阿蘇惟豊単語

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阿蘇惟豊(1493?~1559)とは、戦国時代に活躍した武将である。

ここまでのあらすじ

阿蘇社の成立

氏は、阿蘇山の火口原燥によって開かれた耕地に6世紀ごろ開拓族として成立したとされる。『古事記』には「君」と記され造に任命された。その君は農業開拓を氏・祖としてり、その祭者となった。そうして、9世紀初めには「神社」と呼ばれるようになっていったのだ。
一方、朝廷の方でも阿蘇山頂の噴火口は祈祷仏教盛とともに格化され、火口の「建磐」、岳の「」は人格として尊ばれるようになる。こうして9世紀には官社として認められ、火山農業氏の祖先として認識されたのである。
つけくわえるとするならば、さらに同時期には仏教的祈祷寺院も成立し、比叡山系の観世音西殿寺も成立する。

とにもかくにも、氏は制の時代には神社の祭者の長としての権威をもって、地域支配を拡大させていったのだ。

院政期から鎌倉時代の阿蘇氏

院政期に入ると白河天皇の代にこの地域は皇室領荘園・荘となる。村上源氏堀川定房が領となり、氏は荘官となったようだ。この結果12世紀初めには神主大宮に任じ、同時に代行者としての立場から、公式に領的支配者としての地位を得たのである。
氏はこうして自身を在庁衙の抑圧に対抗させ、周辺の神社の末社化などを通して領域を拡大させていった。武士団としての成立である。

氏は平氏政権の時代には惟泰、惟次子が菊池隆直らと平氏政権に対抗し、平貞能に討伐されている。

やがて鎌倉幕府が成立すると、源頼朝堀川定忠と氏の間に同地の地頭として北条氏を任命した。氏は領である村上源氏北条氏の二重の支配を受けることとなったのだ。

頼朝の死後北条時政氏の庶の強化を進めていったため、それまでの大宮を務める惣領と庶の間に厳しい差別に対して、惣領と庶の対立が化していったのである。

南北朝時代と大宮司惣庶の対立

1333年に元弘の乱がおきると、惟直は菊池武時とともに宮方につき、鎮西探題英時へ攻撃を仕掛け、失敗する。武時のように命を失うことはなかったものの、惟直は肥後に逃走。菊池武重、姉妹婿であった惟澄とともにから日向に入り、北条方と交戦していく。しかし、鎮西探題自体は大友・少弐両氏の寝返りにより英時が戦死し、九州の討幕はあっけなく幕切れた。

一方、大宮惟時も千早城楠木正成と交戦中、寝返り足利軍に加わる。そのため京都におり、惟時、惟直子はには不在だったのである。

ここを庶惟有に利用される。惟有は反惣領の庶を糾合して、大宮職を奪おうとしたのである。しかし、これに対し惟時が帰し撃破すると、惣領制がさらに強化された。

建武政権はこうした氏に対して、惣領大宮である惟直が全所領を安堵され、督の単独支配を貫する、ということを実現させたのである。

やがて足利尊氏が離反すると、氏は宮方につく。そうして菊池武敏とともに多々良の戦いに挑むが敗北惟直は自害し、惟成も戦死した。尊氏は庶である坂丸を大宮職に、庶の長老である思をその後見とした。反惣領惟時勢を利用して、氏を分裂させたのである。この際、惟澄はこの分裂に対し、菊池武敏、菊池武重らとともに宮方につく。こうして孫丸を破り、北方は孫丸の房を立てたものの、そのはきわめてわずかであった。一方、息子を失った惟時は南方にせず、事態を静観した。

懐良親王菊池武光と合流し、惟時は菊池氏の調停で惟澄と和解はしたものの、中立的立場をとり続けた。やがて九州が宮方、足利尊氏方、足利直冬率いる足利直義方のみつどもえになると、惟澄は積極的南方として活動する一方、惟時は惟澄の息子に北大宮職を譲る。これが非常にややこしいことになる。

1353年、惟時はついに亡くなった。その一方で起きたのが惟澄の名望の高まりで、征西将軍府から惟時の地位を継承した大宮として認められたのである。に対してあくまでも武方につき、斯波氏経を九州探題に任じた際旧領を安堵。惟澄にも肥後守護職をちらつかせては見たものの、惟澄はのらなかった。しかし、惟澄は死の直前自分とともに南方について息子維武に北方の維武の・惟属しようと諭した。ところが征西将軍府はこれを認めず、1365年に大宮職を惟武に任じ、氏の両統分裂は進行したのである。

やがて今川了俊の活躍によって九州を北方が制圧すると、1392年の南北朝統一の際、菊池肥後守護職に任じられたのとは対照的に、氏の一族分裂は未解決だったのである。了俊の後任である渋川満頼が武と対立すると、あくまでも満頼は北方であった肥後守護職を任じるなどの優遇策をとり、抵抗する武や、惟武の息子惟政を抑制していったのである。

