鳥取の飢え殺し(とっとりのかつえごろし)とは、日本史においても類のない凄惨さで知られる籠城戦である。
三木の干殺し、高松城の水攻めと併せて、秀吉三大城攻めと称される事も。
概要
伯耆國邑美郡(現在の鳥取県鳥取市)にあった鳥取城を巡る、城主吉川経家と包囲者羽柴秀吉の戦い。中国地方を巡る毛利家と織田家の戦いの一環でもある。
四か月の凄惨な籠城戦の後、城は開城し、織田方の勝利となった。
経過
事の起こりは、1580年(天正8年)6月、織田信長から中国攻めに派遣された羽柴秀吉が、因幡国守護職・山名豊国が守る鳥取城を攻めた「第一次鳥取城攻め」から始まる。 3ヶ月に及ぶ籠城戦の末、山名は降伏。織田に臣従することとなった。 ところがその1年後、毛利氏に迎合して徹底抗戦を掲げる家臣らによって、山名は城から追放されてしまった。その後は毛利家重臣にして石見吉川家当主・吉川経家が新たな城主として迎えられた。
この知らせを聞いた秀吉は、天正九年(1581年)六月、2万の兵を率いて侵攻(第二次鳥取城攻め)。 この時、兵糧攻めを献策したのが、秀吉の軍師・黒田官兵衛(孝高)だった。
天正6年(1578年)3月に起きた「三木合戦」においては、後に「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めが行われた。しかしあと少しで落とせるという時に荒木村重の謀反が発生、戦局が混乱。 更に官兵衛が有岡城に監禁・幽閉された上、竹中半兵衛が病に倒れ、参謀の不在を招く。 その後、秀吉は1年10ヶ月を費やしてようやく三木城の開城に持ち込んでいるが、時間がかかりすぎた事による味方の損耗は大きかった。
その為、兵糧攻めの手段は迅速な決着がつくように「改善」する必要があった。
そこで、秀吉はまず若狭商人を通じて米を高値で買い占めた。米の不足が原因で因幡国の米価は吊り上がった。城主不在の鳥取城内ではこれ幸いと家臣によって兵糧米が横流しされた。結果、場内の兵糧米は一人あたりひと月分もなくなったのである。この金によって軍備を拡張していたりするので非常に笑えない。城主に就任した経家は、城主になった時点でこうした状況を憂いて、本家や毛利家に対して兵糧の援助の手紙を送っている。だが、秀吉の攻囲はそれよりも早かった。
秀吉は鳥取城周辺に着くと、周辺地域の村を攻撃して住人を鳥取城に逃げ込ませ、食料の消費を更に増やさせるというえげつない一手を打った。 同時に鳥取城の周辺に十数もの砦を築いて要衝とし、あっという間に包囲網を完成させている。 この時ブラック企業並みのハードワークで仕事を完遂した土木建築集団は、その後の戦でも大いに活躍する事となるが、それは別の話。
こうして補給を断たれた鳥取城内ではたったの一月で兵糧が底を尽きた。わずかとはいえ、蓄えていた兵糧も尽きると、人々は場内の家畜を食い、それがなくなれば生えている草を食い、草も尽きれば城壁内の藁も口にした。二月で場内の食えるものも食いつくされ、三月目を迎えると自ずと餓死者が出るようになる。
この時の様子は凄まじいもので、
餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず
(信長公記)
とある。
助けを求める人々に対して羽柴軍は容赦なく鉄砲を打ちかけ、昼も夜もなく威力偵察によって戦力を削ぐ。
一方で、城から見える場所で市場を開催して商人に食糧を売買させ、芸人を集めて派手に歌舞音曲を演奏させる。これにより神経を擦り減らして心をへし折る作戦を続けた。
もちろん、この間に毛利家も手を打たなかった訳ではない。 援軍および兵糧を届けようとたびたび軍を派遣するが、鳥取城の周辺は陸路・海路ともに羽柴軍によって掌握済みだった。
細川藤孝が沖合を、浅野長政が千代川(湊川)河口を掌握して兵站線を遮断。山陰・山陽の陸路も南条元続、宇喜多直家が抑えるという鉄壁の備えは、易々と抜けるものではなかった。
更に9月16日の「湊川口の戦い」において、細川家家臣・松井康之が毛利軍を撃退、敵将を討ち取る手柄を上げている。これが決定打となり、鳥取城は補給を受ける望みを完全に絶たれた。
