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ヘラクレイオス
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ヘラクレイオスは、東ローマ帝国ヘラクレイオスの初代皇帝(在位:610年 - 641年)。
ヘラクレイオス1世とも呼称され、中世ギリシア語読みから「イラクリオス」と表記されることもある。

斜陽の「ローマ帝国」

皇帝ユスティニアヌス1世が旧都ローマを奪還すると、東ローマ帝国はいよいよ「大ローマ帝国」のへと上り始めた。その広大な版図たるや地中海のほぼ全域にまで至り、果たして大ローマは成就しつつあったのだ。

しかし帝国直ににしたもの、それは虚栄と滅に他ならなかった。ようやく得た古都ローマは荒の限りを尽くし、ローマを含むイタリア市民らはユスティニアヌス1世の専制に失望した。また戦費により帝国の倉庫は枯渇し、あまつさえ疫病のペスト黒死病)までもが帝国を取り巻いていく。

もはや衰退の一途を辿っていた東ローマ帝国。そこへ追い撃ちをかけるかのごとく、ササン朝ペルシャ帝国の脅威が立ち塞がる。ところが東ローマ帝国の内部では不毛な政争が繰り広げられており、602年には軍人のフォカス位を簒奪、即位した。強権的で横暴な政治を敷いたフォカスに対し、コンスタンティノポリス市民たちは、ただただ不満を募らせていくのだった。

その名はヘラクレイオス

610年、稀に見る大艦隊が都のに現れた。カルタゴ(現チュニジアの北あたり)の将軍が、はるばる地中海を渡ってコンスタンティノポリスへとやってきたのである。その将軍の名はヘラクレイオス反乱軍を恐れたフォカスはヘラクレイオスの婚約相手を人質にとったが、これはむしろ彼に火をつけてしまった。もはやヘラクレイオスを阻む者などどこにもおらず、それどころか都の市民らはフォカスに代わる新たな皇帝として彼を迎え入れていた。

結果、ヘラクレイオスはたったの2日間で難なく都に入し、フォカスを捕らえ処刑した。自身を新たな皇帝ヘラクレイオス1世とし、囚われの身であった婚約者のエウドキア皇后とした。東ローマ帝国中期の幕開け、ヘラクレイオスの成立であった。

困惑する皇帝

さて、みごと悪逆な皇帝から市民らを救った新皇帝ヘラクレイオスであるが、即位当初の彼を取り巻く帝国は凄惨なものだった。

帝国が傾いていく一方、ヘラクレイオスは何もしなかった。何もする気が起きなかったのだ。無気力だったのだ。いいや、そもそも「何もできない」状況にあったのだ。すでに東ローマ帝国の軍隊は6,400人にまで減少し、財政的にも限界が見え始めていたのだから。そのような情勢の中、強敵は刻一刻と接近していたのだった。

ヘラクレイオスは大きな挫折感に打ちひしがれたことだろう。まさか、こうなるとは。ローマ皇帝という位の重さ、それも帝国史上最大級の困難は、この青年にはあまりに酷なものであった。そしてとても非情であった。荷が重すぎたのである。

まもなくヘラクレイオスは、故郷カルタゴへの逃亡を企てる。すでに絶望した彼にとって、ローマ皇帝位を諦めることはやむなしだった。金銀財宝の類いを自らと共にに乗せ、先発隊として出航。しかし彼を乗せたは難破した。

ローマ人の皇帝よ、このを救ってください」
陛下! 都に残って々をお守りください!」

そのときヘラクレイオスの胸中で、臣民が聞こえたことだろう。
彼は決意した。あくまで「ローマ人の皇帝」として、このと共に最期まで戦うと。

英雄獅子奮迅

戦いを始めるにも、財政難ではどうしようもない。ということでヘラクレイオスは、穀倉地帯のエジプトを失ったことを理由に、パン無料供給を止した。また根本的な資を得るべく、総セルギオス1世から教会財産を頂き、軍事費へ回した。総教とて「なる十字架」は取り返したかったのだろう。「十字架奪回の戦」という大義名分のもとに、ヘラクレイオスは教会の支持をも得たのである。

こうして財政面の懸念を取り払ったヘラクレイオスは、619年に軍隊を再編。そして622年には、再婚相手の姪マルティナと共に敵地へと出する。

VS ペルシャ帝国

ササン朝ペルシャ帝国との戦いが始まった。

「これより直接敵の首都く!」

ヘラクレイオスの軍はアナトリア(現トルコ)を突破し、623年にはアゼルバイジャンへ侵攻、624年にはアルメニアペルシャ軍と衝突した。ペルシャ本部への侵攻を期待したが、敵の猛な反攻により625年にはコーカサス地方へと撤退を余儀なくされる。

