高重茂(?~?)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
概要
他の兄弟とともに足利尊氏に従い討幕、中先代の乱を経た建武政権からの離脱とその後の戦いを共にしている。多々良浜の戦いでは松浦氏、神田氏の降参に猜疑心を抱いた尊氏に対し、古典を引用し諫めた話が『太平記』に残っている。
室町幕府でははじめ大和権守、次いで駿河守となっている。まず最初の武蔵守護に彼が任命されているのだが、北畠顕家の二度目の上洛にあっさり破れ、顕家を追いかけた末の青野原の戦いでは北条時行相手に敗れている。
ここに見られるように彼は兄二人と比べて戦下手であり、武蔵守護は高師冬にあっさり交代されている。
しかし、同じく戦下手であった高師秋と違い、彼は実務的な行政能力に優れており、1340年ごろから引付頭人などを務めている。また高師冬によって関東が平定されると再度これに代わって関東執事に就任し、平時における行政処理能力を発揮している。
やがて観応の擾乱で関東情勢が不安定になると、再度高師冬と交代し、京都に戻る。観応の擾乱に関して彼が何らかの行動を起こしたことは史料には残っておらず、武庫川での高一族の惨殺からも免れたようだ。
しかし観応の擾乱が平定されたのち、出家して源秀と名乗った彼は足利義詮の事実上の執事と化している。こうして西国担当としてまたもや行政能力をいかんなく発揮していった。そしてやがて足利尊氏と足利義詮による東西分担体制が解除されると、彼は一線を退き史料から消えていくのである。
関連商品
関連項目
- 0
- 0pt