デイモン・ヒル(Damon Graham Devereux Hill, 1960年9月17日- )とは、イギリスのレーシングドライバーである。
概要
1996年のF1世界選手権のドライバーズチャンピオンであり、F1史上初の親子でのワールドチャンピオン獲得例でもある。(二例目はケケ/ニコ・ロズベルグ親子)
父親のグラハム・ヒルはF1王者に加え世界3大レースを制覇した史上唯一のドライバーで、モナコに強い「モナコ・マイスター」として知られる。
F1王者でありながら偉大な父親との比較やトップチームでの苦闘を理由に過小評価されるケースが多い、もっと評価されるべきドライバーである。
経歴
F1以前
※本項のみ親子を区別するためデイモン(子)/グラハム(父)表記です。
1960年にデイモンは誕生。この時点ですでに父のグラハムはF1ドライバーとして活動しており、息子をグランプリの現場に招く事も多かった。しかしデイモンはレースに興味を示さず、14歳で二輪競技に初参加する程度だった。
転機は1975年末、グラハム自身が操縦する飛行機が墜落してチームメンバーもろとも亡くなる事故が発生し、ヒル家は莫大な補償金の支払い義務を背負う。金銭的にはきわめて窮乏した生活へと一転したが、デイモンはグラハムの喪失をきっかけに、かつて父親の居場所であったレースの世界へ惹かれ始める。
デイモンはアルバイトの傍ら2輪レースへ参戦し、後に4輪へ転向。1990年には当時所属していた国際F3000のチームがブラバムF1チームを買収したため、同チームのテストおよびリザーブドライバーへ収まる。1991年にはウィリアムズのテストドライバーに選ばれ同チームのアクティブサスペンションの開発に携わるなど、F1との距離を近づけていった。
F1
ブラバムからデビュー(1992年)
第4戦スペインGPからブラバムを駆って予選に挑む。しかし当時のブラバムの財政状況は極めて悪く、チームスタッフへの給与の支払いが滞るなど、マシンの開発に回す資金は無かった。ヒルは初のグランプリから5戦連続で予選落ちを喫し、母国のイギリスGPでようやく決勝へ進出を果たす。デビュー時点で32歳の遅咲きであった。ハンガリーGPで2度目の予選通過を記録するも、同GP限りでブラバムは撤退。初年度は6回の予選落ちと2回の完走、獲得ポイント0に終わる。
成績は惨憺たるものであったが、ヒルが開発に携わったウイリアムズ・FW14Bは同シーズンをナイジェル・マンセルのドライブで圧巻する。マシン開発への貢献が認められ、ヒルは翌93年のウイリアムズのレギュラードライバーとして抜擢された。
ウィリアムズ時代(1993~1996年)
1993年
第2戦ブラジルGPで2位を獲得し、父親と同じ「初入賞が表彰台」を飾る(グラハムは3位だった)。
シーズン終盤のハンガリーGPで初優勝を挙げると、一挙に3連勝する活躍を見せた。
1994年
アイルトン・セナがチームメイトとして加入するも、サンマリノGPで事故死。代わってヒルがエースドライバーに昇格し6勝を挙げる。
日本GP終了時点でポイントリーダーのミハエル・シューマッハ(ベネトン)に1点差まで迫ったが、最終戦オーストラリアGPにてシューマッハから“露骨なブロック”を見舞われ両者は接触、共にリタイア。タイトルを逃し、この時の因縁はキャリア終盤まで続く。
1995年
シューマッハがベネトンのエンジン変更に伴うマシンバランスの変化に苦しむ中、ヒルが駆るウィリアムズ・FW17はこの年の最強マシンと言われた。しかしマシン自体のポテンシャルは高かったものの、FW16を踏襲した独特な構造のリアサスペンションが原因のピーキーな挙動に苦しみ、チームの戦略ミスやピット作業の遅さ、加えてヒル自身のミスも重なり何度も勝利を逃す。
終わってみればシューマッハの11勝に対しヒルは4勝に留まり、最終戦を待たずして決着がつくなど大きく水を開けられたシーズンであった。
1996年 王座獲得とウイリアムズ放出
開幕前~シーズン中盤
シューマッハは当時低迷中だったフェラーリに移籍し、優勝争いには絡むがタイトル争いには程遠い状態。ベネトンもシューマッハ離脱とともに前年までの勢いを失い、シーズン前の下馬評ではヒルの王座獲得は間違いないと見られていた。
しかしこの年の最大のライバルは新人のチームメイト、ジャック・ヴィルヌーヴであった。
開幕戦オーストラリアGPの予選でヴィルヌーヴがいきなりポールポジションを獲得。決勝ではマシントラブルが発生し辛うじてヒルが勝利するが、ヴィルヌーブの才能を見せつけられた1戦であった。
それでもヒルは動じず、開幕3連勝を含めてシーズン中盤までの13戦で7勝を挙げ、着実に王座を手繰り寄せていた。
タイトル争い真っ只中の解雇発表
しかし、3戦を残したイタリアGPの直前にチームは突如、ヒルの同年限りでの契約終了を発表。直後にハインツ=ハラルド・フレンツェンを翌年から起用すると明らかにした。
解雇の理由は明言されていないが、以下の仮説が挙げられている。
- 翌々年以降のエンジン供給問題
当時のウィリアムズは翌1997年限りでルノーエンジンの供給終了が決まっており、BMWエンジンの獲得を目論んでいた、とする説。
ただし解雇発表の時点ではBMWはF1に参戦しておらず、復帰予定の発表も無い。ドイツ人のフレンツェンを迎え入れた事で生まれた憶測である。
契約金に関するトラブルも噂されたがヒル自身は後年に否定している。
他にも以下の要素が重なり、チームはヒルの放出を選んだと憶測される。
ヒルも突然の発表にショックを受けたのか、イタリアGPではトップを快走中に第一シケインのタイヤバリアに接触しリタイア。翌戦もヴィルヌーヴの後塵を拝し、タイトル争いはヴィルヌーヴに9点差まで詰め寄られた状態で最終戦までもつれ込んだ。
