この記事では、大韓民国、及び過去に朝鮮半島に存在した国の歴史について取り上げています。
~三国時代
古くは新羅、高麗、李氏朝鮮(因みにいずれも時の中華王朝との冊封(さくほう)国である)と絶対王政国家の体制をとっていた。
韓国の檀君神話によれば、檀君の国(檀君朝鮮)は紀元前2333年に建てられたとされる。
殷周時代(紀元前1000年代?)の辺りに、殷の王族である箕氏が朝鮮に国を建てたという伝説がある(箕氏朝鮮)。これも逸話のため詳しくは不明。この辺りの時代は、古朝鮮時代と呼ばれることがある。
箕氏朝鮮はその後、前漢成立直後に朝鮮に亡命した衛満(ホントはもっと難しい漢字)が箕氏朝鮮を滅ぼして、衛氏朝鮮を建てる(紀元前194年)。
その後、紀元前104年に漢の武帝により征服され、楽浪郡始め四郡が置かれる。
楽浪郡については韓国の教科書で詳しく説明されていないが、四郡各々の群名、位置、設置時期、設置理由は載っている。
尚、今まで朝鮮と言っては来たが、実際は李氏朝鮮王朝(李朝)になってからの呼称(国号)であり、それまでは「箕」や「衛」が国名だったと推測される。
ちなみに半島は「韓」と呼ばれていたらしい(後述)。
前漢の衰退に従い、楽浪郡以外が放棄されるとほぼ同じくして高句麗が建国される(紀元前37年頃?)。
前漢崩壊→新→後漢成立~衰退の辺りでは高句麗は漢に攻めたり攻められたりを繰り返している。
紀元前の終わり~4世紀ごろに、朝鮮半島の南には馬韓・弁韓・辰韓と呼ばれる地域が存在し、それぞれ小国家群のようなものを形成していた。これらは三韓と呼ばれている。
このうち馬韓・辰韓は中国の支配が弱まったために独立し、それぞれ百済・新羅となった。日本書紀によると、その一方で弁韓を母体とする伽耶諸国は統一国家の建設が遅れ、日本の大和朝廷による支配を受けることになる(任那)が、伽耶が日本の支配下にあったかどうかについては日韓双方で意見が食い違っており、論争が続いている。
391年には当時倭国と呼ばれていた日本が朝鮮半島に侵攻、百済・新羅を破り高句麗とも矛を交えた。
一方、高句麗は広開土大王の時代に遼東半島や満州、さらには朝鮮半島の南部にも進出し、一時期は百済・新羅も臣従させた。
5世紀の途中まで高句麗は朝鮮で最大の勢力を誇っていた。
しかし百済・新羅も負けてはいず、高句麗の支配から脱却し激しく争うようになった。
百済は日本との関係を深め、半島内の敵対勢力と対抗することになる。
一方新羅は中国の王朝から冊封を受け対抗する。
6世紀半ばに日本は国力を整えた新羅によって敗れ半島での勢力を失い、これ以後名実共に三国時代となる。
その後、高句麗は隋の侵略を受けるがことごとく打ち破り、これが隋の衰退の要因となって隋は滅亡し唐が成立する。しかし唐・新羅両国から圧迫を受けて衰退し、668年には滅亡してしまう。
百済は任那の領有をめぐって高句麗と結び新羅と対立するようになるが、高句麗と同じく衰退し660年には滅亡してしまう。663年、百済の残存勢力は日本に救援を求め唐・新羅連合軍に決戦を挑んだが(白村江の戦い)、完敗し百済復興の夢は断たれてしまう。
おまけ:現在の韓国では、百済(クダラ)や新羅(シラギ)を漢字そのままの読みで「ペクチェ」「シルラ」と読む。
現在の韓国語と当時の韓国語が同じではない証左になる事象である。
(本来漢字が無かった国ゆえ、当て字で読むべきところを、なぜか漢字の読みそのままの為)
こうして新羅による朝鮮統一がなったわけだが、統一戦争の再末期に百済の再興をかけて激しく争ったこともあってか、日本との関係は必ずしも良好とはいえなかったようである。
もっともそれは政治面での話で、経済面では深い交流が行われているという現在と全く同じ構図が展開されていた。
ちなみに、百済滅亡直後百済の領土は唐の領土となっており、百済の滅亡後即新羅の朝鮮半島統一ではなかったりする
