カルトQとは、フジテレビで1991年10月22日から1993年3月28日まで放送された真夜中の狂信的クイズである。関東地方を中心としたローカルの深夜番組としてスタートしたが、好評を受け1992年10月18日から1993年3月28日まではフジテレビ系全国ネットで日曜夜に放送された。
キャッチフレーズは「深夜(全国ネット化後は「日曜夜」)のブレイン・パーティー」。特定のジャンルに関するマニアックなクイズを「カルトクイズ」と呼ぶようになったのは深夜番組時代の本番組のヒットが発端である。
放送時間
- ローカル時代(特番を除く)
1991年10月22日~1992年3月28日 毎週火曜25:10~25:40
1992年4月13日~1992年9月28日 毎週月曜24:40~25:10
関東地区基準。フジテレビ系の一部の系列局や、独立局のKBS京都でも放送されていた。 - 全国ネット時代
1992年10月18日~1993年3月28日 毎週日曜22:30~23:00
1970年代前半から日曜22時台は30分番組2本で前半をフジテレビ、後半を関西テレビが制作する形が続いていたが、本番組のスタートの際放送枠を交換した(関西テレビ側は従前の「新伍&紳助のあぶない話」を継続し22時開始に移動)。
当時フジテレビの深夜番組は多数注目番組を輩出する黄金時代であり、本番組も「カノッサの屈辱」などとともに代表作の1つとして挙げられることが多かったが、中でも全国ネットに昇格するケースは当時のフジテレビでは「世にも奇妙な物語」など数例しかなかったことからも注目されたが、深夜時代のディープさが全国ネットかつ日曜夜の遅すぎない時間帯では出し切れなかった感もあり半年で終了。1979年10月スタートの「アイ・アイゲーム」以来13年半続いたフジテレビ系日曜22時台のクイズ番組は本番組が最後となった。
概要
1980年代後半よりテレビ放送開始から続いた賞金・賞品獲得を目指す視聴者参加型クイズ番組が下火になっていた中、1990年代前半から幅広いジャンルの超難問に素早い早押しで回答していく解答者をフィーチャーした特番における「クイズ王」ブームが起きていた。フジテレビも「FNS1億2000(2500)万人のクイズ王決定戦!」(1990年~1994年)を制作し人気を博していた。
そんな中、本番組は逆に極めて狭い範囲のジャンルに詳しい人を一般募集し、そのジャンルに関する微細な事項からクイズを出題し、成績を競うというこれまでのクイズ番組にない形式を取った。タイトルの「カルト」にはネガティブな用例もあるが、本番組では「熱狂者のグループ」や「崇拝」などの意味を取ったもの。
1991年10月22日の「ブラックミュージック」で第1回がスタート。以来、「F-1」「競馬」「化粧品」「ビートルズ」「マッキントッシュ」「カレー」など様々な細かいテーマを設定して出場者を募り、60あまりのテーマ(ローカル時代に「II」として2回行われたり、ローカル時代に行ったテーマを全国ネットで改めて取り上げたテーマもある)が放送された。一方で募集告知したものの没になったテーマも多い。
司会はロックバンド「子供ばんど」の活動を休止後、タレントや俳優活動をしていたうじきつよしと、開始時は入社1年目だった中村江里子アナウンサー。特番以外顔出しはなかったが出題ナレーターは牧原俊幸アナウンサーでいずれも初回から最終回まで務めた。
これまでのクイズ番組は問題や正解の背景や補足を司会者が行うのが通例であったが、本番組は極端に幅が狭く深い上に一般的でないことばかりのため、うじき・中村とも事前に打ち合わせで内容を聞いていても解答者の方がその数段上の知識を蓄えていることがほとんどであったことから、一般人には問題文すら?な難問をいとも簡単に正解する解答者にただ驚き、解答後のフォローで正解者に問いかけるとスタッフから聞かされていない補足情報が解答者から出てきて、逆に処理できないなど、ある意味一般人の目線で進行していた。ちなみにうじきは正解が出た時には「当たり(です)」と言うことが多かった。
うじきは本番組で司会者、タレントとしても広く認知されるようになった。また中村は当時の人気バラエティー「とんねるずのみなさんのおかげです」に出演することが多く、当初はまだローカル番組だったにも関わらず『「カルトQ」の中村江里子だ』と石橋貴明からよくいじられた事で、ある意味番組の認知度アップにも一役買っていた。一方、牧原も本番組以降、クイズの出題ナレーションを多く行うようになった。
解答者は一般的なハガキ応募で集められており、専門知識を持った人を特別に呼んでいたわけではない(時折本職や有名人が出場したケースがあるが、それも一般応募と同じ選考を突破している)が、それゆえ問題作成スタッフの想定した正解と違う想定外の回答が出て正誤判定が詰まったり(「そうとも言う」ようなケースが割と多かった)、微妙な回答に対してはうじきが何度も聞き直したり、過不足があってもニュアンスが合っているとして、正解のテロップ表示と異なっていても正解になるなど判定が甘く見えるケースが多々あった。
また、複数人解答できるルールであったため、解答権を取った者が答えられず詰まると、他の答えが分かった解答者が次の解答権を取ろうと早めに早押しボタンを連打してプレッシャーを与えたり、実演問題でスタッフが想定した方法と違う導き方で正解を出したり、解答者側から出題の限定の甘さが指摘されたり、解答者同士で補足説明をし合って司会がそうなんだと黙って聞いたり、難易度が高いと思われた問題を答えた解答者が「基本です」とさらりと言ってのける等、本物の人の凄みを感じさせる場面も見られた。一方、出場者側も「普段見せる場がない自分の得意分野を披露できてよかった」という感想が出ることもあった。
