き連れ朝鮮入りし活躍している。龍造寺家家臣団との上下意識はこの時に決定的となったらしく、政家は頼み込んで朝鮮に渡ったが、何もできずに終わったと伝えられている。
関ヶ原の合戦と佐賀鍋島藩の登場
そんなこんなで豊臣政権下では安定していた直茂だが、また大きな転機が訪れる。豊臣秀吉の死によって、徳川家康と石田三成が一触即発の関係になり、1600年にあの関ヶ原の合戦が起こったのである。息子勝茂は西軍に属し、伏見城攻めなど、多数の戦いで戦功を挙げた。
その際、直茂はいかにもしたたかな手を打っている。
息子勝茂が西軍に味方し戦功を挙げる中、なんと東海道の米を密かに買占め、その目録を徳川家に進呈したのである。さらに、勝茂は関ヶ原本戦が始まる前に西軍を離脱して大阪屋敷に篭り、家中一同切腹してご覧に入れると申し送った。この直茂の機転と勝茂の潔さが大いに受けたらしく、九州の西軍諸将を攻める役目を負わされたものの改易を免れ、徳川幕府のもとで佐賀35万7千石は安堵されたのである。
ところで、すっかり忘れられた龍造寺本家はというと、隠居した政家の子である高房(江戸在住)が幕府に対し積極的に働きかけたものの、事実上直茂が国主であることはどう動かしようも無い事実であった。やがて高房は若くして憤死(妻を刺殺して狂死したとも)し、落胆した政家も後を追うように世を去った。
そして佐賀一国の去就が問題となる。幕府は龍造寺隆信の実弟の信周や長信ら龍造寺一門に意見を聞くが、いずれも鍋島直茂が家督を継ぐべきと進言。しかしながら直茂は高齢のため、子の勝茂が主になるべきとなり、ここに佐賀鍋島藩が誕生したのである。(そのため、初代藩主は直茂ではなく勝茂である。但し、藩祖は直茂とされる。ややこしいが。)
晩年と葉隠
直茂は藩主となった勝茂に、表面上は龍造寺一門を丁重に扱いながら、徐々に鍋島一門の勢力が強くなるように務めさせた。勝茂も為政者としては中々の手腕があったらしく、この政策は功を奏し、やがて鍋島一門は龍造寺一門より強大となることになった。(まぁ、直茂と隆信は義兄弟だからそういった意味じゃ鍋島も龍造寺一門なのだが。)
その後直茂は1618年に81歳という長命を保ち病死している。
豊臣秀吉は彼のことを、『天下を取るには知恵も勇気もあるが、大気が足りない』と評している。彼は野心に燃えた陰謀家だったのか、龍造寺の無二の忠臣か、はたまた故郷を愛したのか。そのイメージは人により様々である。
ちなみに、『葉隠』で有名な鍋島武士は、直茂の時代にすでに息づいていたようで、直茂と関係した様々なエピソードとしては、斎藤佐渡守(杢左衛門)絡みが有名である。長くなるので割愛するが、なんというか、こう、まるっきり任侠道の大親分とその舎弟である。(一例:斎藤佐渡守「殿様が生きているのは俺のお陰だ!」→勝茂激怒し、直茂にチクる→直茂「間違いない。俺が生きてるのは佐渡守のお陰だ!」→勝茂閉口)
葉隠れといえば『武士道とは死ぬことと見つけたり』の一節が有名だが、実際はそんな単純なものではなく、朝倉宗滴の『武士道とは、犬とも言え畜生とも言え、勝つ事が本にて候』の言葉の方が近しいと思われる。隆慶一郎著「死ぬことと見つけたり」では、こんな一文がある。
『(中略)若き衆は随分心掛け、勇気をお嗜み候へ。 勇気は心さへ附くれば成る事にて候。刀を打折れば手にて仕合ひ、手を切落さるれば肩節にてほぐり倒し、肩切離さるれば、口にて、首の十や十五は喰切り申すべく候』
…いやもう、なんていうか…一般人から見れば超絶危険思想である。戦国時代の凄まじさ、かくの如し。
戦国大戦
「我が智謀の牙、受けるがよい」
戦国大戦でもVer1.20から他家(龍造寺家)として参戦。龍造寺家は全員獣の何かを模した外見をしているが、彼は狼である。当主の龍造寺隆信と同じ2.5コスト、武力8統率9と知勇兼備のスペック、更に伏兵とほぼ本願寺専用特技狙撃持ちの鉄砲隊。
計略は「生殺与奪」。敵の武力を下げ、更に自城に戻れなくする。三国志大戦の董白を反省したのか士気は重めの5。毒計略と組み合わせる所謂「毒遮断」と同じ事はできるが士気消費が大きいため、おいそれと出来るわけではない。
Ver1.20Bまでは武力低下が-3だったため今一決定打に欠けると評されていたが、1.20Cになったら範囲縮小の代わりに-4になり、同士気の計略力萎えの術の上位計略になってしまった。
この計略は他の計略とのコンボで真価を発揮する。宇喜多直家や、斎藤道三、もちろん当主の龍造寺隆信とも相性が良い。相手は逃げられなくなるためスルーして次に備える事もできず、不利な態勢で計略を撃つか、撤退するかという酷い二択になりうる。
余談であるが台詞がやたらと厨二臭い。伏兵解除が「獣を戦場に解き放ったか」、城門攻城が「進め!野獣の如く喰らい尽くせ!」とか。
そして嫁の彦鶴姫は兎担当、ていうかバニー。どうしてこうなった…
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読み:ナベシマナオシゲ
初版作成日: 11/01/05 16:39 ◆ 最終更新日: 12/04/19 13:28
編集内容についての説明/コメント: 戦国大戦にも登場しました
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