新羅は民衆を豊かにし、文化を広めたが、相次ぐ反乱により弱体化し、ついに分裂してしまう。900年に弓裔により泰封(後高句麗)が、901年に甄萱により後百済が成立することになって、泰封・後百済・新羅の三国が対立していたこの時期を後三国時代と呼ぶ。弓裔の暴政により民心が荒れた泰封は弓裔の部下である王建によって滅亡する。王建は国名を高麗に変え、朝鮮半島を統一する。
高麗時代(936年~1392年)
この時、中国の漢民族勢力は北方へ進出するだけの国力がなく、朝鮮半島と国境を接することになったのは女真族系の国家であり、不安定な関係が続いた。
12世紀半ば、武臣のクーデターが成功し、武臣政権時代が100年間続いた。
13世紀になると今度はモンゴル帝国(元)と対立することになり、武臣政権は首都を開城から江華島に移し、40年間抗戦した。この措置はモンゴルの水軍が弱いことを利用したものであった。しかし、本土で苦しむ民衆は島で楽な生活を楽しむ支配層に反感を持っていた。結局高麗はモンゴルの強大な力には抗えず服属し、武臣政権も崩壊した。
その後、元は高麗の水軍と共に2度にわたって日本を侵略する。これが有名な元寇である。
だが日本軍の奮戦や暴風雨により、元・高麗連合軍は壊滅することになる。
ちなみに日本侵攻をフビライに進言したのは高麗王『忠烈王』である
元宗十三年 三月 『惟彼日本 未蒙聖化 故発詔。使継糴軍容 戦艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 勉尽心力 小助王師』
惟だ彼の日本のみ、末だに聖化を蒙らず。故に詔使を発し、継いで軍容を耀かし、戦艦・兵糧は方に須むる所在り。
もしこのこの事を以て臣に委ぬれば、勉めて心力を尽くし、小しく王師を助くるに庶幾からん
ちなみに、元朝への臣従後、高麗の王太子は幼少期に元の首都・大都(現・北京)に留学し、そこで元の皇族の女性と結婚するという慣例ができた。そのため、高麗末期の国王は血脈的にはほぼモンゴル人だった。
やがて中国大陸で大規模な反乱が発生し、元が衰退していくのに乗じて高麗は元と断交、ふたたび独立する。
この時期に、倭寇との戦いなどで功績を上げ台頭していた李成桂はクーデターを起こして政権を掌握したのちに高麗王に代わって国王になり、李氏朝鮮が成立する。
李氏朝鮮初期(1392年~1597年)
李氏朝鮮はそれまでの高麗の仏教に代わり、儒教を国教と定めた。李氏朝鮮は儒教や朱子学を重視しており、これにより上下関係や序列を強く意識する風潮が生まれた。またこの時期に、独自文字である「訓民正音」(現在のハングル)が第4代国王・世宗によって定められたが、「漢字以外の独自文字は蛮族の風習」と見なす知識階級の風潮から、大きくは普及しなかった(ハングル(偉大な文字)として朝鮮人から見直されるようになるのは、19世紀になってからである)。文化面では李朝白磁などがあったが、これらは当の朝鮮人よりもむしろ、わびさび好きの日本人に好まれた。これら現在にも影響を与える文化・思想などは大抵が、李氏朝鮮の時代に誕生したものである。
李氏朝鮮はしばしば他民族の侵略を受けた。特に北方の女真族などには度々攻め込まれており、朝鮮政府の頭痛の種であった、
日本人にとってよく知られているものに、豊臣秀吉による2度の侵攻(文禄・慶長の役)がある。
文禄の役では戦争慣れしていた日本軍に対し、初め朝鮮軍は翻弄され続けた。だがしかし、李舜臣率いる朝鮮水軍によって日本軍の補給がつまずき、なんとか体勢を整え明の援軍が加わったこともあって膠着状態に陥ったため、講和が結ばれ休戦となった。
その後交渉が決裂し、再度侵攻(慶長の役)した日本軍であったが、今度は最初から体勢を整えていたため日本軍は最初から苦戦を強いられる。しかしそれでも蔚山城の戦いで加藤清正が連合軍側を打ち破るなど奮闘したため、またしても膠着状態となる。しかし、この時豊臣秀吉が死去、戦争を継続する意義を失った日本軍は撤退する。
余談だが、この時に唐辛子などの香辛料が朝鮮半島にもたらされ、キムチなどの韓国料理のきっかけを産み出した。
また、この時多くの職人たちが日本に連れてこられた結果、薩摩の薩摩焼などの陶器が生まれることとなった。
