アブドーラ・ザ・ブッチャーは「黒い呪術師」の異名で知られるプロレスラー。
1941年1月11日生まれ。アフリカのスーダン出身を名乗っていたが、実際はカナダ合衆国(オンタリオ州ウィンザー)出身である。
ヒール(悪役)レスラーとして昭和のプロレス黄金期を支えながら、2012年1月まで現役を貫いた。
本名はローレンス・ポール・シュリーブだが、一般的にはラリー・シュリーブとして知られる。
概要
日本のプロレス界では、タイガー・ジェット・シン、ザ・シークと並ぶ三大外国人ヒールとして知られる。
タイガー・ジェット・シンが主にアントニオ猪木のライバル役ヒール・レスラーであるのに対して、ブッチャーはジャイアント馬場の敵(かたき)役であった。(4人とも各々の対戦はある)。
日本以外ではカナダ、アメリカ、プエルトリコ、オーストラリア、ニュージーランドなどでもファイトしていた。
WCWファンには1991年の「ハロウィン・ヘイボック91」での「チェンバー・オブ・ホラー金網電気椅子デスマッチ」で、電気椅子葬にされたシーンが心に残っているだろう。
2011年にはハードコア・レスリングのレジェンドとしてWWEのホール・オブ・フェイム(プロレス殿堂)入りした。その際のプレゼンターは長年のライバルであったテリー・ファンクが務めた。
日本マット参戦前
最初は「プッシーキャット・パイキンス」「ゼーラス・アマーラ」などと名乗っていたが、やがて最も知られるアブドーラ・ザ・ブッチャーの名前で定着する。
1960年代はカナダのモントリオール地区、カルガリー地区、バンクーバー地区などプロレスの盛んな地域を転戦。1970年代前半はアメリカの五大湖地区、さらにオーストラリアやニュージーランドといった南半球のプロモーションにも転戦する。
日本マット界に参戦した1970年代半ばからはアメリカのジョージア地区でトップヒールとして活躍する。
日本マット登場
初来日は1970年8月、日本プロレスの「サマー・シリーズ」である。このときはすでに常連外人だったミスター・アトミック以外は新参レスラーばかりで、ブッチャーも誰ともしれないその他大勢扱いだった。しかし、開幕戦ではシリーズの外人エース格と目されていたカール・ハイジンガーとのタッグでジャイアント馬場&アントニオ猪木のBI砲と対決。3本勝負の2本目で馬場からエルボードロップでフォール勝ちをおさめるという大金星を挙げる(なお、試合そのものはハイジンガーが馬場に仕留められて負け)。
ハイジンガーが期待外れだったのを尻目にブッチャーは巨体らしからぬスピーディーな身の動きと空手殺法、強烈な頭突きを武器にトップクラスの外人レスラーとしての地位を獲得。9月5日の東京スタジアム大会では、セミファイナルで馬場と初めてのシングルマッチを行った(結果は両者リングアウト)。9月17日の東京・台東体育館では、馬場のインターナショナルベルトに挑戦している。日本プロレス時代は初来日を含めて3回だけだが、日本プロレス春の大一番である「ワールド・リーグ戦」で優勝候補として来日するなど、その地位を確かなものとした。
全日本プロレスでレギュラー外人として大人気に
1972年に馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、ブッチャーは馬場のライバルとしてレギュラー参戦する。馬場とブッチャーの対決は互いのライフワークのようなものであり、全日の看板タイトルであるPWFヘビー級を巡って10度もタイトル戦を行っている。
馬場の脳天唐竹割りでブッチャーの額が流血し、血まみれのブッチャーが地獄突きで馬場ののど元をえぐると「プフォッ」といううめき声でひざまづくというシーンは、(特に80年代の新日本プロレスブームの頃は)マンネリと言われつつも独特の空気を作り上げ、観客はそれに熱狂していた。
馬場以外にも、全日本所属となったザ・デストロイヤーとの抗争、ザ・シークと組んでのザ・ファンクスとの抗争、さらにはそのシークとの仲間割れからの一騎打ち、大木金太郎との頭突き世界一決定戦など、様々な相手との激闘で全日の悪役エース外人の座を確立していく。特にザ・ファンクスとの対決では、テリー・ファンクの右腕をフォークで突きまくり、お茶の間を戦慄させた(当時は凶器というと白い棒のようなものであり、明らかに肌を傷つけることのできるアイテムが凶器として使われるようになったのも、この試合が大きなきっかけとなった)。
悪役として怖れられた一方、どことなく憎めないお茶目なキャラクターも次第にファンの間で知られるようになる。週刊少年マガジンで連載されていた河口仁「愛しのボッチャー」で、「がんばれ!!タブチくん!!」的な人気が広まり、1980年にはサントリーのTVCMにも登場している。1979年にチャンピオンカーニバルで優勝した際は、ファンを控え室に招き入れて一緒に優勝を喜ぶという人間的な一面も見せた。
