須田盛秀単語

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須田盛秀(すだ もりひで 1530年~1625年)とは、須賀二階堂氏最後の門であり、息子を惨殺された悲劇の武将であり、老いてなお精鋭騎を率いたチート爺である。通称は次郎美濃守。

二階堂の四天王

1530年出生。須田秀行。
須田氏は義綱、あるいは佐々木高綱の末裔を称し、源頼朝州合戦に従った須田秀範が岩瀬福島県須賀)に領地を賜って和田を居と為したのが始まりとされる。
二階堂為氏の頃に麾下へ参じて須賀領内統一を助け、以来古参臣として重用されてきた。

当世の二階堂は当二階堂照行の元、隣田村の脅威を退けるために彼の当田村顕と同じく伊達稙宗を娶り、天文の乱に際しては伊達晴宗の台頭が起こると護をめて稙宗党を離脱するなど、処世を誤ることなく御の維持に努めていた。

盛秀は乱世の中で君をよく援け、須賀四天王と称賛されるほどの活躍をしていくことになる。

1560年白河結城晴綱の臣、新城備後守を調略して二階堂と結ばせることに成功。
綱は激怒して討伐の兵を挙げ、新小萱雅楽頭篤綱を大将白石刑部大輔を先として新城の居を攻め立てた。
それに対して二階堂は保土原行を援軍に送り、結城軍を散々に打ち破った。白石は戦死、大将の新小萱は身体に三矢を受け撤退、その傷が元でのちに死した。

1564年二階堂照行逝去。二階堂盛義が当となる。
この頃、1559年に田村顕によって攻め落とされた今泉福島県須賀)を奪還すべく、盛秀を先手大将として1500騎で攻め入ったとされる。
盛秀は今泉の外曲を打ち破って々に火をかけたが、後詰の清顕が500騎を率いてくると籠300と挟み撃ちにあい、を撃ち掛けながら撤退戦を行ったが惨敗したという。
※この戦は奥羽永慶軍記へ記載されているため信憑性は限りなく低い。そもそも元領民であった者たちのを焼いたら戦に勝っても領有するどころではない。恨みを買うだけである。

1565年蘆名盛氏名盛子に松山横田侵略される。
この敗戦により二階堂は嫡男・平四郎の人質に取られ、権を奪われてしまった。

1574年名盛と結んで田村清顕を越久に攻めるが、惨敗。
※盛秀が参戦した形跡は見られない。
同年盛により急逝。人質の平四郎と隠居の蘆名盛氏が養子縁組を結び、当蘆名盛隆となる。

1580年田村清顕の田村重顕が岩瀬塩田へ侵攻を開始。
二階堂盛義は一門衆を率いて自ら出し、盛秀を始めとした須田氏、遠藤氏、矢部氏、守屋氏ら須賀四天王の兵を加えた総力戦でこれにあたる。結果、重顕は敗死する。

1581年二階堂盛義が病のため急逝。
次男・二階堂を嫡子に立てて当とする。
盛秀は寡婦となった阿南姫大乗院)をよく支え、家老として中を取りまとめている。

1582年喪中の隙に乗じて田村清顕が岩瀬新田へ侵攻してくる。
蘆名盛隆実家を救うため佐竹義重に援軍をめ、田村領・御代田へ逆襲を仕掛ける。
この戦は伊達輝宗の裁定により和へと至り、二階堂新田の他、先年奪われていた今泉の地も取り戻した。
同年不幸は続き、二階堂世してしまう。
盛秀は君不在の中を再びまとめ上げ、須賀代として阿南姫に立てて御を支えた。

1584年蘆名盛隆童に刺殺される。
な後ろを失った二階堂は以後佐竹へ心を寄せて行く。

1585年大内定綱が田村清顕の支配下から脱する。二階堂田村の敵となった大内へ加担する。
盛秀は定綱と協して田村領の攻めを行ったが、石川の守りは堅く、攻略できずに撤退した。
同年伊達輝宗が二本畠山の処遇を巡って横死、前年から督を継いでいた伊達政宗畠山国王丸、大内定綱、王丸を敵と定め、猛進撃を開始する。
これに危機感を抱いた南羽の諸佐竹義重を盟として連合し、政宗に対抗した。
盛秀は須賀衆の大将として二本救援~翌年の人取りの戦いまで参戦する。
一連の戦で伊達方の将・中村図書以下300がこもる中村を落とす功を挙げ、中村を敗死させた。

1586年王丸、疱瘡により折。

1587年連合により伊達政宗を退けた佐竹義重に懇請して次男を貰い受け、当蘆名義広とする。
佐竹護をめる二階堂にとって、佐竹義宣蘆名義広兄弟の結びつきは喜ばしいことであったが、当のでは佐竹からの新参者を快く思わず、結果として滅亡の遠因となってしまった。

