Beatles(ビートルズ)は、史上最も成功したバンド(by ギネスブック)。正式名称は「The Beatles」。
イギリスアルバムチャート51週連続1位を始めとした多数の記録を持つ20世紀を代表するアーティストである。とても全ては書ききれないので、詳しくはWikipedia等を参照されたし。
メンバー
- ジョン・レノン(John Lennon) - リズムギター
- ポール・マッカートニー(Paul McCartney) - ベース
- ジョージ・ハリスン(George Harrison) - リードギター
- リンゴ・スター(Ringo Starr) - ドラムス
略歴
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「抱きしめたい(I Want to Hold Your Hand)」(①)が世界歴代シングル売上枚数で第5位を記録するなど、音楽については今さら言うまでも無いが、映像作品においても多数の功績を残している。 1964年、『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!(A Hard Day's Night)』(②)[1]に主演し映画に進出。次作『ヘルプ!4人はアイドル(Help!)』(③)はカラーで撮影された。実際にメンバーが冗談混じりに語っている他、これらの監督を務めたリチャード・レスター(後に『ナック(The Knack ...and How to Get It)』でカンヌ国際映画祭最高賞(パルム・ドール)受賞)はMTVから「貴方がMTVの父だ」と賞状を贈られた。 1965年、ニューヨークのシェイ球場(MLBのメッツ、NFLのジェッツのホームグラウンド)で5万5千人を超える熱狂的な観客の前で史上初のスタジアムライヴを開催した(④)。球場開催は最大多数の観客を迎えるためであり、以降は彼らのライヴ形式として定着するが、一躍世界的トップスターとなった彼らのこうした状況こそが後のライヴへの意欲低下の大きな原因となった。 同年末、自分たちで撮影した映像をTV局に渡すという方法を考え出す(⑤)。実はメンバーたちは新曲をリリースする度に大規模なツアーを行ったりTV出演を繰り返す必要がある事に肉体的にも精神的にも疲弊していたし、折角のライヴでも納得のいく音響が伝えられず(当時はステージ上を映すモニターは無く、十分な音量と音質を伝えられる高出力アンプ等の音響機材を備えた施設も殆んど無い上、開放式球場では音声が十分に反響せず拡散してしまう)、そもそも「大勢の警備員で厳重に警戒しないと自分らと観客の双方の安全を図れないライヴ」に果たして意味はあるのだろうか、といった疑問は彼らの中に徐々に募っていった。 1966年、彼らが世界的ブームの火付け役となったロック・ミュージックは、特に年配者や体制側の無理解により一大社会問題となっていた。そんな大騒ぎの渦中で最初で最後の来日公演(6/30~7/2、於日本武道館)を行う。彼らは既にライヴへのモチベーションを欠いていたため数あるライヴの中でも最低クラスのクオリティであったが、皮肉にもこの時撮影されたカラー映像は当時のビートルズを撮影した映像の中でも特に鮮明なものとして、後にファンの間で有名となる(⑥)[2]。 結局1966年8月を最後にコンサート活動を終了し、1967年以降はスタジオでのアルバム製作に重点を置くことになった。この時期に生まれたPV作品では「レイン(Rain)」では屋外での撮影を行い(⑦)、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー(Strawberry Fields Forever)」(⑧)では演奏シーンを廃してサイケデリックな世界を表現して映像としても高い評価を受け、後のPVへの影響を及ぼした。 史上初の衛星中継番組「OUR WORLD」にイギリス代表として出演し、書き下ろしの新曲「愛こそはすべて(All You Need Is Love)」を世界中に披露する(⑨)など活動は順調だったが、1967年8月、マネージャーのブライアン・エプスタインの死を機に歯車が狂い出す。同年末に発表した自主制作映画『マジカル・ミステリー・ツアー(Magical Mystery Tour)』(⑩)は映画としては酷評されたが、現在ではPVとしてシュールな映像が音楽に重なる場面が特に評価されている。 1968年以降、険悪になっていく一方のメンバーの結束を取り戻そうと、ポール・マッカートニーはライブ活動への回帰を提案。同時に、リハーサルを撮影し復活を追ったドキュメンタリー映画を製作する事となり、1969年1月に「Get Back(原点回帰)」と名付けられたセッションが始動する。しかしこのプロジェクトは完全に逆効果となり、人間関係が余計に悪化する原因となってしまった。ライヴシーンは「Rooftop Concert(屋上コンサート)」と銘打たれ(⑪)、真冬深夜のロンドンのスタジオ屋上(気温2℃)でのゲリラライヴという形で行われたが、これが人前での最後のライヴとなった。 撮影されたフィルムは――ポールの当初の願いとは真逆の形で――『レット・イット・ビー(Let It Be)』(⑫)、つまり「在るがままに」と名前を変え、解散へと向かうビートルズの姿を追った映画として1970年に公開され(監督は「レイン」のPV等を手掛けたマイケル・リンゼイ=ホッグ)、同名のシングルとアルバムが最後の作品となった。翌年3月、ポールが解散を求めた裁判がロンドン高裁で結審し、ビートルズは正式に解散した。 そして1980年、ジョン・レノンがダコタ・ハウスで射殺された事で再結成は実現しないと思われていたが… |
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| ⑩ | ||
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| ⑫ | ||
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外部リンク
関連項目
脚注
- *この邦題の命名者はユナイト映画宣伝マン時代の水野晴郎。
- *ちなみに、この公演の前座演奏でザ・ドリフターズが前座用ではなくビートルズ用のステージに上がり込み約40秒間演奏した(そして退場の際にすれ違ったポールのベースにいかりや長介のベースが接触し「いかりや『が』怒られた」)が、当時素人だった志村けんは彼らが出ていない7/2の公演を観たためにこの劇的シーンを目撃していない。前座を務めたのは他にも内田裕也、桜井五郎、尾藤イサオ、望月浩、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、寺内タケシとブルージーンズ、という層々たる顔ぶれだった。
http://dic.nicomoba.jp/k/a/beatles


ページ番号: 201928
リビジョン番号: 1413509
読み:ビートルズ
初版作成日: 08/06/05 01:57 ◆ 最終更新日: 12/01/18 09:27
編集内容についての説明/コメント: 関連動画一部入れ替え&追加しました
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