11位に定評のある城西大学とは伝統ジンクスである。
概要
箱根駅伝で10位以内に与えられるシード権をぎりぎりで逃すことが多いことからこの不名誉な評定を受けた。
ちなみに
2004年 | 監督・平塚潤、コーチ・櫛部静二というエリートランナーを指導者に迎え、草創期を除くと史上最短となる創部3年目での初出場(予選8位)となったこの年は復路、9区、10区と3度の繰り上げスタートとなり、最下位で終わる。 |
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2005年 | 予選8位で2年連続2回目の出場。往路は9位と健闘するものの、復路18位が響き、総合15位で終わる。 |
2006年 | 予選6位で3年連続3回目の出場。最終10区で高岡寛典が大学初の箱根区間賞を獲得する猛追を見せ、日本体育大学・東洋大学との9位争いに加わるも、最後は競り落とされ、10位と10秒差の僅差で惜しくも11位。 この年から「11位に定評のある城西大学」の歴史が始まる。 |
2007年 | 予選7位で4年連続4回目の出場。往路12位とシード権を狙える位置に付け、初シードが期待されたが、10位の亜細亜大学に1分以上の差をつけられ、またもや11位。 |
2008年 | 予選3位で5年連続5回目の出場。ゴール残り1kmで東海大学の途中棄権により、繰り上げで11位になる。 これで3年連続11位。 |
2009年 | 予選1位で6年連続6回目の出場。1区は上位に食い込むが、2区以降が続かず往路は首位から14分差の最下位23位に沈み、繰り上げスタートとなった復路は8区で途中棄権する。 オープン参加となった9区・伊藤一行の記録は区間賞より38秒早く、「幻の区間賞」となったほか、復路では8区以外の全ての区間で10位以内(棄権後はそれに相当)のタイムを記録し、棄権した8区の選手も13kmまでは区間5位と好調だったが、仮に完走でも総合14位までだったとみられている。 |
2010年 | この年から櫛部が監督に就任。予選6位で7年連続7回目の出場。チーム最高となる6位でフィニッシュ。初のシード権を獲得する。 |
2011年 | 初のシード校として8年連続8回目の出場。往路7位、復路も9区終了まで8位と2年連続のシード権獲得に目前まで迫る。しかし10区で後続に追いつかれ、4校からなる8位争いに破れて11位に終わる。 10位國學院大學との差はわずか3秒。これは箱根駅伝におけるシード権争いの歴史で最も僅差である。ゴール直前で8位國學院がミスコースにより11位に下がりながら、直後に城西を抜いて10位に滑りこむ、スリリングな争いであり、後に國學院の選手の名を取って寺田交差点と言われるようになった。 |
と、初出場から8回の出場のうち4回で11位となっている。これは驚異の11位率である。とはいえ、近年の競争率が激化した予選会を勝ち上がり、初出場から本大会出場を継続したからこそ、この「不名誉な」称号を得たことは、裏返せば名誉でもある。
2012年以後
言うだけ野暮ではあるが、誰も11位になりたくてなっているわけではない。城西大学がシード権の常連、優勝争いの常連になれば、昔はそんなこともあったと笑い話として語り継がれるようになるだろう。
2012年 | 予選7位で9年連続9回目の出場。1区から5位につけ一度は10位まで後退するが巻き返して往路は5位でフィニッシュ。復路で一つ順位は落としたものの、過去最高順位タイとなる6位でゴールし、2年ぶり2度目のシード権を獲得する。 |
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2013年 | シード校として10年連続10回目の出場。1区6位と好スタートし、2区で13位にまで順位を落とすが、3~4区で11位に浮上してシード権をうかがう位置につけたものの、5区の選手が低温と強風に苦しみ4年ぶりの途中棄権となってしまう。復路は参考記録ながら9位相当のタイムで走破する。 |
2014年 | 予選10位と苦しみながらも通過し、11年連続11回目の出場。しかし1区の高速レースに対応できず18位に沈み、以後も負の連鎖で往路は20位に沈んでしまう。復路は6区で6位と健闘するも後続の走者が区間下位と続かず、復路・総合とも19位に終わる。 |
2015年 | 予選会で主将でエースの村山紘太選手が日本人個人歴代最高記録で個人1位をマークし、12年連続12回目の出場を決めるが、予選順位は9位と大苦戦。先に行われた全日本大学駅伝の結果からも選手層の薄さが懸念されて前評判は高くなかったが、2区の村山選手が区間2位の快走を見せて勢いに乗り、往路は8位と健闘。復路も粘り、アンカーの寺田選手が区間賞の力走を見せたこともあって、総合7位でフィニッシュ。2区以降は終始シード圏内と安定した戦いぶりを見せて、3年ぶり3度目のシード権を獲得した。 |