1588年山合戦に南奧連合軍の五番備えとして参戦。

1589年摺上原の戦いで伊達を破り、事実上の滅亡に追い込む。
伊達政宗は次の攻略標を須賀へ定めた。
二階堂では、前年に死去した阿南姫)と前もって約定していた岩瀬御台(名盛蘆名盛隆の養女、)を貰い受け、いずれ婿を娶らせ御を復させようとしていたところであった。

盛秀はもはや望みは薄くなったとして、阿南姫の身を案じて降参を進言した。
ところが、逆に強い覚悟を告げられたため臣一同とともに王宝印の誓文に連署してにしたものをに溶かして酌み交わし、籠して徹底抗戦することを決めた。
この時有臣であった、矢部氏、守屋氏に離反者が出たものの、方の士気は依然高いままであった。
須田氏の一族にも一部伊達へ下った者がいる。

やがて進軍してきた伊達軍に対し、二階堂勢は決死の戦いを挑み一進一退の攻防を繰り広げた。
盛秀は援軍に来た佐竹岩城の兵を混ぜず、自身の股肱の臣のみで隊を結成して南口の門を守備した。
寄せ手に対し紋のごとく錐揉みにり込んで十文字に打ち破り、決して深追いせず勝ち鬨を挙げるとを立て直して次の攻撃に備えたという。

方は半日ほど耐え続け、そろそろ日暮れかという頃になったが、突然須賀四天王守屋俊重が長寺へ放火したため、本丸が落してしまう。
これはひそかに伊達へ内応していたのであり、放火は合図を待って行われたことであった。
阿南姫自害しようとしたものの伊達勢に囚われ、ここに二階堂の滅亡が決まった。

業火を見届けた盛秀は敗戦を悟り、元の居和田で最後の抵抗を、と落ち延びていった。
この時嫡男・須田秀広が生け捕りにされている。
伊達勢は勢いそのままに和田へ襲い掛かったが、兵の疲れもあり日暮れを以って撤退した。
間の内に逃散が相次いだ須田勢は佐竹の元へ落ちることを決め、和田放火して逃亡を謀った。

伊達政宗須田秀広の勇壮振りを見て「これは将たるものの嫡子に違いない」と、なおも抵抗を続ける敵方の士気を削ぐために大木へくくりつけての的当てとし、殺したという。

その後数日に渡って残党に対する追討戦が行われたが、最後まで抵抗した者たちもやがて玉砕し戦は終わった。
伊達の諸将は二階堂勢を評して敵ながら晴れ剛なる振る舞いかな、実に稀代の事なり、などと口々に賞賛したと伝わる。

盛秀は辛くも常陸へ脱出し、佐竹へ身を寄せることとなった。

茂木百騎

時は豊臣政権の世となり、関東羽も幾度かの混乱を経て一応の定をみた。

1590年には佐竹義宣護をめて岩城から退転した阿南姫岩瀬御台も合流し二階堂の遺臣が一同に集った。

1594年佐竹領内にて太検地が行われ、盛秀は茂木栃木県芳賀)を与えられた。
旧臣を率いてを治め、以後茂木騎と呼称される。

1600年上杉景勝征伐を行った徳川家康と、それに呼応して上方で兵を挙げた石田三成による関ヶ原の戦いが起こる。
豊臣であった佐竹水戸茨城県水戸市)に居て積極的な軍事行動をほとんど起こさず、徳政権が成立すると易の憂きに遭ってしまった。

1602年転封の地が出羽秋田秋田県秋田市)、仙北(同仙北市)に決定。
岩瀬御台は佐竹義宣の側室となったが、阿南姫北上中、故郷・須賀にてした。
(同仙北市)に蘆名義広の副将として移封。茂木騎の内59名を連れて代を務める。
同年下で起きた一を鎮圧する。

1603年国分盛重に代わって横手秋田県横手市代となる。
同年外様を重用する佐竹の政策に不満を抱いた宿老・川井忠遠が横手にて誅殺される。
さらに同年岩瀬御台が離縁となり、化粧料200石を与えられて盛秀の居る横手大沢に隠棲した。一説によると切支丹忌避のあおりを受けてのことであったという。
二階堂はこの離縁を以って全に潰えた。

1609年三男の須田盛方を孫婿大塚権之助に殺される。
大塚になにがしかの瑕疵があり、を引き上げさせたことを逆恨みしての蛮行であった。
よりすぐさま兵を寄せ、大塚自害せしめた。

