間崎哲馬単語

マサキテツマ
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間崎哲馬とは幕末武士、土佐郷士である。

概要

保5年(1834年)、高知下の下種崎町の医師の子に生まれる。号は滄浪。

幼い頃から学問に優れ、岩崎之助、細川潤次郎らと共に土佐の三奇童と呼ばれた。

嘉永2年(1849年)、江戸に遊学し、安積斎に師事。土佐に帰後私塾を開き、中岡慎太郎吉村太郎沢村惣之丞などの有志を教育した。

文久元年(1861年)8月武市半平太が土佐勤王党を発足させるとこれに参加。勤王党の要人物の一人として活動する。

勤王党員の中では例外的と言えるほど西洋の事情に通じていたためか坂本龍馬ともしく、文久2年(1862年)12月5日江戸にて坂本近藤長次郎らと共に松平春嶽に謁見している。

山内容堂示で土佐に帰する途中京都に上り、院宮に革のための旨を願ったことで「身の程知らず」と容堂の憤を買い、文久3年(1863年)3月28日に捕縛される。別件逮捕であったが旨事件が尾を引いていることは明らかであった。

武市や郷士達の助命運動も功を奏さず、間崎の他平井収二郎健太は死罪となり、6月8日にニ名と共に切腹享年30。間崎は恐怖のあまり切腹を行えず、止む従兄弟の間崎一郎がを振るって処刑し、一郎の顔には殺した時のショックで生涯痙攣の跡が残ったと伝わる。

大丈夫の、かくと心をさだめし時、わたくしの事など言出さんははづべきわざにしあれど、二歳になるめの児を宿にひとりとどめしを、これなんたらちねたらちめの血すじののこりしと思へば、

もる人の あるかなきかも 白露の おきわかれにし 撫子

(間崎哲馬辞世)

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