高見山(1944年6月16日-)とは、アメリカ合衆国ハワイ準州マウイ島出身の元大相撲力士である。最高位は関脇。得意技は突き、左四つ、寄り。本名は渡辺 大五郎(わたなべ だいごろう)、帰化前はジェシー・クハウルア。愛称はジェシー。
外国出身力士として史上初の幕内最高優勝を果たし、引退後も初の外国出身横綱・曙を育てるなど大相撲国際化の道を開いた。アメリカ人らしい陽気な性格と巨体やもみあげなど独特な容姿から相撲ファン以外にも絶大な人気があり、数多くのテレビCMに出演した。
概要
砲丸投げなどの投擲競技やアメリカンフットボールに打ち込んでいたが、高校時代に交通事故で足腰に1年間歩行不能になるほどの重傷を負い、長く苦しむことになる後遺症が残った。元横綱前田山の高砂親方にスカウトされ1964年2月22日来日、3月場所に初土俵。同場所は本名の「ジェシー」で相撲を取ったが、翌場所から高砂部屋伝統の四股名「高見山」を名乗った。
新弟子時代はちゃんこの味に馴染めず、ケチャップをかけてどうにか克服した。また入門当初は体が固く、股割りの稽古で涙を流し「目から汗が出た」との名言を残している。特徴的なかすれ声は扁桃腺の手術直後に稽古で執拗な喉輪攻めを受けた結果の産物で、元々は美声だったという。実際シングルでCDを出すほど歌が上手い。
1967年3月場所で新十両に昇進し外国出身外国籍(在日や日系が既にいたのでこう表現する)で初の関取となる。化粧廻しに掲げられた「Go for broke(当たって砕けろ)」の通りぶちかまして一気に出る破壊力抜群の取り口を見せた。しかしただ闇雲に突っ込むのではなく、「見る、立つ、出る。大丈夫ネ!」を口癖にするほど、立合いから相手をよく見て立つことを心がけた。1968年1月場所新入幕、3月場所に佐田の山から初金星を獲得、1969年11月場所で小結に昇進する。
1971年に師匠の前田山が亡くなると「ボスが死んで意欲も失った」と廃業も考えたが周囲に励まされ現役続行を決意。横綱北の富士がサーフィンで休場した1972年7月場所に前頭5枚目で13勝2敗の好成績を収め幕内初優勝を成し遂げた。表彰式では当時の米国大統領リチャード・ニクソンの祝電が読み上げられた。翌9月場所に初の外国出身関脇となり、以後大関昇進を期待されるも果たせなかった。30歳を超えた1975年にはプロレスラー転向の噂が流れ(本人曰く「サインはした」)騒動を起こした。
だが下半身が脆い割に負傷は少なく、長く幕内で活躍した。金星12個、1984年3月場所に十両陥落するまで16年間97場所幕内在位、はいずれも当時1位の記録である(後に前者は魁皇、後者は安芸乃島が更新)。1980年に親方として日本相撲協会に残ることを見越し日本国籍を取得。40歳まであと1ヶ月だった1984年5月場所に幕下陥落が決定的となり現役引退。千秋楽玉龍に敗れ最後の取組は黒星に終わったが満員の観衆から大声援を受け、花道を引き揚げる際に花束を贈呈された。
引退後は年寄・東関を襲名。高砂部屋の部屋付き親方として小錦を自らスカウトした。1986年に独立して東関部屋を創設し、ハワイ出身の横綱曙、学生相撲出身の小結高見盛らを育てた。
2009年に定年退職し元前頭・潮丸に部屋を譲った。その後も協会の年末イベントでサンタクロースに扮して登場するなどしている。
息子の渡辺弓太郎は中学卒業後単身渡米し、ニューヨーク・ヤンキースの球団職員として活躍。2007年から井川慶の通訳を務めた。また従兄弟に元中日ドラゴンズ投手のフレッド・クハウルアがいる。
対戦相手
- 「角界のプリンス」こと大関貴ノ花との対決は弁慶と牛若丸に例えられ人気を博し、多くの名勝負を演じた。最後の対戦となった1980年9月場所7日目は投げの打ち合いで貴ノ花に軍配が上がったが、貴ノ花の髷が先に付いたため行司差し違いで高見山が勝利。取組後貴ノ花が記者の「髷がなければ勝っていましたね」との問いに返した「髷がなければ相撲は取れないよ」の発言は有名。後に高見山は曙を、貴ノ花は貴乃花を横綱に育て上げ、弟子の代まで因縁は続いた。
- 柏戸から千代の富士までの歴代横綱のうち、栃ノ海を除く11人と対戦して6人から金星を挙げた。特に輪島からは7個の金星を獲得し、通算でも19勝24敗とほぼ互角だった。また北尾(双羽黒)、保志(北勝海)、大ノ国(大乃国)、旭富士とも相手の横綱昇進前に対戦経験がある。
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