また、1979年8月26日に行われた「夢のオールスター戦」では、タイガー・ジェット・シンと組んでBI砲と対決した。
まさかの新日本プロレス参戦も……
1981年、新日本プロレスの「MSGシリーズ」開幕戦、川崎大会に突如としてブッチャーが姿を現わす。いわゆる、猪木のIWGP構想に呼応した形による電撃移籍である。新間寿いわく「梶原一騎経由で、ブッチャーのマネージャーをしていたユセフ・トルコから引き抜きの話が来た」とのこと。新日本から動いたのではなく、梶原&トルコサイドから持ちかけられた話だそうである。当時は契約金15万ドルとも言われていたが、これは誰かの作り話だとか。なお、黒幕のひとりである梶原一騎は「試合でブッチャーがコーナーに追い詰められ、そこへ初代タイガーマスクがブッチャーの胸板を駆け上がってサマーソルトキックを出す光景を見たい」と思っていたらしい。
これが新日本と全日本による外人選手引き抜き合戦の始まりであり、全日本は半ば報復としてスタン・ハンセンやタイガー・ジェット・シン、ダイナマイト・キッドらを引き抜き、新日本もブルーザー・プロディを引き抜くなどその様相はさながら仁義なき戦いのようであった(ダメージとしては新日本の方が大きかった)。
ブッチャーはハンセンとのタッグで谷津嘉章を血祭りにあげるなど最初のインパクトは強かったが、当時の新日本は長州対藤波の日本人対決や初代タイガーマスクの華麗な空中戦が主流であり、外人もアンドレ・ザ・ジャイアントやハルク・ホーガンらが人気を博しており、彼らとの外人対決も新日マットでは全日時代のような人気を博したとは言えなかった。
やがてブッチャーは新日本プロレスを離れ、1987年に全日本へとUターンする。
全日復帰から多団体参戦の日々へ
1987年に全日本マットに復帰したものの、ブッチャーは主にジャイアント・キマラ(二代目)とのタッグが中心となり、ヒールというよりもベビーフェース的な立場になっていた。ファイトスタイルそのものに変化はないが、試合後のファンからのコールを受けて空手の型を披露して喝采を浴びるようなこともあった。1990年にはデビュー30周年を迎えた宿敵の馬場タッグを組んで、ハンセン&アンドレ組と対戦した(ちなみに途中で仲間割れをしている)。
1996年には全日本を離れて石川敬士が主宰する東京プロレスに参戦し、UWFインターナショナルの高田延彦と異次元対決を行なう。さらに天龍源一郎が率いるWARや大日本プロレスにも参戦。大日本では学生プロレス時代にテリー・ファンクをオマージュしていたMEN'Sテイオーとデスマッチも行っている。
2001年にはジャイアント馬場三回忌追悼興行で全日マットに復帰。キマラと組んでテリーファンク&大仁田厚と対戦した。そのテリーとは全日本30周年記念大会でタッグを組むのだから、歴史の流れは分からない。
その後も、その愛されるキャラクターを買われて、W-1や新日本、ハッスルにIWAジャパンにドラゴンゲート、大阪プロレス、プロレスリングWAVEにIGF(シンと組んで猪木を襲撃)など様々な団体に出場した。動きは完全に衰えたものの、その知名度とキャラクターは興行に大きな花を添えたのであった。
そして引退へ
2008年には主戦場のひとつであったプエルトリコのWWCで、2009年には故郷にしてデビューの地でもあるカナダで地元限定の引退試合をしていたが、日本ではその後もいくつかの団体にスポット参戦をしていた。
だが、長年のダメージの蓄積で骨盤や尾てい骨を痛め、歩くのにも歩行補助機が必要となっていた。そして2012年1月の全日本プロレス「新春シャイニング・シリーズ」で現役引退を表明した。
2019年2月19日に両国国技館で開催された「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」の中で、ブッチャーの引退セレモニーが執り行われた。
奇しくも65年前の1954年2月19日は、日本で初めてプロレスの本格的な国際試合「力道山・木村政彦組 vs シャープ兄弟」が開催された日であり、これにちなんで2月19日は「プロレスの日」に制定されている。
得意技
あんこ型で関取のような丸々肥えた体型(分かりやすくというと魔人ブウ似)でありながら、日本プロレス~全日本プロレス初期の頃は素早い動きとジャンプ力を見せていた。またフォークを初め、パイプ椅子はもちろん梯子、ビン、釘などを使ったエゲツない凶器攻撃も持ち味であった。
ブッチャーの代名詞である地獄突き(空手で言うところの貫手)は5本の指それぞれにバンテージを巻いて突きの威力をアップさせ、さらにその白く固められた指の色が不気味さをみせていた。
