「養由基」(よう・ゆうき ? ~ ?)とは、中国の春秋時代の楚の国の将軍であり、李広と並ぶ中国史上最高・最強の弓の達人と言われる神箭手。
中・遠距離戦での一射当千ぶりや、狙ったターゲットは絶対に外さないと言う(良い意味で)チートな弓の腕前は、故事成語「百発百中」の語源となった。
「養叔」とも呼ばれる。
猿号擁柱
養由基の弓の精妙さは、
と言った腕前だったと言われ、特に、主君の楚王が飼っていた白猿が、飛んでくる矢を掴み取るわざをもつポケモンだったので、試しに養由基に射させてみようとしたところ、スタンバイ中の養由基の背中に鬼の顔を見たのか、
養由基が弓の弦を張り、矢のそりを直していただけで白猿が柱を抱いて泣き叫んだ
となった全盛期のイチロー伝説的エピソードは、「弓の達人の凄い腕前」を表す四文字熟語「猿号擁柱」の元ネタとなっている。
神箭将軍
射撃無双の養由基が仕えた楚荘王は、接近戦担当の豪勇無双の将・屈蕩と組ませて車右として用いた。期待に応えた養由基は、後に春秋五覇に数えられる楚荘王の快進撃に尽力し、覇者の座を晋から奪った邲(ヒツ)の戦い等で活躍した。
楚荘王が没すると、後を継いだ楚共王の家臣として仕え、亡き楚荘王によって覇者の座から引きずりおろされた晋の厲公の反撃を受けた際の鄢陵(えんりょう)の戦いに従軍時に、同じく弓の達人だった潘党と共に楚共王に対して
君にはこのような弓の名手が二人おります。心配はいりません。
お前たちのような智謀のない者は国の大恥だ。あす、弓を射たらその芸で死ぬであろう。
と不況を買ってしまい、反省した養由基は、楚共王の命令があるまでは弓術を披露するのを控えることにした。
空気読めないだか、読めるんだか・・・
そして、楚と晋の軍勢が激突する最中に、楚共王が晋の将・魏錡(ぎき)に目を射られ、楚共王はリベンジとばかりに養由基に二本の矢を与えて魏錡への射撃許可を発した。
※晋の魏錡は、戦いにあたり「月を弓で射当て、後に、さがって泥の中に落ち込む」と言う予知夢を見、自身が楚共王を射る事と、その後、自分が死ぬと言うフラグを立てていた。
まってましたとばかりに二本の矢をうけとった養由基は、二本もいらねーとばかりに魏錡の首を一矢で射ぬいて射殺した。
その後は自重モードに入った養由基だったが、晋の軍師を務めた苗賁皇の策謀と、楚の重臣・子反が酒に呑まれた酩酊状態で役に立たなかったことから楚軍が徹底するとなった際に、同僚の叔山冉より、窮地の楚軍を救う為、
君(楚共王)の仰せがありましたが、ここは国のためです。射て下さい。
との申し出を受け、一矢で複数の兵を倒す無双乱舞を発動し、撤退する楚軍を追撃してきた晋軍をひるませて追撃を諦めさせた。
しかし、戦いの結果は楚軍の惨敗だった・・・
楚の惨敗と、その後の楚共王の死につけこんだ呉の軍勢が攻め込んでくると、養由基は子庚と共に防衛の将に任命された。迫る呉軍に対して養由基は、子庚に、
呉がこちらの喪につけこんだということは、こちらが戦うことができないと思っているからだ。
きっとこちらを侮っていよう。あなたは三箇所に伏兵を設けてください。
と言い、結果呉の軍勢は庸浦で大敗を喫し、呉の公子党が捕らえられた。
※その他「養由基」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
百発百中
「百発百中」とは、矢や弾、そして占いやくじが必ず当たる事を表す四字熟語だが、その元となったのは養由基の弓の腕前に関するエピソードからである。
ある時、養由基は、弓の腕前の勝負を行うことになった。
相手が五十歩離れたところにおいた木の板に、同時に三本の矢を放って命中させると、養由基は、
五十歩だけ離れて射るのは近すぎて、的が大きすぎる。百歩離れて柳の葉を射て勝負しよう。
と言いだし、百歩離れたところにある柳の木を指差して中の一枚の葉に目印をつけさせ、その葉の中心を射抜いた。勝負の相手が、三枚の柳の葉に番号をつけて順番に射てみろよと悪あがきをしてみせると、養由基は、次々と三本の矢を放ち、番号通りに葉の中心を射抜いた。
相手が負けを認め、見物人も養由基の腕前を讃えていた時、
百歩離れて柳の葉を射貫く腕があれば、わたしの指導を受ける資格をもつということだ。
と言いだす者がいた。養由基が、
このわたしにどうやって弓を教えるというのか?
と聞くと、その者は、
貴方に教えるのは弓術ではなく、どうすれば自分の名声を守るかだ。
もし貴方の力が衰えれば、或いはすこしでも腕震えて的を外してしまうと、貴方の”百発百中”という名声はひどく傷つくことなると考えたことがありますか?
弓の達人なる者は、その名声を保たなければならないのです。
と答えたと言う。
小養由基
中国の四大奇書のひとつ「水滸伝」には、主役たる梁山泊の百八人の好漢の中に、弓の達人「花栄」が存在し、「小李広」の渾名でその腕前を讃えられていた。
作中には、方天戟の使い手である好漢「呂方」と「郭盛」が、それぞれ三国時代の方天戟の使い手「呂布」と唐時代の方天戟の使い手「薛仁貴」になぞらえたと言うか明らかに名前負けした渾名「小温侯」「賽仁貴」とつけられたように、李広がいれば養由基もいた。
水滸伝の物語の終盤、官軍となった梁山泊軍は、反乱を起こした方臘討伐戦において、百八の好漢の最初に登場する九紋竜・史進を自ら射殺した後、史進と共に斥候に出ていた石秀・陳達・楊春・李忠・薛永の五人に矢の雨を浴びせて射殺し、その後は、一騎打ちとなった欧鵬を射殺するという、石宝・杜微・王寅と並ぶ梁山泊軍に大損害を与える武将・龐万春(ホウ万春)の渾名「小養由基」に養由基の名が登場する・・・って敵キャラじゃねーか!ここでも李広大勝利か!
※その後、龐万春(ホウ万春)は梁山泊軍の湯隆に捕らえられて、戦没した好漢達への供物として生きたまま心臓をえぐりとられて絶命した。
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▼遼東でひきこもり中の楚荘王に仕える架空戦記動画「春秋戦国三国志」
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