静形薙刀(刀剣乱舞)とは、ブラウザゲーム「刀剣乱舞-ONLINE-」に登場する刀剣男士である。
今日も新たな概要を作ろうか
薙刀、静形だ。大別して、実戦用とされるな。
……しかし、名のあるものは脇差に直されてしまう事が多くてなあ。これが時代の流れか
細身で反りが小さく、実戦用とされる薙刀。
戦場での武器の変遷からか、槍に対して対抗心が強い。
主に対して自身に近寄らないよう促すのは、己の力で審神者を壊してしまわぬよう気を使っているため。
刀種は薙刀。
岩融(刀剣乱舞)、巴形薙刀(刀剣乱舞)に続く三本目の薙刀となる。
2018年4月17日~4月24日まで、鍛刀による入手が可能。鍛刀時間は5:00:00。
薙刀用のレシピは資材が重めである事から苦戦する審神者もいれば、運よく数度の試行で入手できた審神者もいるなど、恒例の光景が展開される事となった。ただし今後も定期的に登場するとの事なので、資材やお財布と相談して無理に深追いをしないのも一つの手である。
2018年7月3日に鍛刀・通常マップドロップの刀剣男士が大きく変更され、恒常で鍛刀が可能になった。しかし、5:00:00自体が低確率なことと、静形薙刀の出現率も低いことから、入手の難しい刀剣男士の一角となっている。
困った風な下がり眉とダークグレーのルージュが印象的な美青年。右サイドの鋭い感じの一房の髪は、本体の特徴的な形を反映している。
巴形薙刀(刀剣乱舞)と対のデザインで、戦装束のカラーリングも巴形の反転である。大きな違いは胸から下、腰回りにかけてかなりの露出が見られる点。お腹が冷えないかちょっぴり心配。
形から腰にかけては赤い毛皮の装飾がついており、戦装束の黒+金と合わせて豪奢な印象が強い。履物は巴形同様ピンヒール。
内番装束では黒い着物に赤い袴で、巴形とは違い襷かけをしている。
他の刀剣男士と異なり、固有の銘や逸話を持たない存在。
すなわち「静形」と呼ばれる形状の、数ある薙刀の集合体であり、ある意味同田貫正国(刀剣乱舞)や千子村正(刀剣乱舞)に近いのかも知れない。
淡泊な台詞が多い巴形と比較すると、気さくな一面が見て取れる。
近侍にすると、かつては静形の薙刀であった鯰尾藤四郎(刀剣乱舞)・骨喰藤四郎(刀剣乱舞)に言及し、「鯰のといい、骨喰のといい、ここには親近感の湧く奴が多いな」と口にする。一方で「槍というのはどうもいけ好かんな」と言うのは公式Twitterでの紹介文通り、武器としての対抗心が伺える。他方、放置時や演練の台詞からして、他の刀剣男士との触れ合いを大事にしている様子である。
主たる審神者の事は「主ぃ」とやや甘えたように呼ぶ。かわいい。武器であるが故に傷つける事を恐れている風な台詞をたびたび口にする所から、彼なりに気を使っているのが見て取れる。
戦場では「さぁ、実戦用の力を見せるぞ!」と宣言して薙刀を振るい、傷を負っても動じない。真剣必殺では薙刀恒例ポールダンスのポーズを決め、「いまこそ、力を解放する時!」と吠える。この時哄笑する口からは鋭い牙が覗いており、非常に剣呑な印象を与える。
ランクアップ時には「銘も逸話もない俺だが、活躍すればするほど強くなる」と、戦働きにこそ己の価値を見出しているようにも見える。
巴形と共に出陣すると回想「戦況の行方」が発生。
銘も物語も持たない自分達が「戦力不足を補うために励起された」事に懸念を示し、今後の戦の行方に思いを馳せる。果たして真相や如何に……?