なお、朝鮮側もちゃんと日本が侵攻するかどうか調べるため偵察などを行っていたが
侵攻するという報告を持った派閥と、侵攻しないという報告を持った派閥が対立し、なんと侵攻すると伝えた派閥が敗北して侵攻してこないと言う報告が選択されたのだった
李氏朝鮮後期(1597年~1873年)
日本では秀吉の死後に徳川氏による江戸幕府が成立することになるが、その際に対馬の宗氏を通じて和平が果たされる。江戸時代を通じ、日本は鎖国政策をとっていたが、唯一李氏朝鮮とは国交を結び、定期的に朝鮮通信使を受け入れていた。この通信使は朝鮮側の警戒心もあって、日本の国内事情の視察、つまりスパイとしての役割もあったといわれる。
このとき、朝鮮から連れ去られた人々は帰国することになるが、陶工等の職人はほとんど帰国することがなかった
儒教などの影響で職人が軽視されていたなどと色々諸説あるが、結果的に日本に残る人が多かったのは事実である
江戸時代を通じて、こうした表向き平穏な日朝関係が維持されており、朝鮮は国境を接する北方の異民族などを警戒しつつ、特権階級である王族や両班らはひたすら権力闘争に明け暮れていた。この頃、満州で成立した後金(後の清)が明に代わって中国大陸を統一。李氏朝鮮は清に服属し、朝貢することになる。
明が衰退して清の時代になると、当然清の要請(事実上の命令)から明に対し出兵することになり、明軍を攻めることになったのは歴史の皮肉であろう
2回の戦争により荒れた李氏朝鮮だったが、支配層は権力闘争を続けた。支配層の中で朱子学の解釈が異なったため西人・南人・老論・少論などの派閥が出来、自分らと異なる意見を持つ集団を異端とみなし、粛清し続けた。彼らは自分の利益だけ貪り、民のことは一切気にしない集団に変化した。この頃、激しい飢饉と災害が重なって李氏朝鮮は大きく衰えた。
18世紀に入っては、英祖(第21代国王)と正祖(第22代国王)が革新的な政治をすることとなり、権力闘争が大分収まった時期もあった。またこの頃、理論に偏って実質的な国家経営に役立たない朱子学に反し、「実学」が隆盛した。実学は科学技術と産業革新を重視する学問だったが、実学者の大部分が没落した権力層の後裔だったため、中央政治に反映されることはなかった。実学者の中には、後の共産主義にも似た農業革新を模索した丁若鏞が有名である。またこの時期には陽明学も導入されていた。
しかし19世紀に入ると今度は全ての派閥を粛清した家紋(安東金氏・豊壤趙氏)の独裁時代が始まり、益々衰えた。彼らは若い国王(純祖・憲宗・哲宗)を擁立しながら約60年間中央政治を荒らした。1863年、若い高宗(第26代国王)の変わりに彼の父、興宣大院君の改革が成功してこのような現象は大分収まった。興宣大院君は政治腐敗をなくすため努力した。一方、西洋勢力に対しては激しい鎖国政策を取った。朝鮮を開港するためフランスとアメリカが侵攻してきた(1866年・1871年)が、政策に変化はなかった。1873年、高宗が成年になり興宣大院君は引退した。
1873年~1910年
幕末になって西洋列強の進出への危機感から尊皇攘夷や討幕運動などが起こり、やがて明治新政府が成立すると日本は朝鮮に対し新たに国交を結ぼうと働きかけるが、この時日本側の国書に中国皇帝しか使ってはならない漢字(勅など)が入っている事などを理由に朝鮮は国交を拒絶。この頃より、表向き穏当に保たれていた日本と朝鮮の両者の関係に揺らぎが生じてくる。
また、日本はロシア帝国の南下への危機感から、朝鮮に対し近代化を呼びかけるとともに、地政学的な観点から朝鮮を中国やロシアから切り離し、日本の勢力圏に取り込もうとするが、これが当時の朝鮮や、その周辺国であった清やロシアとの対立を生むことになる。朝鮮もまた、日本に倣って近代化しようとする派閥(独立党)と、旧来の(中華)文明圏としての風習を守るべきとする派閥(事大党)同士の争いや、民衆の反乱などにより、政治に混乱をきたし始め、政権の弱体化が目立つようになる。日清露による朝鮮への勢力圏争いはやがて歪みを生み、これらの歪みは戦争となって火を噴き、1894年、日本と清の戦争(日清戦争)が起こる。