依然続く両阿蘇氏の対立

は、息子惟郷に対して大宮職や本社、末社領を継承させた。しかし惟政はこれを認めず、さらに惟政の息子惟兼がこれを引き継ぎ、菊池氏の支援した惟兼と、幕府の認めた惟郷との対立は化したのである。

足利義持惟郷の地位を承認した。幕府は軍事行動に出ようとする両をけん制し、訴訟による解決を勧めたのである。この間1431年に惟郷は大宮職を息子惟忠に譲った。

そして宝徳年間(1449~52年)についに和議が整い、惟忠は惟兼の子である惟歳を養子として、両者が統一されたのである…

ところが大宮職を譲った後も、惟忠は政治的実権を持ち、菊池氏や名和氏といった南方からの干渉を排除するため惟歳をついに罷免して大宮してしまった。惟歳はこれに対し、自分の嫡子である大宮にするよう要し、惟忠もこれに妥協1483年には惟大宮として社職を行ったが、再び対立。結局菊池と結んだ惟歳、惟方が矢部幕のの戦いで敗れ、他方惟忠は病死し、こうしてついに氏の内紛は解消したのである。菊池氏方の隈部忠直の調停によって和議が成立し、ついに惟忠の息子が跡を継いだのであった。

阿蘇惟豊の登場

阿蘇惟豊のである、の代には臣団の組織化が行われた。このころの肥後は、1493年に菊池が亡くなると、菊池能運がわずか12歳で跡を継ぎ、1504年に23歳で病死。遠縁の菊池政隆が跡を継いだ。

一方氏もの子であり阿蘇惟豊の惟長が跡を継ぐ。なおこ姉妹大友義鑑の妻である。惟長の代にも菊池政隆をめぐり、支持と反対の対立が依然菊池氏で生じており、惟長は肥後守護職を狙ってこの対立を利用。大友氏の同調を得て、隈部氏ら国衆二十二人に接近して、彼らに政絶縁し、惟長を支持する起請文を提出させる。この動きは肥後北部・中部にも広まり84人の国衆が惟長に忠を誓ったのである。

こうして大友義長の協菊池政隆止させると、惟長は肥後守護・菊池武経となり、の阿蘇惟豊(やっと出てきた…)に大宮職を譲った。しかし惟長は大友氏の傀儡であり、臣団が離反。に戻り惟豊と対立する。菊池氏が隈部、内古閑氏らによて詫磨武包が迎えられた一方、氏は再び分裂の時代に移ったのである。

惟豊の時代

惟長はまず阿蘇惟豊に追われて、薩摩に逃れる。しかし、島津氏の支援を得た惟長は惟豊を撃破。惟豊は日向臼杵に逃れ、大宮は惟長の息子惟前がついた。

一方、阿蘇惟豊は日向の地で、菊池氏の系譜と言われている、甲斐宣の援助を受ける。宣は惟豊を報じて惟長、惟前子を薩摩に追放し、再び惟豊を大宮につける。惟長・惟前子は相良氏を頼って八代に移り、志田を奪取するが1537年に惟長は死去している。

甲斐宣の息子甲斐親直甲斐宗運)は島津氏と通じて惟豊に離反した、御房行を追放して御に入ると、これを拠点として氏に重きをなす。一方を失た惟前は相良義滋の婿となるが惟豊勢に責められて落し、宗運の旋で惟豊と和解。再び氏に平和が戻ったのである。

阿蘇惟豊はこの先長期にわたって、大宮職にあり、相良・名和氏らと同盟関係を維持して肥後守護職をめぐる動乱から守り、文中期からは大友氏と連携して大友氏の肥後経営に参加した。1559年に阿蘇惟豊が亡くなり、阿蘇惟将大宮となると、氏家臣団はだいぶ整備されていたのである。

また阿蘇惟豊は内裏修理料を進献し、1544年には正三位に、1549年には従二位に叙せられた。

こうして絶頂を極めた氏であったが、この後阿蘇惟種の急死、さらに幼い阿蘇惟光兼の乱への連座による誅殺で、織豊期に滅んでしまったのであった。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける阿蘇惟豊の力一覧。

やや古い時代の人物のため、登場しないこともままある。どちらかと言えば知略地方といった塩梅か。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 戦闘 智謀 政治 野望
天翔記 戦才 62 智才 40 政才 134 69 野望 54
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 52 戦闘 49 智謀 36 政治 49
世記 采配 54 智謀 37 政治 49 野望 69
蒼天録 統率 42 知略 67 政治 70
下創世 統率 45 知略 65 政治 68 教養 68
革新 統率 50 武勇 41 知略 73 政治 76
統率 50 武勇 41 知略 73 政治 76
創造 統率 47 武勇 50 知略 70 政治 73

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