- Jazz - Jazzの歴史
ここではジャズの歴史について記述する。より詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。
1800年代
当時、黒人奴隷売買の中心地だったニューオリンズは、かつてスペイン領、フランス領だったこともあって、アメリカ領となったあとも様々な人種で溢れかえっていたため、ジャズができるための土壌が出来上がりつつあった。
1861~1865年 南北戦争
南軍が敗北、奴隷制度が廃止となり、黒人達が自由となる(しかし、奴隷解放は他国の介入を避けるために北軍が用いた大義名分だったため、地域差はあるものの実質的には奴隷制はなくならなかった)。また、ニューオリンズでは南軍の軍隊が使っていた楽器が払い下がり、安価で手に入るようになる。これがきっかけで黒人達がブラスバンドを結成し、次第にワークソング、黒人霊歌、コール&レスポンスといった黒人音楽のスタイルを楽器で演奏するようになる。そしてそこに、黒人の中でも比較的裕福なクレオールと呼ばれる身分の人たちが、ヨーロッパのクラシック音楽を伝えることにより、アフリカ音楽とヨーロッパ音楽が融合をはじめたと言われている。
そして、黒人霊歌や行進曲、ヨーロッパ民謡などが混ざり合いラグタイムと呼ばれるシンコペーションを特徴とする音楽が誕生。
また、この頃、ミシシッピ川デルタ地帯から黒人労働者がニューオリンズへ職を求めて移住してくるようになる。これにより、ニューオリンズにブルースが伝わる。
1900年前後
上記してきた音楽が混ざり合いジャズ(ニューオリンズ・ジャズ)が自然発生する。
このようにして生まれたジャズという音楽は、のちに”ジャズ・ジャイアンツ”とよばれる抜きん出た才能を持った人たちの出現によって各地に果ては世界中に広まり、そして次第に変化し進歩していくこととなる。
1920年代
ルイ・アームストロング
ニューオリンズで生まれ、キング・オリヴァーに師事。オリヴァーに呼ばれシカゴへ、その後ニューヨークへ進出。ニューヨークのビッグ・バンド・サウンドにニューオリンズのジャズを持ち込む。
デューク・エリントン
同じくニューヨークへ進出。黒人居住地区ハーレムのコットン・クラブに出演。
1930年代
ベニー・グッドマン
自身のビッグ・バンドが大ヒット、スイング・ジャズを大流行させる。ジャズを大衆音楽として認めさせ、1938年にはカーネギー・ホールに進出し、大成功を収めている。
カウント・ベイシー
禁酒法時代、合法的に酒が飲める歓楽街として栄えていたカンサスシティ。ベイシーはそこで当時三大楽団の一つに数えられていたベニー・モウンテン楽団を継承し、成功を収める。そして、さらなる成功を求めてニューヨークへと進出する。
1940年代
1940年代半ば、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーらによる「ビ・バップ革命」。ビ・バップと呼ばれるスタイルが確立。
これにより、ジャズは劇的にスタイルが変化したため、それまでのジャズと区別すべく、これ以降のジャズを総称して「モダン・ジャズ」と呼んでいる。
1940年代後半になると、このビ・バップに対し、マイルス・デイビス、ギル・エヴァンス、レニー・トリスターノらが、ビ・バップの即興性を基調としながらもアンサンブルを重視する、クールジャズというスタイルを確立する。
1950年代
1950年代初頭、クールジャズの延長として、アメリカ西海岸でウェスト・コースト・ジャズが起こる。
1950年代半ば、ビ・バップは、モダン・ジャズでは最も一般的なスタイルとされるハード・バップへ発展する。
1950年代後半、ハード・バップが行き詰まる。これを打開すべく、1960年代初頭にかけてマイルス・デイビスらの提唱するモード・ジャズ、より黒人的なファンキー・ジャズ、そしてより自由な演奏を追求したフリー・ジャズが台頭してくる。
1960年代
ロック・ミュージックの台頭により、ジャズは圧迫され影響を受ける。とくにマイルス・デイビスがロックに傾倒。
ロックの影響を受けたジャズロック、モード・ジャズとフリー・ジャズの中間くらいの新流派とよばれるスタイルが起こる。
ブラジルで生まれた新しい音楽ボサ・ノヴァもジャズに影響を及ぼす。
1970年代
様々な音楽ジャンルをまたがった音楽性のため当初クロス・オーバーと呼ばれていたフュージョン。ミュージシャンが自主的に活動するロフト・ジャズ。50年代活躍したハードバッパー達が中心となったハードバップ・リヴァイバルといったジャンルが起こる。
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