1614年大坂冬の陣
代理として国分盛重を兵し、自身の出はなかった。
配下の横手衆から佐竹義宣直々の感状を賜った者が1名。
先年またも嫡子を失った盛秀は孫を玉生武宗にがせ養子とし、須田盛久と名乗らせて領内に住まわせた。

1615年大坂夏の陣
同じく留守居。18名の将を兵。内7名加増の活躍。
国分盛重逝去。須田盛久が代となる。

1616年徳川家康薨去。
喪中に関する諸事御法度の札が各下に掲げられる。
雲雀はもとよりの子でも獲ってはならない、との御意。

1619年正月饗応の席において、盛秀の功労を評し一代限りで佐竹一門の末席を許される。
二番座の最後に座り、佐竹義宣直々の杯を賜る。

1620年一に従い秋田領内の支は全て破却となったが、横手大館は幕府の特例により存続を許された。
同じく破却を免れたのは片倉景綱白石加藤清正領の麦など数例。

1622年領内で大眼宗と称する日信仰を広めんとしている者があり、盛秀はこれを切支丹と見做して一数十人を悉く討伐した。
この苛な処分は佐竹義宣の裁可を待たずして行われため叱責を受けたが、ある時伊達政宗がこの話を聞くと、「須田美濃はかゆいところへ手の届く男よ」と褒めそやしたという。
同年最上義俊易のため、本荘秋田県由利本荘市)受け取りとして須田盛久以下400を兵。

1624本多正純失脚に伴い横手大沢にて預かり役。警護を担当する。

1625年逝去。享年95。
督は須田盛久が継いだ。

後世の人々は盛秀の勇武をして、梶原馬場信春と並び下三美濃と讃えている。

戒名:傑翁宗英大定門

墓は秋田県横手市金剛仙寺にあり、代々の菩提は福島県須賀金剛院。

次男・秀世は僧籍であったため争乱を逃れられて須賀にとどまり、やがて神職へ転籍した。
その子孫は今も須賀総鎮守・炊館神社おたきやじんじゃ)の宮職を務め続けている。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける須田盛秀の力一覧。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王伝(S4) 采配 61 戦闘 60 智謀 23 政治 38 野望 29
天翔記 戦才 126(B) 智才 46(C) 政才 80(B) 61 野望 38
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 戦闘 智謀 政治
世記 采配 智謀 政治 野望
蒼天録 統率 55 知略 33 政治 36
下創世 統率 知略 政治 教養
革新 統率 武勇 知略 政治
統率 50 武勇 73 知略 58 政治 61
創造 統率 67 武勇 69 知略 58 政治 60
大志 統率 65 武勇 67 知略 59 内政 59 外政 59

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須田盛秀

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5 ななしのよっしん
2015/01/04(日) 18:43:59 ID: aXnHtThM/i
父親の秀行についてちょっと調べたら、生年が(1525年~1583年)だったんだが、
それじゃ6歳の時に盛秀が生まれたことになってしまう
だから盛秀の生年はもっと後なんじゃないか?
晩年の齢90過ぎたヨボヨボの爺さんが武将として活躍してる部分が怪しいし
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6 仙鷹
2015/01/06(火) 08:26:01 ID: PA+R/9SSdO
>>5
それはすごい情報ですね。
羽陰史略には寛永二年八月日に九十二で卒とありますので1534年生なのかも、とは思ってましたが。
本文中の享年95から逆算した1530年も厳密には間違いです。数え年なので96歳1531年生が正しいと思われます。

いつか正確な文献が出たら訂正したいものです。
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10 ななしのよっしん
2015/03/31(火) 03:34:33 ID: aXnHtThM/i
を守れず結果的に滅ぼしてるんだから
チート爺ってほどでもないだろ
二階堂のためを思えば
阿南姫を強引に説得してでも政宗に降参するべきだった
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11 ななしのよっしん
2017/04/29(土) 23:44:27 ID: krnE8er75N
血気盛んな伊達の血筋入った阿南姫を説得できたらとっくにしてるんだよなあ・・・
二階堂男子死んだ時も伊達から養子を貰ったほうが良いと持ちかけたり、
須賀攻められる前に降参しようと言っていたのも須田
それを全て拒否したのは阿南姫
須田は時世を読めていた、読めずに意固地になってしまった阿南様が不幸の要因
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12 ななしのよっしん
2017/06/22(木) 03:46:44 ID: aXnHtThM/i
1560年の白河結城臣を調略で寝返らせたってとこの出典は何?
あと享年は数え年だと96だぞ
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13 ななしのよっしん
2023/09/14(木) 17:32:15 ID: VzN2HQKuYi
記事も掲示板も何でこんなに知識が濃いんだよ…
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