いま、世界でいちばん速いのは、息子のスポーツカーらしい。
ボクの、5回目の誕生日の朝だった。目の前には、駅前のおもちゃ屋さんのガラス越しにいつも眺めていた、あのクルマがあった。
ピッカピカの赤いスポーツカー。
それまで宝物だったロボットは、惜しげもなく弟にあげた。
その日から、裏の小径はサーキットになり、公園の砂場は広大な砂漠になった。
そして、ボクは毎日、愛車に乗り込んだ。キーを回す仕草。口まねのエンジン音。
一通りの儀式が終わると、小さな足が痛くなるまでペダルを踏んだ。
あの頃のボクは、誰よりも速く走れたし、どこへでも行けた。「ブーンブンブン」と叫ぶと、そのクルマは時速500キロで駆けだし、「ビューン」と叫べば、空までも飛んでいった。
たぶん、男の子の体内には、スポーツカーやスピードにあこがれるDNAが、生まれつき組み込まれているのだと思う。いま、5歳になったばかりの息子が、家の前を時速500キロで走っている。ブーンブンブン。
彼といっしょに、ボクも叫んだ。
誰かの恋が終わると、女3人のドライブにでかけた。
用意するものは、仲のいい女友達2人と、ノリのいいBGM。
そして、できれば、思いきり抜けるような青空の日を選ぶ。
こういう時に、優しいだけの言葉がなんの役にも立たないことは、みんな自分の経験から知っていた。
だから、たいていは、修学旅行に向かうバスの中のような大騒ぎになる。
よくしゃべる2人。よく笑う2人。私も、一生懸命、笑った。
運転をするのはその日の主役、と決まっていた。
ハンドルを握っているあいだは余計なことを考えなくていい、というのが理由だった。
トンネルを抜けた。風景が変わった。
耳たぶまで冷えきった彼女のセーターから、雪のにおいがした。
白い道。白い枝。白い屋根。見慣れた風景を走っていても、どこか知らない街に来ているような気分になる。
普段はアスファルトの上を走ることの多い4WDが、今日は、ことのほか頼もしい。
こんな日に休日出勤なんて、ついてない。
そうこぼす妻を玄関で見送った頃は、まだ、冷たい雨だった。
天気予報は、夜半過ぎからの雪を告げていた。少し予定が早まったらしい。
踵の高い靴で歩いて帰ってくるのはちょっと大変かな。電話が鳴ったのは、ちょうどそんなことを考えている時だった。
いま駅に着いた。バスは、ずいぶん遅れている。タクシーも見あたらない。悪いけど・・・
道は、慎重に走るクルマたちで、渋滞が始まっていた。遠くに見慣れたコートを見つけた時には、もう、約束の時間をずいぶん回っていた。
うわー、寒いねー。ドアが開き、妻の声が滑り込んできた。
道が混んでいて、という言葉を遮るように、助手席が微笑んだ。「雪の日の休日出勤も、悪くないかな」
初めてのデートには、駐車場の広いレストランを選んだ。
ゆうべ眠れないベッドの中で立てた計画によれば、今ごろ彼女は羨望の眼差しで僕を見つめているはずだった。
その彼女が、いま駐車場で叫んでいる。目立ちすぎるくらいの身振りと大声で。
「オーライ、あー、もっと右、右だってばー」
誤算は、彼女の家を出て最初の右折だった。
もたつく若葉マーク。
立ち往生するクルマたち。
クラクションの大合唱。
交差点にいるすべての目が、非難を込めた視線を僕に投げかけている気がした。
そして、助手席の無言の視線も、きっと…
運転が下手なオトコと思われたら最悪だよな。
教習所に通っていた仲間たちと、よくそんな話をしていた。だからこそ、選んだ店だった。料理やムードより、駐車場を優先させて。
何十回目かの「オーライ」を言い終えると、彼女は指でOKのサインをつくった。
Tシャツの背中を、冷たい汗が流れていく。こっそり借りた親父のクルマは、それでも何とか無傷だった。
行儀悪く、白線から少しお尻をはみ出させてはいたが。
「私さ、放っておけないタイプに弱いんだよね」
彼女らしい励ましに、その日初めて、僕は笑った。
母が若かった頃のこと。私が生まれた日のこと。
助手席の父は、いつもよりおしゃべりだった。
「荷物、まだ残ってるだろう。いっしょに運んでやるよ」 いま思えば、お父さんは、初めからそのつもりだったんですね。
新居へ向かうクルマの中の、2人だけの時間。
言わなければいけない言葉をうまく言えない私の代わりに、 最初に口を開いたのは、お父さんでしたね。
私が生まれた日のこと、泣き虫だった幼稚園時代のこと、 夜中に病院を探し回ったこと、鉄棒ができなくて休みの日に教えてくれたこと、人生で一度だけ、お父さんに手を上げられたときのこと… まっすぐ前を見つめたまま、26年間のぜんぶの日を思い出すように、 ひとつひとつ話してくれた。
なんだか、いつもの2人が入れ替わったようでしたね。
口数の少ないお父さんがよくしゃべって、おしゃべりな私が無口になって。
運転をしているとき、ふと、お父さんの手が目に入りました。
このゴツゴツした大きな手に、私は、育てられたんですね。
明日から、私はこの家で暮らしはじめます。
それでも、私は、ずっとあなたの娘です。
「ありがとう」クルマの中で、うまく言えなかった言葉を、贈ります。−お父さんへ