結果は日本の勝利に終わり、1895年に結ばれた下関条約(日清講和条約)によって、李氏朝鮮は清の元から独立する。1897年より朝鮮国王は皇帝を名乗り、独立国家として国号を大韓帝国と称する。
中華文明圏内では『王は皇帝より授かる物』として浸透していたため、独立国となるために帝国を称する必要があったのである。
1900年に起きた義和団事件が元となり、当時の列強が中心となった連合軍が北京を占領する。原因は義和団の乱に乗じて行った清による宣戦布告であり、戦闘そのものは(史実的には)実にあっけなく終了した。これについては『北京の55日』という映画が有名。
その際、ロシアは撤兵せず満州領域を占領下に置いてしまう(何故か学校では教えてくれない日露戦争の遠因)。
その際、当時の大韓帝国は当然ながらロシアに接近し、且つ日本にも近付くと言うどっちつかずな行動を取ってしまう。しかも韓国皇帝自らロシア大使館に入って政務を行うという問題まで起きた。
1904年、日露関係は緊張の限界に達し、日露戦争が勃発。ギリギリ判定勝ちを収めた日本が東アジアでの主導権を握ることになり、これによって日本は列強の一国として国際社会で認められるようになる。…同時に、大韓帝国は国際社会において無能国家として見られるようになってしまう。特に、外交において密約が通じなくなった西洋でハーグ密使事件を引き起こしたのが致命的だった。
もはや国を維持できないのではという状況から、併合か連合か自立させるかという争論の中、併合慎重派(場合によっては併合もやむなし)の伊藤博文が1909年に韓国人によって暗殺されたことをきっかけに、一気に併合へと世論が流れてしまう。
1910年に結ばれた韓国併合に関する条約により、韓国は大日本帝国の領土(日本領朝鮮)となる。なお、併合に当たり、韓国の皇族や貴族は王公族や朝鮮貴族として、日本の皇族・華族に準ずる地位を与えられた。なお、併合に一番協力的だったとされる一進会は同君連合を求めていたらしく、完全併合には反対していた。
1910年~1945年
併合後の日本政府は、朝鮮半島の『近代化』を目的とした開発を進めることになる。
京城帝国大学(現・ソウル大学)などの学校建設、創氏令による戸籍の作成、身分制度廃止による奴婢・奴隷の解放などである。
これは現在の韓国でも一部認められている行為だが、表立って言われることは無い。日本の統治について肯定的な発言を行えば、『親日派』として断じられ、社会的に抹殺されてしまうからである。
現代財閥などはこの時期、日本軍に米を売るなどして戦後財閥の力を付けている
1945年~1953年
1945年、第二次世界大戦で日本がアメリカ合衆国を中心とした連合軍に敗北した後、朝鮮半島は北緯38度線を境に南北に分割され、北はソビエト連邦、南はアメリカ合衆国を中心とした連合国の統治下に置かれることとなった。
余談であるが、この当時大日本帝国側は朝鮮側に自治権を与えようとしていたが、アメリカ側が拒否した経緯がある(マーク・ゲイン著「ニッポン日記」)。
また、9月初頭に朝鮮人民共和国として独立しようともしたが、アメリカ以下連合軍によって制止された(マーク・ゲイン著「ニッポン日記」)。
正式な連合軍統治が始まるまでは、朝鮮総督府が朝鮮半島の統治を継承した。
なお、各役所などの役人や警察官、消防士は、日本統治時代から継続して仕事に就いた。
なお、併合当時日本警察などによる拷問があった…という話がよく出るが、朝鮮半島の警官は独立後も引き続き職務に就いた…事を考えると、誰が誰を拷問をしたのか大体見えてくる。
独立闘士と言っていた人が、実は満州で憲兵をやっていた…などという騒ぎも韓国で実際に起きた。
やがて連合国の朝鮮統治は終わり、朝鮮は単独で独立するはずであったが、朝鮮人の右派左派のいざござや冷戦の影響もあって、1948年に南半分側単独で選挙を行い、アメリカの後押しを受けた大韓民国(韓国)が正式に建国される。その後を追うように、ソ連の後押しを受けて北半分側で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国される。