626年からはペルシャ帝国が反撃に打って出る。

ヴァール人、スラヴ人、ブルガール人さえペルシャ帝国に味方し、コンスタンティノポリスへ強襲。しかし、戦では都の艦隊がスラブ人を撃沈させ、陸戦では難攻不落の「テオドシウスの」と総セルギオス1世の励により、ペルシャ側の連合軍を撤退に追い込む。ヘラクレイオスはこの隙を逃さず、627年の12月には現イラクのニネヴェにてペルシャ軍と開戦、これを撃破する。そしてそのまま628年2月には、ヘラクレイオスの軍はペルシャ帝国首都クテシフォンへと急接近。

この際ペルシャ内部ではクーデターが勃発し、ペルシャでは新たにカヴァー2世が即位。ヘラクレイオスは彼に全占領地からの撤退を要し、みごとそれを通した。こうしてシリアパレスチナエジプトを取り返し、東ローマ帝国ペルシャ帝国に対し勝利したのだった。

凱旋

かくしてヘラクレイオスは救英雄となった。暴君を倒し、財政難を打破し、諸民族の侵攻を跳ね除け、くわえて古代ローマ帝国から続くペルシャ帝国との因縁をも断ちきったのである。ユスティニアヌス1世の後から長らく衰える一方の東ローマ帝国を、みごと大として返り咲かせたのだ。

ローマ人の皇帝、ヘラクレイオス万歳!」

諸王の王、一の皇帝(バシレウス)として、ヘラクレイオスは感動の凱旋式をいく。緋色のマント背中に羽織り、色のと「なる十字架」を手にしながら、絨毯の上を進む。臣民高に英雄の名を叫び、教会ではへの賛美が木霊した。まさしく“このときの帝国”は平和であり幸福であった。

悲劇のヘラクレイオス

もしヘラクレイオスの人生がそこを終点としていれば、いかに幸せだったことだろう――622年、世界史上の大事件「ヒジュラ」がおこる。これはご存知の通り、最後にして真実預言者自称するムハンマドが、メッカからメディナへと身を遷した年である。

イスラームの誕生。それはアラビア半島の制圧という形で大々的に表れた。アラビア軍は630年から631年の間にシリアへ侵攻、この際東ローマ帝国は何とか勝利を収めるも、634年にはアラビア軍がシリアへ報復にくる。新アラビア軍はとどまることを知らず、635年にはシリアの大都市ダマスカスを占領、再び東ローマ帝国へ圧を加えた。

「シリアよさらば」

636年、ヘラクレイオスは大軍を率い、アラビア軍との対決の意志を見せた。これをアラビア軍は「占領地の開放」という前代未聞の方法で南のヤムルーク河畔まで誘い、その南部で待ち構える。ヘラクレイオスの軍は解放される占領地が餌だとも知らず、まんまと食らいつき、アラビア軍の思うがままに南下していった。

まもなく両軍は対峙した。
ヘラクレイオスの軍50,000 VS アラビア軍20,000。数においてはヘラクレイオスの軍が圧倒的に優勢であった。

開戦。当初は数に勝るヘラクレイオスの軍が優位にあった。だが砂漠の民であるアラビア軍は戦いが長期化するごとに持ち前のり強さを見せ、着実にヘラクレイオスの軍との関係を逆転させていく。開戦から4日たった頃、ヘラクレイオスの軍は暑さにやられ、また内部の不和が祟り、軍の左翼を喪失する。これにアラビア軍がつけこみ、ヘラクレイオスの軍の退路を断つよう回り込んだ。退却を試みるヘラクレイオスの軍、しかし、彼らが行き着く先は底知れぬ深い底だった。崖に追いやられたヘラクレイオスの軍40,000人は、続々と底へ落とされていった。

戦いの帰趨はそこで決した。
大敗を喫したヘラクレイオスは、豊かな土地シリアを後に、都へと赴くのだった。

シリアさらば、なんと素晴らしいを敵に渡すことか!」

井上浩一著『世界歴史11 ビザンツとスラヴ 第1部』 p.47-48より

東ローマ帝国のいく末もまたそこで決した。ヘラクレイオスがやっとの想いで奪還したシリアパレスチナエジプトは、すぐにでもアラビア軍の中に収まった。
ヘラクレイオスはこの大敗と労苦の結晶たる東方領土の喪失を前に、ただただ泣き崩れる他はなかった……。

