オデッセイ(Odyssey)とは、世界初の家庭用据置型テレビゲーム機である。
概要
ドイツ生まれのアメリカ人発明家、ラルフ・ベアが開発し、当時アメリカにおける大手家電メーカーだったマグナボックス社から1972年に発売された。
現代から見れば考えられない程の低性能であったが、様々な工夫で性能不足を補っていた。
価格は100ドルで、電源は単2電池6本か別売りのACアダプタを使用する。
開発前史
1966年8月のとあるバス停で、ベアはふとこんなことをメモに書き留めた。
というテレビ局涙目なアイデアを思いついたベアは、早速「テレビに繋いでゲームが遊べる装置」の開発に取り掛かった。
それからベアとそのアシスタントによって数々の試作機が作られ、2年後の1968年、後のオデッセイのプロトタイプである「ブラウンボックス」が完成した。ブラウンボックスはベアの作った7番目の試作機にあたり、当初は「TV Game Unit #7(第7テレビゲーム装置)」と呼ばれていた。
ブラウンボックスはその名の通り茶色の木箱で、側面にゲームの数だけスイッチが配置されており、スイッチによってゲームが切り替わるシステムを有していた。ベアは早速この画期的な装置を持って電機メーカーに売り込みをかけた。
しかしメーカーの反応は冷たかった。それもそのはず、その当時「コンピュータゲーム」として知られていたものは「OXO」、「Tennis for Two」、「スペースウォー!」くらいしかなく、そのどれも大学や研究所など限られた場所に置かれており、世間一般における「コンピュータゲーム」の知名度はまったくと言っていいほど無い時代だったのだ。
困ったベアはモデルガンを改造したライトガン(光線銃)を使うゲームなどを追加。
それを持って再び売り込みをかけると、当時の大手電機メーカーであるマグナボックス社の副社長がこれに目をつけた。
副社長は会社に働きかけ、ブラウンボックスの商品化を決定。時は1971年、最初のアイデアから5年を経て、世界初のゲーム機「オデッセイ」が誕生した瞬間である。
余談だが、「オデッセイ」の名前の由来は映画「2001年宇宙の旅(原題・・・2001: A Space Odyssey)」から。
詳細
現代の我々から見ると、グラフィックからコントローラまで非常に独特なゲーム機となっている。
まず目を引くのがまるで四角いUFOのような外観だが、これは前述の映画に影響されたものであろう。
コントローラは真四角の箱のような形状になっている。リセットボタンはある(本体にではなくコントローラに付いていた)が、十字キーやジョイスティックの類はなく、代わりにツマミが3つあり、これを使ってゲームを操作する。
コントローラの線は非常に太くて短いが、代わりにテレビの接続線が非常に長くなっており、基本的には本体を手元に近づけて遊ぶことになる。
遊ぶには同梱されている専用のカードが要る。一見するとROMカセットの類に見えるが、実はただの回路切り替えカードであり、ゲームのプログラムは全て本体に入っている。当時はハードウェア内蔵の方が技術的に簡単だったのである。
カードは6枚同梱されており、A/B面合わせて12種類のゲームを遊ぶことが出来る。後に他ゲーム用の切り替えカードが別売で発売された。
そしてなんといっても特徴的なのが原始的すぎるグラフィック。何と2、3個のドットしか表示されない。
2、3個のドットしか表示されない。大事なことなので二回言いました。現代ではまず考えられないグラフィックである。
もちろんこれだけのグラフィックでは「幾つものゲームが遊べる」ゲーム機としての体をなさない。そこでテレビ画面に「オーバーレイ」という、ゲーム内容に合わせた絵が描かれた静電気でくっつくフィルムシートを貼る。これをグラフィックの代わりとして用いるのである。
オーバーレイは各ゲームごとに用意されており、ご丁寧にテレビのサイズに合わせて大小二つのシートが同梱されていた。
基本的にはテニスのようにボールとラケットで遊ぶゲームであり、ゲームによって微妙に操作の仕様が異なる。
さらにカードやチップも同梱されている。オデッセイはスコア計算や時間の記録をすることが出来ないため、これらを用いてプレイヤー自身の手でスコア計算や時間の記録を行う。
現代におけるコンピュータゲームというより、「テレビを使って遊ぶボードゲーム」の方が正しいかもしれない。
他に特筆すべき事項として前述した光線銃が同梱されている。この銃の開発にはまだテレビゲーム業界に参入する前の任天堂が関わっている。