この時期、当時の韓国大統領・李承晩が一方的に「李承晩ライン」を宣言し、島根県の竹島付近で操業していた日本人漁師を虐殺、武力占領してしまうという事態も発生している。この領土問題は60年以上経った現在でも解決に至っておらず、日本政府はハーグの国際司法裁判所での解決を呼びかけているものの、韓国政府は未だ応じていない。
その2年後の1950年に、ソ連が支持していた北朝鮮が韓国側に侵攻。
北朝鮮側に多数の資源があった為か序盤は北朝鮮有利に事は進み、韓国側はその領土の殆どを占領され、一時は釜山にまで追い詰められたが、アメリカ軍を中心とした国連軍(と言うよりは多国籍軍)が介入し、仁川上陸作戦を中心として今度は逆に北朝鮮の領土の大半を占領する。
が、のちに北朝鮮から参戦要請が来ていた中華人民共和国が「38度線を越えた」という理由により参戦、人民解放軍を「志願兵」という形で北朝鮮側への援軍として送り込み、これによって韓国側は占領地域を押し戻され、戦況は膠着状態となった(もとい、当時の米大統領ハリー・S・トルーマンがグダグダなだけであったが)。
ちなみに、この当時MiG-17とF-86Aセイバーとで初のジェット戦闘機による空中戦が展開された事でも有名である(F-86の勝利)。
やがて1953年になり、ソ連のスターリンの死去や、アメリカ大統領がアイゼンハワーに代わるなどの国際情勢の変化に伴って停戦への動きが本格化し、同年7月27日に板門店で停戦協定が成立、これによって北緯38度線を走る軍事境界線を境に、朝鮮半島は完全に南北に分断される事になった。
朝鮮戦争で活躍した有名な将軍として、白善燁がいる。元日本軍人だが、朝鮮戦争で釜山攻防戦を戦い平壌一番乗りを果たし、38度線で戦線を支えた韓国最初の大将である…が、今は親日派リストに名を連ねている。
だが、今の政権で名誉回復が行われるとか(名誉元帥授与の予定)。
朝鮮戦争中には保導連盟事件や国民防衛軍事件等も発生している。
1953年~1987年(民主化以前)
朝鮮戦争後の韓国は日本とも国交を回復し、賠償放棄の代わりに韓国への無償援助等を行った事により、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展をし、急成長した。
その後、ベトナム戦争による特需が発生した事も手伝って(余談であるが、韓国も参戦している。詳しくは後述)発展が進んだ。ヨーロッパや中東にも出稼ぎに行っていた時代もあり、苦難の歴史もあるのだが、表立って言われることが少ない。
戦争直後、李承晩大統領は激しい反共体制を整い、自由党独裁を始めた。憲法を2度も改正して自分の当選(1952年、1956年)を誘導したほか、野党(進歩党)を弾圧してその党首を「赤」と罵倒し殺すこともあった(進歩党事件、1959年)。現在韓国政府はこの事件を独裁権力による司法殺人と認め、公式的に謝罪した状態。1960年の選挙では自分の側近、李起鵬を副大統領に当選させるため不正選挙を行った。これに対抗して慶尚南道の馬山で抗議デモが起こり、ここで高校生が催涙弾によって死んだ事がきっかけとなって李承晩政権が倒れる革命が起きた(4・19革命、1960年)。革命は成功し、李承晩大統領はハワイへ亡命、腐敗の温床であった副大統領候補・李起鵬は息子に射殺された。
革命後の改憲では張勉を総理とする内閣制を採択、現代日本のような政治体制をとった(張勉内閣)。この時期、社会は混乱し、北朝鮮との統一運動が活発に行われていた。不安定な政治に危機を感じた朴正煕を中心とする軍部は1961年クーデターを敢行した。彼はまた改憲を行って再び大統領制を採択し、2年間の社会安定化という大義名分をもとに執権を務め、1963年の大統領選挙で当選した。
韓国軍はベトナム戦争にアメリカ軍の要請を受けて参戦。
結構『アレ』な行動に出たため非常に嫌われる結果を生み出してしまう。
その後、大統領が謝罪しようとするも、退役軍人の反発を受けて撤回してしまうことも起きた。