極実装
2020年2月12日、「極(きわめ)」が実装。
Lv65以降、修行セットの消費および96時間(4日)の修行を経て戻って来る。
ステータスが大幅にアップし、レアリティが一段階上昇、刀装枠が2→3スロットに増加。
また極になった薙刀共通の特性として、攻撃時に一定の確率で敵を1ターン行動不能にする。行動不能になった敵ユニットには星マークが表示され、次回行動時に攻撃が発生しない。
戦力不足を補う為に励起された自分が弱いのは、存在意義に関わる事だと考えて修行に旅立つ静形。しかし巴形と同じく、過去を持たない自分が過去の縁を辿って強くなることは出来ない。
「複数の刀を物語ある名のもとに習合した」付喪神、「本体が失われても逸話から顕現した」付喪神とは異なり、自分は「逸話を持たず、出自もばらばらな薙刀を、形状だけでまとめて」「足りないところを秘術で補った」付喪神であると手紙に綴る。
実戦に使われればこそ、活躍の場を槍や鉄砲に負けて姿を消した自分をどう高めればいいのかと思い悩む静形。が、突如として「難しいことを考えすぎていた」と気づき、それは巴形にでもやらせておけば良かったと悟る。過去がないが故に主の本丸で「新たな、自分自身の記憶」を作り、戦ってきた自分は、主の本丸でこそ自分の存在を高められるのだと結論づけると、胸を張って本丸に帰還を果たした。
戦装束の全体的な印象はさほど変わらず、肩当が増えた事、右耳に小さな花を飾っている事などが細かな差異になっている。
槍への対抗心は相変わらずで、薙刀の強さを世に知らしめようと意気込んでいる。一方で「ま、待て待て、慎重に接するから、主は動かんでいてくれ」とあたふたしており、力加減にはやはり慣れないらしい。馬や万屋での買い物、刀装作成の時にも苦労している様子が見え、大変微笑ましいものとなっている。
また自由時間には他の連中と交流を深めるなど、積極的に動いている様子。
活躍を記録につけておいてくれ
薙刀の詳細については、個別記事を参照。
薙刀の形状は、大別して「巴型(形)」と「静型(形)」の二つに分かれる。ちなみに岩融(刀剣乱舞)は『義経記』に登場するのみで現存しないため姿形は不明で、静形・巴形に別れる以前の時代の薙刀である。時間遡行軍の薙刀は静型に分類される。
名の由来は、平安時代の武将・源義仲に付き従い共に戦った「巴御前」、同じく源義経の愛妾として都落ちの後も共に在った「静御前」である。ただし、彼女達が実際に薙刀を振るって戦ったという証拠は存在していない。
巴型は刀身の幅が広く、大きく弧を描いているのが特徴。一方で静型は刀身が細く、反りも浅いのが特徴である。
薙刀が戦場で最も使われたのは源平の頃であり、その後南北朝時代になると矛を経て槍が登場、更に大太刀から発展した長巻が導入されるようになる。
戦闘が一騎打ちから集団戦へと移行し、「振り回す」薙刀は「突く」槍にその座を明け渡す形で廃れていった。しかし実戦武器としての薙刀は古武道として残り、現在でも複数の流派が薙刀術を伝承している。
静型薙刀については、一名を「シズ型」とし、刀工・志津三郎兼氏(正宗十哲の一人)が作った事からこの名で呼ばれるともされる。
また軍学・剣術の一流派、聖徳太子流(太子流とも)に伝わる薙刀術・静流においては、かの源義経が鞍馬寺で修行をしていた折、兵法家・鬼一法眼の弟子だった鞍馬寺の僧から剣術を教わった。そこから義経は薙刀術を編み出し、静御前に伝授したという。
後に静流は会津藩、仙台藩に伝来。訛りによって「鈴鹿流」と名を変え、三重県亀山市の片山神社には「鈴鹿流薙刀術発生之地」の石碑が立てられている。
平安時代の頃から用いられてきた薙刀だったが、世が定まるにつれて需要は大きく減っていった。このため薙刀は時に鋳潰され、農具や金物に姿を変えていったという。
一方で名のあるものは磨り上げられて刀や脇差となる「薙刀直し造り」となり、粟田口吉光作の脇差「鯰尾藤四郎」「骨喰藤四郎」は、元は小薙刀であったと伝えられている。
こういった事情もあり、往時の姿で現存する薙刀は非常に少ない。日光東照宮(栃木県)、法善寺(山梨県)所蔵の薙刀などは、奉納された事でかつての姿そのままに現存する、貴重な例である。
静御前の薙刀
前述したとおり、静御前が薙刀を振るって戦ったという確たる証拠はないものの、複数の薙刀の「物語」が伝わっている。
最も有名なのは徳川将軍家伝来の薙刀で、作者は三条宗近(または同門の別人)とされている。しかし三代将軍・家光が鷹狩の最中、目の前に現れた猪に対して振り下ろすと、なんと中心から折れてしまった。
大事な道具が壊れてしまったと大騒ぎになるが、若年寄・堀田正盛が「戦場で折れずに鷹狩で折れたのは幸いでございます」と言って周囲を諫め、その後折れた中心をとある鍛冶に継がせたという。
加賀前田藩にも静御前の薙刀が伝承しており、慶長6年(1601年)、二代将軍・秀忠の娘、珠姫が3代藩主・前田利常に嫁いだ際に持参。以後は同家の宝物として大切にされてきた。
その後「将軍家の薙刀と同家の薙刀、どちらが本物か」という話題が起きたが、利常はこれに対して「かの義経公の愛妾ならば薙刀を一本しか持たなかったという事はないだろう」と言ったとか。
この薙刀にはいくつか不思議な話が伝わっている。
薙刀を置いていた部屋に月の障りがある女中が入った時、薙刀が突然落ちて畳はおろか根太(床材を支える横木)までザックリと切り込んだという。
この話を聞いた5代藩主・前田綱紀はおおいに畏れ、薙刀を二重の箱に納め、更に注連縄を巡らせて土蔵に納めたと伝えられている。
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