一人の人間として

ギリシア神話に由来する、ヘラクレイオスという名前。一ローマ人として、暴君に挑んだ青年ローマ人の皇帝として、強に打勝った英雄。そして、晩年は生涯の努すべてが崩壊した、病に倒れた者。

まぎれもなく彼は一人の人間であった。彼は即位当初、迫り来るペルシャが恐ろしくて仕方がなかった。だから逃げようともした。それでも彼は勇敢に現実に立ち向かい、多くの民を導いた。人生の絶頂期を経験する一方で、晩年は挫折を噛みしめた。これほどまでに人間らしく、そして同情のできる勇敢な皇帝は、はたして他にいるだろうか。

ヘラクレイオスの時代、東ローマ帝国はいよいよギリシア化が進行した。629年には公用語ラテン語からギリシア語に代わったし、住民の大半は領土の関係からかギリシア人が大半となった。凱旋した際のヘラクレイオスは、自身をギリシア語で「キリスト教徒の皇帝(バシレウス)」とさえ称している。

まさしくこの頃は帝国が「古代ローマ帝国からの脱皮」をした時代であり、東ローマ帝国の前期と中期のにあったといえよう。そのような歴史の狭間にあって、ヘラクレイオスは自で、それもほとんどゼロの状態から帝国を変えようと努したのである。そんな彼がいたからこそ、東ローマ帝国はより長く存続できたのではないだろうか。

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ヘラクレイオス

8 ななしのよっしん
2013/07/08(月) 18:08:44 ID: Y2cMD9H2ku
>>7
『生き残った帝国ビザティン』に予想として描かれているな
記述を少し変えた方がいいかもしれんな
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9 ななしのよっしん
2014/01/21(火) 18:32:17 ID: QDOEmrUHaF
「長い治世の最初と最後の数年間、この皇帝国家の災厄の無気力傍観者として精、快楽もしくは迷信奴隷として現れる。しかしこと夕方の倦怠なの間に太陽が照り渡り、宮殿内のアルカディウスは軍営のカエサルとして立ち上がり、ローマヘラクリウスの名誉は六回の冒険的な外征の功業と戦利品で見事に回復された」。
ボン中野好夫訳)のヘラクレイオス奮起のこのくだりは素晴らしい美文だと思う。
ヘラクレイオス興味が出たらローマ帝国衰亡史読もうぜ。
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10 ななしのよっしん
2016/08/16(火) 23:05:19 ID: oOTjoLC7hl
ムハンマドの使者が来た時、「彼(ムハンマド)の支配は私のこの足元まで届くにちがいない。」と予言めいたことを口走ってるのがおもろい
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11 ななしのよっしん
2016/10/20(木) 09:40:59 ID: BOgRyF3bai
まあ、ヘラクレイオス自身は実際にはローマ皇帝は名乗らなかったんだけどね。
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12 ななしのよっしん
2016/11/19(土) 06:24:29 ID: BOgRyF3bai
ヘラクレイオスローマ帝国から間接的な支配を受けていたアルメニア貴族で、混乱する東ローマ帝国を滅ぼして新たなキリスト教帝国を成立させた人物。

……とされる場合もある。
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13 ななしのよっしん
2021/01/03(日) 14:00:04 ID: 2+iM4qxiy3
個人的に東ローマ皇帝の中ではバシレイオス2世コンスタンティヌス11世と並んで好きな皇帝です
絶望と挫折に塗れた人生を送りながらもほんの一時期だけながら帝国の栄を取り戻した英雄皇帝だからこそとても惹かれる何かを感じます
物語英雄みたいな感じですね
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14 ななしのよっしん
2021/11/16(火) 18:55:27 ID: cbR7m6hj5v
まあアンティオキアは「サセラン人のざめた死」ニケフォロス二世フォカスが奪還してくれるから救いはないわけじゃない
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15 ななしのよっしん
2021/12/21(火) 00:58:17 ID: 2+iM4qxiy3
実はこの人は東ローマ皇帝の中でならユスティニアヌス大帝に継いで入試の問題に出されたりする
2020年MARCHのHの文学部史学科で触れられてたりするレベルだが
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16 ななしのよっしん
2022/02/24(木) 02:49:20 ID: jVi8XSwmfr
そういやラテン語の正式名はFlavius Heraclius Augustusなんだってな
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17 ななしのよっしん
2023/11/02(木) 17:43:11 ID: cbR7m6hj5v
それは単に「カイセルにしてセバストス、アウトクラトールにしてフラウィオス」では…?
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