阿波細川氏(あわほそかわし)とは、阿波国・讃岐国を中心に勢力を持っていた一族である。讃州家(さんしゅうけ)とも呼ばれる。代々阿波守護に任じられた。
概要
阿波細川氏は細川頼春の次男・細川詮春が阿波国に入ったのが始まりとする。讃州家ともされているのは詮春が「讃岐守」と称したためである。当時居城は秋月城であったが、1363年に勝瑞城を築城して居城とした。(勝瑞城築城説に関しては細川和氏・細川頼春説もある。)
厳密に言えば初代の詮春は阿波守護に任じられていない。守護を任じられるのは詮春の子・細川義之以降となる。それまでは細川頼之などの他の人間が任じられていた。
細川氏内では本家である京兆家に次ぐ格式として認められており、4代・細川持常の代では6代将軍・足利義教の信任厚く三河守護にも任じられた。細川持常と細川成之の時期が阿波細川氏の全盛期であり、赤松氏滅亡後には赤松氏の再興を援助して山名氏と対立するなど精力的に動いた。
応仁の乱以降では権力が京兆家が集中したため時の当主・細川政元と対立し、養子として細川澄元を送り込むなどお家乗っ取りも画策する。しかし阿波細川氏のほうでは3代続けて当主が早世し、政元亡き後に澄元が同じ養子である細川高国と対立するも敗北を喫してしまい、勢力を徐々に失ってしまった。代わりに重臣の三好氏が台頭し、三好之長と三好元長の活躍は目覚しいものであり、阿波細川氏の命運を握ることとなる。
細川持隆が当主の時は元長の補佐を受けて足利義維を平島公方として迎え入れ、次期将軍候補として擁立して足利義晴と対立する。また、澄元の子・細川晴元を京兆家当主として頂点に君臨させることに成功するが、1549年には元長の長男・三好長慶により追放され、阿波細川氏は長慶に協力することとなり、長慶の弟・三好義賢が片腕に据えられた。しかし義維を擁立して上洛を企んだが、義賢に察知されて暗殺された。
阿波細川氏はこれ以降三好氏傘下となるも傀儡として止められたため、細川真之がこれを不服として出奔、そして挙兵する。しかし十河存保に攻め込まれて滅亡してしまった。
=阿波細川氏略系図=
細川頼春 | ||||||||||||
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├ | ─ | ┬ | ─ | ─ | ─ | ┬ | ─ | ┬ | ─ | ─ | ─ | ┐ |
│ | <阿波細川> | <和泉上守護> | │ | <備中守護> | ||||||||
細川頼之 | 細川詮春 | 細川頼有 | 細川頼元 | 細川満之 | ||||||||
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‖ | │ | ┌ | ─ | ┬ | ─ | ┤ | ||||||
‖ | │ | │ | │ | │ | ||||||||
細川基之 | 細川義之 | 細川頼重 | 細川満久 | 細川基之 | ||||||||
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細川満久 | ||||||||||||
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┌ | ─ | ┤ | ||||||||||
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細川持常 | 細川教祐 | |||||||||||
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細川成之 | 細川成之 | |||||||||||
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├ | ─ | ┐ | ||||||||||
│ | │ | |||||||||||
細川政之 | 細川義春 | |||||||||||
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┌ | ─ | ┤ | ||||||||||
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細川之持 | 細川澄元 | |||||||||||
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細川持隆 | 細川晴元 | |||||||||||
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細川真之 | ||||||||||||
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├ | ─ | ┬ | ─ | ┐ | ||||||||
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細川隆之 | 細川允之 | 畠山之照 |
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