日本において人肉食(カニバリズム)についての記録は稀なものだが、その稀なもののひとつが、この時の鳥取城の惨状を記したものである。
糧尽きて馬牛などを殺し食いしかども、それも程なく尽きぬれば餓死し、
人の宍(しし)を食合へり
子は親を食し、弟は兄を食し杯しける(豊鑑)
【訳】 食料が尽きたため馬や牛を代わりの食料にするがそれもすぐに尽きて餓死者が出たため、今度は死んだ人間の肉を食べている。子供は自分の親の死肉を食べ、弟は兄の死肉を食べている。
味方は死骸を引取切分て是と喰ひ、或は手負て未だ死果ぬをも
是は深傷なり助かるべきに非ず、苦痛をなさんより早く死かしとて
無体に切殺し節々を放して其脳を喰ひ、中にも
佳味は首に有へりとてを頭を砕きて争ひ喰ふ有様
【訳】 味方は人間の死体を切り分けて食べあい、まだ死んでいない負傷者に対しても「これは深手だから助からないわー 楽にしてあげなきゃー」と残酷にも斬り殺し、パーツ単位で引きちぎって中身を食い、「のうみそうめー」と言って死体の頭をかち割り、その中身の奪い合いをしている状態である。
それでも経家は四ヶ月もの期間を耐え抜いたが、遂に限界を迎えて降伏。経家の他、抗戦派の家臣・森下道誉、中村春続の命と引き換えに、城内の生き残りの助命が叶えられた。
開城後に姿を見せた生き残り達の様子は尋常でなく、痩せさらばえて汚穢にまみれ、餓鬼の如く腹ばかりが膨らんだ姿に、羽柴軍の兵卒らは震え上がったという。
すぐさま飯が炊かれて彼らに与えられたが、長らく絶食していた所に急激に食物を摂取した結果、胃痙攣を起こして死亡する者が半数に上ったと伝えられる。そのため、秀吉はそれ以降の兵糧攻めで倒した相手には食物を少しずつ与えるよう指示している。[1]
秀吉は経家の奮戦に感服し、助命の上で臣従を求めた。そもそも戦の原因は抗戦派の家臣にあり、後から派遣されてきた経家に咎はないというのがその理由である。しかし毛利家重臣として自ら責任を取ろうとする経家の意思は固く、信長に許可を得た上での切腹となった。
身を清め、かねて気に入りの袷に身を包んだ経家は、遺書と辞世の句をしたためた後、家臣と別れの盃を交わした後に腹を切った。
この時「内々に稽古したものでもないから無調法であろうかも知れぬ」と言って呵々大笑してみせたという。享年35歳。
その首級と対面した秀吉は「哀れなる義士かな」と言って落涙し、信長に届けられた後に丁重に葬られた。
この時書かれた遺書の内、別流(安芸吉川家)当主・吉川広家、家臣、我が子らに当てた三通が現存している。特に最後の手紙は幼子でも読めるようにひらがなが使われており、涙を誘う内容となっている。
とつとりのこと よるひる二ひやく日 こらえ候
ひゃう(ろう)つきはて候まま 我ら一人御ようにたち
おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候
そのしあわせものがたり
おきゝあるべく候 かしこ
その後
2014年7月、鳥取市教育委員会が鳥取城址マスコットキャラクター「かつ江さん」を発表。 やせ衰えた女性をモチーフとしたデザインやだいぶアレな題材が問題となり、物議を醸す事となった。
ゆるキャラとは一体……
あまりにも悲惨な内容である為、大河ドラマ等では大体スルーされる出来事のひとつ。
「黄金の日日」の第24回「鳥取兵粮戦」・第25回「飢餓地獄」では主人公・助左が米の買い付けの最中に戦に巻き込まれる形で物語が展開、ギリギリの描写がされている。
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関連項目
脚注
- *「リフィーディング症候群」と呼ばれ、飢餓状態の人間に急激に栄養が入ることで臓器不全や不整脈などを引き起こし突然死する疾患。この疾患に関する国際的な記録は、第二次世界大戦において飢餓状態の日本兵捕虜に食物を与えた連合軍の記録が最初とされているが、歴史資料が正しければ、それより400年近く前に秀吉はリフィーディング症候群の発生に遭遇していたことになる。
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