フィニッシュホールドであるエルボードロップはたっぷりと助走をつけてからジャンプして放つものであり、これが決まったら返せないという説得力抜群の技だった(「毒針殺法」とも呼ばれている)。
頭突きは当初、黒人レスラーの使い手としてボボ・ブラジルの方が有名だったが、ブラジルが50歳を過ぎて衰えた頃からは、ブッチャーがトップクラスの使い手となった。
山嵐と呼ばれたバックフリップは1979年後半から使い出し、1980年10月13日のUNヘビー級王座戦ではジャンボ鶴田をこの技で仕留めている(ちなみに、現在この技の使い手として知られているのは中澤マイケル)。
- 地獄突き
- ヘッドバット(一本足頭突きも得意としていた)
- エルボードロップ
- 山嵐(バックフリップ。バックドロップに近い形で相手をクラッチしてから投げる。柔道技の山嵐とは別物)
- ソバット
- トーキック(凶器シューズによる)
- ベアハッグ
エピソード
- 代表的な入場曲はピンク・フロイドの「吹けよ風、呼べよ嵐」。その前はカール・ダグラス「必殺ドラゴン拳」が使われていた。
- ジャイアント馬場とはリングの上では宿敵中の宿敵だったが、リングを降りると葉巻愛好家としてそれぞれの葉巻を交換して吸うといった交流もあった。
- いわゆる純粋な黒人ではなく、父はネイティブ・アメリカンで母はアフリカ系アメリカ人というハーフだった。
- 日本プロレスに参戦していた頃から、白人レスラーからの差別は酷かったらしい。特にキラー・カールコックス(来日会見でもみ合いとなる)やディック・マードック(ブッチャーとのシングルを拒否)は黒人レスラーを毛嫌いしていた。
- ブッチャーと呼ばれるようになったのは、凶器攻撃で相手を切り刻んでいたときに現地のプロモーターが「おお、奴はブッチャー(肉屋で肉を切り分ける職種)だ」と言ったのがきっかけだと本人が語っている。
- 全盛期の人気はすさまじく、小学生のプロレスごっこではデブの子供がブッチャー役をやらさせることはざらだった。
- 来日当初から1974年までは白ステテコに裸足という出で立ちだったが、1979年9月からつま先のとがった凶器シューズを履くようになった。それまで凶器シューズはザ・シークの専売特許のようなものだったが、1974年にグレート・メフィスト(フランキー・ケイン)がパクったのをきっかけにブッチャーやアイアン・シークなども履くようになった。
- 空手の有段者であるが、初来日時は「ジュジュプソウという、アフリカの格闘技をマスターしている」という、ファンタジーあふれるコメントをしていた。
- 言われなくても分かっていると思うが「プロレス・スーパースター列伝」に描かれている各種エピソードは梶原一騎によるファンタジーである。
- 流血戦のためにカットされまくった額は皮膚が弱くなり、ちょっとした衝撃ですぐ流血するようになっていた。
- WCW時代のタッグパートナーであるミック・フォーリー曰く「打ち合わせの内容を覚えない人」であったそうである。
- ルーキー時代から岡田彰布を買っており、食事をともにするなど親交が深かった。
- 著書「プロレスを10倍楽しく見る方法」は当時のベストセラーとなったが、ゴジン・カーンというゴーストライターがいたのはまあ……有名な話ですよね?
- ブッチャー人気全盛期の頃はCMの依頼が殺到したそうであるが、馬場夫人の元子が「イメージに合わない」と断りまくったそうである。そうしたCMに馬場が出演したというのは……まあ、キラー馬場夫婦というかなんというか。
- 私生活ではケチで有名だが、それは幼少時の貧乏体験や、多くの人にお金で騙された経験からと言われている。
- 曰く「プロレスで大切なのは人との違いを見せることと、人を引っ張る力」。
- 世界最強タッグリーク最後のパートナーであった鈴木みのるは「プライドの高いレジェンドレスラーの中では話せば分かってくれる人、日本人で言えば天龍さんに近い」「彼と組んでから、パートナーの生かし方に自信がついた」と語っていた。
- 大日本プロレス時代にブッチャーの付き人をしていたのが、のちに信州信濃の流血マシーンとしてブレイクしたアブドーラ小林である。
- アトランタで「Abdullah the Butcher's House of Ribs and Chinese」というバーベキューレストランを経営している。いわゆる高級店ではなく、庶民がファストフードのように使う大衆店だそうである。
ブッチャー歴代のパートナー
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関連項目
外部リンク
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