黒沢忠三郎とは幕末の水戸藩士。桜田門外の変に関与した桜田十八士の一人である。
概要
天保元年(1830年)、水戸藩士・黒沢林蔵の子として生まれる。諱は勝数。桜田門外の変に参加した大関和七郎、広岡子之次郎はそれぞれ実弟と甥に当たる。長身の人物で、剣術、槍術、水練に長けていた。
安政2年(1855年)、家督を継ぎ、同年に馬廻組、同5年(1858年)に大番組士に任じられる。
安政の大獄に反発し、金子孫二郎や高橋多一郎の井伊直弼暗殺計画に参画。安政7年(1860年)1月、甥の広岡と共に脱藩。3月3日の襲撃に加わり、重傷を負いながら同志の佐野竹之助、斉藤監物、蓮田市五郎らと老中・脇坂安宅の龍野藩上屋敷に自訴した。同日熊本藩に身柄を預けられ幕府の詮議を受ける。その後富山藩、三田藩に預けられた後、7月12日病死。享年31。事件で受けた傷が元で死んだとも伝わる。贈従五位。
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