パドヴァの誓いとは、1981年9月よりイタリアのパドヴァ大学において開催されたハレー彗星探査に関する国際会議(IACG=ハレー彗星探査のための関係機関連絡協議会)の通称である。
概要
ハレー彗星は76年周期で出現する彗星であったが、その歴史・文化的な影響とは裏腹に正体は謎に包まれていた。
そこで1986年の地球接近にあわせ、アメリカ・ソビエト・ヨーロッパそして日本の各国が探査機を送り込み協力して観測にあたることを計画。
東西両陣営が数万発の核弾頭を突きつけあう冷戦真っただ中にもかかわらず、この会議は極めて友好的に行われ、そして終了した。
パドヴァ大学に参集した科学者たちは学問の世界に政治を持ち込むことをよしとせず、人類の発展のために協力し合うことを誓い合った。
アポロ計画のような多分に政治的要素が混じった月レースとは一線を画す、歴史的な国際協力による天体探査が実行に移されることになったのである。
この、天体探査における歴史的瞬間を称して「パドヴァの誓い」と称する。
なお、以後も会議は各国持ち回りで開催され、1986年の統括会議においては当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世がメンバーをヴァチカン宮殿に招き、歴史的な会見を行っている[1]。
この結果、1986年にはハレー彗星周辺に各国あわせて6機もの宇宙探査機が集合することとなり、これは「ハレー艦隊」と通称されることになった。
この誓いが交わされたとき、日本の代表として誓いを果たすべきISAS(宇宙科学研究所)は、実はこれに参加できるだけの装備を何一つ持っていなかった。この頃ISASがもっていた物は、地球周回軌道に最大で300kgを打ち上げられるM-3Sロケットだけ。当然惑星間探査などしたことがなく、惑星探査機と通信を行うための深宇宙通信施設も無かった。
しかしそこからわずか4年で、ISASは打ち上げ能力を2.5倍にまで高めた新型ロケットM-3SⅡを開発。同時に深宇宙通信施設として長野県の南佐久郡臼田町に臼田宇宙空間観測所を完成させ、試験機「さきがけ(MS-T5)」、そして本番の「すいせい(PLANET-A)」を送り込むという無謀きわまりないウルトラCに成功した。
これにより、日本はベガ1号2号を打ち上げたソ連と並び、ハレー艦隊の隊伍に2機の探査機を持って列することとなったのである。
人類を恐れさせてきたハレー彗星に科学の刃で立ち向かうことを約束した、パドヴァの誓い。
その誓いを果たすべく、ハレー艦隊(ハレー・アルマダ)の隊伍を組んだ探査機は、打ち上げ順に以下の通り。
- ICE:アメリカ航空宇宙局所属。1976年12月8日打ち上げ
- ベガ1号:ソ連科学アカデミー/ソ連宇宙科学研究所所属。1984年12月15日打ち上げ
- ベガ2号:ソ連科学アカデミー/ソ連宇宙科学研究所所属。1984年12月21日打ち上げ
- さきがけ:日本国文部省宇宙科学研究所所属。1985年1月7日打ち上げ
- ジオット:欧州宇宙機関所属。1985年7月2日打ち上げ
- すいせい:日本国文部省宇宙科学研究所所属。1985年8月18日打ち上げ
これら6機の探査機が、1986年3月に、次々とハレー彗星に最接近していった。
実際の探査においてはソ連の「ベガ1号」がハレー彗星近傍において中心部を観測したのに続き「さきがけ(MS-T5)」が彗星自体の全体像を観測、続いて「すいせい(PLANET-A)」が太陽風と彗星の大気(噴出ガス)との相互作用を観測。
ハレー彗星の偏光周期が2.3日周期であることをはじめて明らかにするなど大きな成果を上げた。
これらの成果をフィードバックし、欧州宇宙機関(ESA)の探査機「ジオット」はハレー彗星の核めがけて突入。史上初の彗星核の直接撮影に成功したのである。
この大冒険において日本の宇宙探査技術は飛躍的に進歩。
のちの工学実験衛星「ひてん(MUSES-A)」によるスウィングバイ技術の獲得とあわせ、惑星間探査技術を獲得した。
言うなれば、探査機「はやぶさ(MUSES-C)」の成功に代表される日本宇宙探査の栄光はここからはじまったのである。
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関連項目
脚注
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