2016年 | シード校として13年連続13回目の出場。1区の蒲田の時点で14位とつまずくが、2区で10位へと盛り返し、3区で8位へと順位をあげる。4区では一時6位と健闘するものの、その後はズルズルと順位を落としていく。日体大、拓殖大、帝京大などと死闘を繰り広げるも往路は10位と秒差なしの11位に終わる。復路は大平台からほぼずっと13位に甘んじていたが、最後の最後で神奈川大と同着の12位で終わり、2年連続のシード権獲得とはならなかった。 |
2017年 | 箱根予選会はメンバーに主力を数人欠いたこともあり、戦前から不安視されていたが、通過ラインに2分53秒届かない12位に終わり、初出場から続けてきた連続出場は13でストップしてしまった。予選会でチーム2番での26位と好走した金子選手が学蓮連合としてメンバー入りする。 |
2018年 | 箱根予選会を8位で通過し2年ぶり14回目の出場を決めた。全日本大学駅伝は13位ながら、4区の菅が他校のエースを抑えて区間賞を取っている。箱根本戦も前評判は高くなかったが1区は18位ながらトップと1分差にとどめると、徐々に順位を上げ往路は6位でフィニッシュ。復路も堅実につないで総合7位に入り3年ぶり4度目のシードを獲得した。 |
2019年 | 三大駅伝全てに出場。出雲・全日本とも8位と健闘し全日本ではシード権も獲得。その勢いのまま2年連続15回目の箱根に挑むも、両駅伝で好走したエースの萩久保選手を欠いたことが影響したのか、2~3区が大ブレーキとなり往路は19位、復路も10区こそ区間4位と気を吐いたものの、6~8区が大ブレーキとなったこともあり、最後まで浮上のきっかけを掴むことはできず総合20位に終わる。 |
2020年 | 箱根予選会で15位と惨敗し、3年ぶりに出場を逃す。エースの萩久保選手が個人6位など学内5位以上は好走したが、学内6位以下が個人176位以下と選手層の薄さが響いた。学生連合に菅原選手が出場し、準エース区間の3区で区間11位相当と健闘した。シードで出場した全日本大学駅伝は萩久保選手が2年連続で区間賞、3区で菅原選手が区間2位で走破するなど4区まで3位と健闘したが、ここでも選手層の薄さが響いて最終順位は13位。 |
2021年 | 箱根予選会を3位で通過し、2年ぶり16回目の出場を果たす。往路は3区間で区間中位と健闘するも、3~4区の区間下位が響いて13位。復路は区間二桁が続き最終16位に終わる。全日本大学駅伝も2区では首位に立つ見せ場はつくったが、最終16位と不本意な結果に終わっている。前年同様に3区を走ったものの、昨シーズンの駅伝では健闘したエース格の菅原選手が箱根・全日本でいずれも不調であったことも響いた格好となった。 |
2022年 | 箱根予選会で15位と大敗し2年ぶりに予選落ち。関東学生連合チームでも山中選手がメンバー入りしたものの、2017年同様に本選のメンバー入りは逃している。また全日本大学駅伝の予選会でも13位と通過ラインには遠く届かず、2016-17年以来となる大学駅伝出場メンバー無しとなった。 |
2023年 | 全日本予選会は通過ラインに40秒届かず次点で予選落ちしたものの、箱根予選会では下馬評を覆して3位と上位に入り2年ぶりに予選通過。17回目の出場となった箱根本番では1区の超スローペースにも助けられ、2区までの出血が最小限に。3区で期待されたキムタイが区間中位と伸びなかったものの、5区山本が区間記録を更新する区間賞の走りで4人抜きを見せて9位浮上。復路は6~9区をひたすら耐えて10位以内を維持し、10区に学生連合のメンバー入りをしていた山中を置く配置が生きて、9区終了時にようやくシード圏内に浮上してきた東洋と熾烈な9位争いを展開。結果的にシード圏外からの逆転を狙った明治や東国に一度も追いつかせずに9位入賞を果たし、5年ぶりに5度目のシードを獲得した。 |
2024年 | 三大駅伝全てに出場。出雲駅伝3位、全日本大学駅伝5位といずれも1区から大きく出遅れながらも追い上げて過去最高順位をマーク。箱根駅伝でも上位候補に上げられており、それにたがわぬ実力を発揮。主力を並べた往路では1区で3位につけると、そのまま上位に踏みとどまり往路3位と大躍進。流石に復路は選手層の薄さが響き復路12位と苦しんだものの、昨年も最後まで順位を争った東洋大学につけた4分弱の貯金が生き、3分半ほど追い上げられたものの、そのまま逃げ切って過去最高となる総合3位でフィニッシュし、6度目のシード権も初めて2年連続で獲得した。なお5区で2年連続区間新をマークした山本選手が個人MVPである金栗杯を城西大学史上はじめて獲得した。ちなみに復路のタイムがあと2秒早ければ復路11位だったのは記事的な記録としては惜しいかもしれない。 |
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