3度目の正直で王座獲得
最終戦は日本GP。ポイント上は圧倒的にヒルが有利で、1点(6位)以上獲得した時点で王座決定であったが、ヴィルヌーヴもタイトルを諦めず予選でポールポジションを獲得。ヒルは2番手グリッドを獲得し、両者がフロントロウに横並びの状態で最終決戦を迎える形となった。
迎えた決勝、ヒルは好スタートを決めトップを奪取する。一方のヴィルヌーヴは大きく出遅れたうえ、フェラーリ勢に蓋をされる形でなかなか順位を上げられない。
ヒルは序盤にゲルハルト・ベルガーと接触し、マシンダメージが心配されたが快調な走りで後続を引き離す。ヴィルヌーヴも僅かな可能性に賭けて追い上げを続けたが、2度目のピットストップを終えた後に2コーナー手前で右リアタイヤが突然脱落しコースアウト。そのままリタイアし、この時点でヒルのドライバーズチャンピオンが決定した。その後もヒルは落ち着いた走りでトップチェッカーを受け、王座決定およびウイリアムズでのラストレースを最高の形で締めくくった。
ウィリアムズ時代の通算21勝は全てルノーエンジンで記録しており、当時の同エンジンでの最多勝記録であった(2012年にセバスチャン・ベッテルが更新)。
翌年のシートは複数チームからオファーを受けた末、アロウズに決定する。
アロウズでの再評価(1997年)
アロウズのマシンは開幕時点では予選落ち寸前の遅さに加え信頼性も低く、時折速さを見せるものの開幕から6戦連続でリタイア。開幕戦に至ってはスタートすら叶わなかった。
中盤からは信頼性が向上し、ハンガリーGPではレース終盤までトップを快走する。ファイナルラップでマシントラブルに見舞われ惜しくも勝利は逃したが、アロウズに12年ぶりの2位表彰台をもたらす。弱小チームでの好走により、タイヤに優しい走りやマシンの開発能力などF1ドライバーとしての資質の高さを改めて周囲に示すシーズンとなった。
ジョーダン時代(1998~99年)
1998年にはジョーダンに移籍。序盤はチームがレギュレーション変更への対応に苦労し低迷したものの、シーズン中盤のアップデートが功を奏し、ベルギーGPにてチームへ初勝利(かつ自身最後の勝利)をもたらした。
1999年は新加入のハインツ=ハラルド・フレンツェンが複数回の勝利を挙げる一方でヒルは表彰台にすら登れず、次第に戦意を失っていく。シーズン途中に引退を表明し、最終戦の日本グランプリではスプーンカーブでコースアウト。ピットに戻り一度は再スタートを切るも、数周のち自らの判断でマシンを降り、現役生活へ別れを告げた。
引退後
2006~2011年にBRDC(ブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブ)の会長を務める。シルバーストン・サーキットの近代化工事を推し進めたうえで同サーキットでのF1開催の長期契約を結ぶなど、イギリスGPの継続に貢献している。
ドライバーとしての評価
「マシンが速いだけ」「コース上でのバトルが苦手」「プレッシャーに弱い」など、ドライビングテクニックに関するネガティブなイメージが先行しがちであるが、ヒルの優れた点はそこに至る前の「速いマシンを作る」段階で発揮される。
具体的にはマシンが遅かろうと速かろうと、走行時の状況やトラブルの症状について的確にエンジニアへ伝えるフィードバック能力が高い、と言える。アクティブサスペンションの開発が最たる例である。
1997年のヒル(およびデザイナーのエイドリアン・ニューウェイ)離脱後のウイリアムズに目を向けると、ニューウェイの置き土産であったFW19のセッティングにチームは苦労していた。マシンのポテンシャルとは裏腹に最終戦までタイトルを決められなかった事実からも、ヒルのセットアップ能力の高さがうかがえる。
ウィリアムズの当時のトップであったフランク・ウイリアムズも後年に「デイモンの解雇は間違っていた」旨の発言を残している。
また地味ながら無駄のない、タイヤに優しいドライビングも評価点として挙げられる。こちらは1993年のチームメイトであり、同年の王者を獲得したアラン・プロストの走行データから彼の運転を研究し、自身のドライビングに取り入れたとされる。
エピソード
- 現役当時はミハエル・シューマッハ、ジャック・ヴィルヌーヴ、ミカ・ハッキネン等、天才肌のドライバーが多かった為に地味な印象が強かったが、サーキット外ではロックをこよなく愛しユーモラスな一面も持ち合わせる粋な人物であった。
- 父グラハムの現役時代にアメリカ人初のF1チャンピオンであるフィル・ヒルに「ヒル」繋がりで可愛がられていたという。
- 1992年にブラバムからデビューした際、聖飢魔IIのデーモン小暮が名前繋がりでスポンサーを務めていた。英語での綴りは「デイモン(Damon)・ヒル」「デーモン(Demon)小暮」と異なるため、間違ってもデイモン・ヒルは「悪魔・ヒル」ではない。
- 1996年のチームメイトであったジャック・ヴィルヌーヴとは共通点が多かった。
・F1ドライバーの父親を持つ、2世ドライバーである。
・幼少期に父親を事故で失っている。(ヴィルヌーヴはF1予選中の事故)
・趣味が音楽(ヒルは引退後にバンドを結成しており、ヴィルヌーヴもF1から離れた後にCDを発売している)。
父親(グラハム)との共通点
関連動画
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関連コミュニティ
関連項目
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