発売とその売れ行き
オデッセイ発売にあたって、マグナボックスは発売の1年前から業界関係者に向けてアメリカ各地でプライベートショーを行い、往年の人気歌手であったフランク・シナトラまで起用して宣伝活動を行った。
その甲斐あってか発売後3年間で20万台を販売、とそれなりに成功したものの、家庭用ゲーム機を定着させるまでには至らなかった。
その理由としては、
(発売当時の)コンピュータゲームについての知名度の低さ
(当時からすれば)特殊な玩具であったので「マグナボックス社製のテレビじゃないと遊べない」という勘違いの流布
などが挙げられるが、やはり一番の理由は肝心のゲームがつまらなかったということであろう。
実際オデッセイをプレイしたAVGNは下記の動画で「原始的どころじゃない。TVゲームの資格すらない」とまで述べている。しかしベアにゲーム製作の才能がなかったわけではないことはその後の歴史が証明しているように、当時の技術力では表現がままならなかったというのが実情ではないだろうか。
ATARIとのいざこざ
オデッセイの発売が決定したのと同じ1971年、一人の男が失敗を経験していた。
彼の名はノーラン・ブッシュネル。彼はSyzygyという会社を作って「スペースウォー!」をモデルにした世界初のアーケードゲーム「コンピュータースペース」を開発したが、全く人気が振るわずゲームは失敗作の烙印を押されてしまった。
翌1972年、ブッシュネルは「コンピュータースペース」販売元であるナッチング社の社長に呼ばれた。
という指令を受けたブッシュネルはオデッセイのプライベートショーに参加し、ナッチング社社長にこう報告した。
しかし他人の発明に心動かされるものがあったのだろう。オデッセイを契機にブッシュネルは新会社「ATARI」を設立。社員のアラン・アルコーンに「オデッセイのテニスゲームみたいなゲームを作れ」と指令を下す。
しかしブッシュネルの説明がまずかったのか、アルコーンの力量か、それとも単なる偶然か、アルコーンが作ったゲームはオデッセイのテニスゲームとは似て非なる、それでいて面白いゲームになっていた。
コンピュータゲームの歴史に燦然と輝く最初のヒット作「PONG」の誕生である。
マグナボックス社が「PONG」のことを知ったのはオデッセイについての特許を申請した2週間後だった。
その時はベア自身が軽くリサーチをするに留まったものの、後に他社によるコピーゲーム製造問題が持ち上がり、1976年についにマグナボックス社がATARI含むコピーゲームメーカーを提訴した。
裁判は法定外和解という形で解決し、ATARIはマグナボックス社に特許料700,000ドルを支払うことになったが、ベアはこの特許料を「安い」と語っている。しかし、なんだかんだでこの70万ドルが「オデッセイがマグナボックスに与えた最大の収益」であるとも言われている。
実は、オデッセイの売れ行きの裏には「PONG」も少なからず関係している。「PONG」が話題になった頃、オデッセイが「PONGの元になったゲーム」として取り上げられ、売り上げが増加。しかしそれでも爆発的なヒットには至らず、結局1974年を以って生産を終了している。
オデッセイ、マグナボックス、ラルフ・ベアのその後
マグナボックスはオデッセイの生産終了と時を同じくしてその民生機器部門をフィリップス社に売却、現在に至るもフィリップス社のブランド名の一つとして存続している。また、マグナボックスは他にも軍需企業としての一面を持っていたが、そちらは1995年にHughes Electronics社に買収され、現在はそのHughes社軍需部門と共にレイセオンに買収された。
1978年、フィリップス/マグナボックス社から次世代機「オデッセイ2」が発売される。キーボードを内蔵したホビーパソコンとして日本でも輸入販売され、その高価格から商業的には失敗したもののファミコン前の高級輸入ゲーム機の一翼を担った。
オデッセイは商業的成功を収めるまでには至らなかったものの、ラルフ・ベアはこの経験をバネに一層ゲーム作りに励んだ。
そして1978年にサイモンという記憶ゲームを開発し、爆発的なヒットを収めた。その後も積極的にゲームや玩具産業に携わり、2014年に死去するまで様々な賞を受賞。ゲーム開発の第一人者として歴史に名を刻むこととなった。
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