雨の日は、クルマでお迎えの日
腕時計で時間を確認しながら、私は、娘の待つ場所へと向かった。共働きの我が家では、保育園に通う彼女を、夫か私のどちらかが迎えに行くことになっている。今日は、私の日。
仕事用の気持ちを母親のそれに着替えながら、私は、娘の朝の言葉を思い出していた。
「…でも私、雨、嫌いじゃないよ」それは、外で遊べなくて残念ね、という私の何気ないひと言に対する、彼女の予想外の返事だった。
私の両親も、共に仕事を持っていた。幼い私の記憶の中には、いつも忙しそうな父と母がいた。
ただ雨の日だけは、別だった。日頃、淋しい思いをさせているわが子への、精一杯の愛情だったのだろう。
一日の例外もなく、必ずクルマで迎えにきてくれた。その気持ちは、子を持つ親になった今、よく分かる。
私はそのクルマの中で、カタツムリの歌を大声で歌い、先生に読んでもらった絵本の話を、得意げにしていた。そう、あの頃の私も、雨の日が好きだった。
水たまりをわざとバシャバシャさせるようにして、黄色いレインコートが近づいてきた。いちばんやさしい笑顔で言おう、おかえり、と。
いま走らなければ、ずっと走れないような気がした
スポーツカーにしようと思うんだ。そう切り出した私に、妻はあっさりと言った。
「あら、いいじゃない」
4人家族の我が家では、常識はずれの提案である。絶対に猛反対にあう。覚悟をしていただけに、妻の答えに、いささか拍子抜けをした。
その夜の食卓では、想像の道を2人で走った。北海道をあてもなく走りつづけるのはどう?
あ、それ、いいわね。おじさんとおばさんになってからスポーツカーに乗るのもかっこいい、なんて昔話してたよな。
覚えてる、覚えてる。私は、久しぶりに気持ちよく話しつづけた。その傍らで、時に微笑みながら、時に大げさに頷きながら、妻は楽しそうにしていた。
(あいつ、どうして許してくれたんだろう?)あたりまえの疑問が頭をもたげたのは、少し冷静になった翌日のことだった。そして、ドキリとした。もしかしたら、彼女の目には、最近どこか疲れている夫が映っていたのではないか。「ずっと忙しそうだったから…」ふとこぼれた言葉は、つまらない大人になっていない?という激励だったのではないか。
もう一度走りだそう、と思った。私の人生を、いちばん近くで見守ってくれている人を、助手席に誘って。
同窓会の帰り道、カーラジオがあの頃の歌をうたっていた
大学で東京に出て、地元からは足が遠のいていた。三年に一度の同窓会に顔を出すのも、実は十数年ぶりのことだ。懐かしい顔が揃った教室。
「久しぶりだな」。「元気そうだな」。同じ言葉を何回言っただろう。思い出話に、何回笑っただろう。
みんな、あの頃のままだった。そして、いちばん変わっていなかったのが、彼女だった。
だから、余計に照れくさかったのかもしれない。結局、一次会がお開きになるまで、僕は、いちばん話したかったはずの人に、声をかけられずにいた。
教室を出て校庭へ向かう途中、靴に履きかえてふと顔を上げると、そこに彼女がいた。
「たまにはいいでしょ、地元も」
夏の陽射しは強かったが、東京と違って、風は涼しかった。その風が、彼女の髪を揺らし、十数年前と同じ横顔がのぞいた。
発案者を助手席に乗せて、クルマはゆっくり走り出した。
正門前のパン屋、三つ目の角の郵便局、そして、あの日の神社…ビデオテープを巻き戻すように、車窓の風景が流れた。
ラジオから、偶然、二人で聴いていた曲が流れてきた。僕の隣で、十五歳の少女が、口ずさんだ。
デートの終わりは、いつもそうだった
クルマを止めて30分。「バイバイ」というまでにもう30分。
「一日が25時間だったら、もう1時間いっしょにいられるのにな」。
わざと気取った口調で、助手席の彼が言った。
キャラクターとはほど遠いクサい台詞に、二人顔を見合わせてケラケラと笑った。
「なにカッコつけてんのよ」
その日は、朝からずっと一緒だった。
買ったばかりの私のクルマで、ちょっと遠出をする約束だった。
朝が苦手で不機嫌な彼を隣に乗せて、まだ人の少ない春の海まで走った。
砂浜を、二人で、並んで歩いた。
一日クタクタになるまで遊んだ。
山のように喋った。
声が空っぽになるまで笑った。
何回もキスをした。
だから彼の家の近くに戻ってきた時は、もうずいぶん遅い時間だった。それでも足りなかった。
ぜんぜん、足リないなぁ。私は、胸の中でつぶやいた。
ぜんぜん、足リないなぁ。二度目は、声に出して言ってみた。
「やっぱり、一日は25時間あるってことにしよっ、デートの日は」
助手席の彼が言った。こんどは、ふざけてない口調で。
その日から、デートの最後は、いつも、この場所に停める。
仲のいい日も、ケンカした日も、そしてもちろん、今夜も。
笑ったり、恋をしたり、ジーンとしたり。
私たちのクルマが、そういう時間をつくることができたら、うれしい。
クルマは、あなたを、ときめかせていますか。— Heart-Beat Motors
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