なお、いわゆるクイズプレイヤーと称される一般的なクイズの猛者的な人が予選を突破して出場したこともあったが、勝手が違うのか必ずしも好成績とはならなかった。
番組のエンディングではうじきと中村がスタジオ中央で揃って、「カルト、Q!」とコールしながら「Q」の字を腕で表して半周回り解答者に一礼して締めるのがお決まりであった。
ルール
ローカル時代、全国ネット化後いずれもクイズ形式は同一で行われている。知識量を競うことから難易度による得点の差以外、逆転要素は設けられていない。
- テーマに対して応募した者による予選会の筆記試験成績上位5名が出場(応募者多数の場合は予選会への参加も抽選となるケースがあった)。
- 本選の問題は全て早押し。中村の「カルト!」に続いてうじきが「Q!」とコールしたのを合図に牧原が問題を読み始める(もしくは映像等がスタートする)。
- 正解時の得点は最終コーナー「超カルトクイズ」のみ1問20点、その他の問題は1問10点。不正解の場合はその問題の解答権がなくなり、残りの解答者で早押し。全員不正解か時間切れを示す不正解のSEが鳴るまで回答は受け付けられた。
- 当てはまるものを全部答えたり、複数のものを順番に答えるといった問題が時折あることから解答席には筆記用具とメモが用意されており、それを使って答えを整理することも認められていた。
- クイズの出題は「初級カルトクイズ(番組上コーナー名はない)」→「中級カルトクイズ」→(テーマによって映像、イントロ、写真、読み上げ等によるクイズが数コーナー)→「超カルトクイズ」の順。
- 「超カルトクイズ」は最終問題のSEが鳴った時点で最終となるが、最終問題も同じ20点のため、既に勝敗が決しているケースも多かった。最高得点者が優勝となり「カルトキング」もしくは「カルトクィーン」の称号を得る。なお同点の場合は最高得点者同士で1問先取の同点決勝を行った。
- 優勝者にはローカル放送時代にはトロフィーと週替わりのテーマに因んだ一般的な賞品が贈られた。一方、全国ネット化後はポップアーティストのマーク・ウィーガンがデザインしたトロフィー「カルトロフィー」が贈られた。
- 全国ネット化に伴う唯一の追加ルールとして、250点を「ゴッドライン」と設定し、ゴッドライン以上の得点を獲得した場合は「カルトを超え、もはや神の域に近づいた」として「カルトゴッド」の称号を与え、賞品として「カルトな旅」が贈られることとなっていたが、全国ネット化初回にうじきが内容を尋ねても中村は「『カルトな旅』です。」と内容を明かさず、結局半年の放送で250点以上獲得した解答者もいなかったため、謎のままとなった。
備考
- ローカル時代も一部の地方局でも放送されていたが、当時はあくまで関東ローカルとして作られており、出題のベースとなる地域は基本的に東京を中心としたエリアの事柄が中心であった。そのため、「渋谷」や「東京ドライブ」「東横線」といったローカルテーマが出されたり、「ケーキ」や「ファミリーレストラン」といった一見一般的なテーマでも店舗関係は東京周辺のものに関する問題しか出なかった。全国ネット化により地域限定のテーマは出しづらくなったのか、テーマが首都圏ローカルだったのはローカル時代にも出た「渋谷」くらいで、終盤は地域に縛られにくい芸能音楽やスポーツ系のテーマが多くなっていった。
- ローカル時代の1992年7月19日、「FNSの日平成教育テレビ」の早朝の時間帯で「カルトQスペシャル」として「平成教育委員会」をテーマに初めて全国ネットで放送された。「カルトQ」のローカル時代最後に放送された総集編ではこの回も正式な放送回として扱っている。
- 中村の出演が多かった縁もあってか、「とんねるずのみなさんのおかげです」では「おかげですカルトQ」というコーナーがローカル、全国ネットいずれの時期も節目に放送され、「みなさんのおかげです」(1回だけ「仮面ノリダー」)をテーマに、本番組のセットを使い、同一フォーマットで放送されていた。司会はとんねるずのどちらかと中村が務め、とんねるずのもう一方は解答者、残り4名の解答者は一般応募で選ばれていた。石橋貴明はまともに司会をする一方、木梨憲武が司会を務めると決まって最終問題で本家では行わない法外な得点を与えて全員に逆転のチャンスを与えるのがお約束だった。
本家が終わってしばらく経った1993年末にも放送されており、その時点ではまだセットも大半が残されていたのか、得点盤が電球からデジタルになったり、装飾が一部欠けた程度で行われていた。 - 関西テレビは本番組のローカル時代はネットしていなかったが、代わりに(?)1つのテーマについて1人の解答者が1問1答形式で100問挑戦するという山田雅人司会のクイズ番組「100戦‼クイズチャンプ」という番組を火曜深夜に放送していた(1992年4~9月放送)。
- CS「フジテレビ739」(現「フジテレビone」)で権利関係をクリアした深夜ローカル時代の9回分のみ2003年に再放送が行われている。
関連商品
番組本(問題集)が発売されたほか、PCエンジン用ソフトとして「クイズキャラバン カルトQ」というゲームソフトが発売されている。
関連項目
- 0
- 0pt