1960年代~1980年代までは軍部独裁による支配が続いていた。
1948年の独立以降『いちおうの』民主主義的政策が一番悪い方向へ向かってしまっていたのも大きな原因である。
クーデターの中心人物である朴正煕は、当時壊滅状態だった韓国(最貧国扱い)を立て直すために日本との国交回復、アメリカからの援助受け入れなどを行い、国民ではなく産業にその資金を投入して基礎国力を高めた。
同時に、不安定な国内を安定させるために強硬的な思想及び文民の統制を行った。
「自由が無い」という不満や「弾圧」といった否定的評価も多いが、結果的には韓国経済を発展に導く事に成功(比較対象は当然、北朝鮮)。
日本から得られた資金は殆ど産業促進に廻しているが、『日本から被害を受けた人』には申し出るよう新聞広告は出されている。
近年、韓国政府は日本国内にいる強制連行された人に対して保障要求などの申し出を求めたが、申し出る人は殆どいなかった。「殆どの在日朝鮮・韓国人が強制連行で連れて来られた」と主張しているのに、おかしな話である。
1974年、朴正煕大統領の夫人が暗殺されるという暗殺未遂事件が発生。
犯人は『自称日本人』で、暗殺に使われた武器は日本の警察から盗まれたニューナンブであったため、日韓関係は一触即発寸前の事態にまで悪化しかけたが、犯人が『在日韓国人』であることが指紋押捺で証明される。
なお、指紋押捺はもともと韓国政府の要請であり、廃止も韓国政府の要請によるものである。
その後、KCIAの金載圭が当時の大統領朴正煕を暗殺する事件(10・26事件、暗殺の理由は未だに不明である)を皮切りに、全斗煥を中心とした粛軍クーデターが発生する。1980年5月18日から27日まで続いた光州事件がピークとなり、170人が死亡するという流血の惨事となるなど、独裁体制は民主化宣言が行なわれる1988年まで続いた(余談であるが、全斗煥は当時の韓国の大統領には珍しく親日的であり、自分の国にも責任があると認めた程である。だがこれが祟ったのか1996年には死刑(後に特赦)が言い渡される等、目の敵にされた。もちろん、不正が原因であり、親日であることが死刑判決の原因ではない)。
1988年にソウルオリンピックが開催された後、韓国内の民主化が急速に拡大し、一時期日本に迫る勢いで主要都市が発展を続けた。
だが1997年に発生したアジア通貨危機における影響をモロに受けてしまい、経済面では金融機関が多数の焦げ付きを起こし、IMF(国際通貨基金)の介入を招く事態にまで発展。ソウルの証券取引も最大7.2%下落しデフォルト(債務不履行状態=借金国行き)寸前にまで追い込まれ、結局財閥解体が行われるハメとなった。
その後、インターネットインフラを世界に先駆けて整備し、辛うじて経済的に立ち直ったものの、今度はクレジットカードの乱発による破産が急増(アメリカの数倍とも)し、消費が冷え込んだりなどしていたが、2008年になって政情が悪化した事とアメリカドルが上昇した事が引き金となり、ウォンが急下落する事態になってしまっている。もっとも、話がそれだけであれば競争率の件でメリットはある。問題はドルの流出であり、ここまで陥ってしまえば経済崩壊の恐れがある為、韓国政府は封じ込めを図っている状況である…が、サブプライムローン及びリーマンブラザーズの破綻による世界恐慌の煽りをモロに食らってしまい、経済崩壊と首の皮一枚で繋がっている状態である。
現在は貿易黒字もあるため小康状態に見えるが、実際は市場が非常に小さくなっている結果の黒字である。
また韓国には冷戦期より長らくアメリカ軍が駐留しているが、近い将来完全に撤退する見通しとなっている。
関連項目・リンク
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読み:カンコクシ
初版作成日: 08/11/08 12:29 ◆ 最終更新日: 12/03/17 07:11
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