- プロ野球選手一覧 > 関本賢太郎
関本賢太郎(せきもと けんたろう、1978年8月26日-)とは、奈良県出身の元プロ野球選手(内野手)である。
本名は「関本健太郎」。
概要
OB | |
---|---|
関本賢太郎 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 奈良県 |
生年月日 | 1978年8月26日 |
身長 体重 |
186cm 93kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 内野手 |
プロ入り | 1996年ドラフト2位 |
引退 | 2015年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1996年の夏の甲子園で、天理高等学校の二塁手として出場したが、2回戦敗退した。
1996年ドラフト2位で阪神タイガースに入団した。背番号は64。
阪神時代
入団後、暫くは二軍生活が続いていたが、2000年に一軍昇格し、初出場を達成する。
2002年よりランディ・バースが付けていた背番号44を自ら希望し、背番号を変更した。この年は71試合に出場している。
2004年に片岡篤史に代わり、三塁手などで起用され、一気にレギュラーとして躍進。規定打席には届かなかったが、打率.316を記録(ただし、規定打席到達まですべて凡退だったとしても打率3割は超える)。
2005年には、背番号を3に変更し、藤本敦士と共に二塁手を任された。主に関本の場合は左投手の時に、スタメンとして出場していた。
2006年に、怪我で苦しんでいた今岡誠から三塁手のポジションを奪取。このシーズンは規定打席に僅かに届かずも、打率.301の活躍を見せた。また、2番で起用されていたこともあり、33犠打を記録。これ以降、関本は犠打に力を入れることになる。
2007年は二塁手を任されるが、前半戦不調が打撃成績に響き、打率.243と伸びなかった。しかし、守備の面で活躍し、二塁手としての連続守備機会無失策記録を804に伸ばし、立浪和義を追い越した。
2008年、登録名を変更し、開幕から不振だった今岡から再び三塁手のポジションを奪取した。東北楽天ゴールデンイーグルス戦で1試合4犠打(プロ野球最多タイ)、中日ドラゴンズ戦で満塁ホームランを放つなど、打撃が開眼し、初めて規定打席に達した。惜しくも3割に届かなかったものの、打率.298、8本塁打、52打点と活躍した。また、犠打数も自己最多の42犠打をマーク。
2009年は新井貴浩が三塁手に回ったため、一塁手を任されることになり、主に2番で出場。6月にグレイグ・ブラゼルが入団し、二塁手に回ったものの、怪我などが響き、本塁打の数が3本でとどまり、打率も.271と低迷した。自慢だった守備も、10失策を記録するなど、自己ワーストを更新した。
2010年は、平野惠一が好調だったこともありスタメンの機会がほとんどなくなり、代打、一塁の守備固めでの出場がほとんどとなる。それでも代打で10打席連続出塁(球団記録)を記録するなど、代打打率.355、代打出塁率.556と驚異的な記録を残した。出場機会を求めFA移籍がささやかれたが、行使して残留。
2011年は二塁手、三塁手で出場。9月1日にはまさかの4番で出場。オフに選手会長となる。
2014年7月13日の読売ジャイアンツ戦で、阪神では八木裕以来の代打逆転満塁ホームランを放った。
人物・その他
エコ活動に積極的に取り組んでおり、ヒーローインタビューでは、清掃時間の手間を省かせ、照明の点灯時間を減少させる狙いで『ゴミのお持ち帰りをお願いします!!』と言い、2009年には甲子園の美化委員長に任命されている。
応援歌
球団 | レス | No | プレイヤー |
---|---|---|---|
阪神 | 応援歌のピコカキコ一覧 | 8810 |
成績
通算打撃成績
通算:15年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 1272 | 3481 | 2905 | 368 | 807 | 136 | 12 | 48 | 312 | 16 | 164 | 19 | 340 | 53 | 572 | 69 | .278 | .362 |
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 4
- 0pt