黒木鑑隆(くろき・あきたか ? ~ 1565)とは、筑後国の戦国武将である。黒木家21代当主。黒木鑑実の子。弟に黒木実連。子に黒木家永、蒲池益種がいる。
概要
筑後の実情
元服当初は実隆と名乗るが、のちに家隆と改名する。
黒木氏は祖父・黒木親実より大友氏に属す一族であり、大友義鑑より偏諱を賜り鑑隆と名乗る。
父も同じくして右実から改名している。
この当時の黒木氏は筑後国という小国の中の2万石程度(表高は1万3千石程度)の豪族であった。
しかも筑後国には郡が10あったが、黒木氏は1郡さえ統一しておらず、上妻郡内で上蒲池こと蒲池氏に次いでナンバー2の地位に甘んじていた。
更に筑後には強大な勢力が存在しておらず、数十の勢力が群雄割拠しながら共存共栄しながら外敵を守りあっていた。
東に大友氏、南に菊池氏、西に少弐氏、北に大内氏と名門だらけに囲まれていた情勢であった。
1551年に大内義隆が大寧寺の変で戦死すると筑後にも変化という暴風が荒れ始める。
1554年には菊池義武が大友義鎮により謀殺されて肥後に大友氏の所領が増加する。
1557年には大内義隆の跡を継いだ大内義長が毛利元就により滅亡。大半が毛利領となる。
1559年には少弐冬尚が龍造寺隆信により自害を余儀なくして滅亡。
筑後周辺の情勢は急激に変化していった。
外敵による侵入
1560年代になると大友義鎮(大友宗麟と号す)が北に西にと動きまわり、鑑隆をはじめとする筑後国衆にも影響を受ける。
少弐冬尚の弟で少弐政興を肥前の西端に閉じ込めつつ大友の邪魔を排除するため、龍造寺隆信が筑後侵攻を試みた。
龍造寺が瀬高城を攻める報を聞いた鑑隆は子・家永を居城・猫尾城に留守として守らせて出陣した。
しかし、近隣の大塚村で龍造寺勢と遭遇戦となり衆寡敵せず戦死した。
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