ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn, 小泉八雲)は日本研究者・作家。ギリシャ生まれのアイルランド育ちで、アメリカで活躍したのち日本に帰化した。帰化名の小泉八雲は同時に彼のペンネームでもある。
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概要
1850年生まれ。ギリシャの英領イオニア諸島レフカザ島(ミドルネームの由来)に駐屯中の英領アイルランド出身の父とイオニア諸島キティラ島の名家出身の母との間に生まれた。父の西インド転属と母の精神疾患(後に離婚)もあり、青年期までの殆んどをアイルランドの大叔母の元で暮らす。16歳のときに回転ブランコ遊びの事故で左眼を失明しており、以降は濁った左眼をカメラなどに絶対に写さないよう顔をうつむけたり傾けたりしていた。
17歳で父の急な病没と大叔母の破産という立て続けの不幸に見舞われた。19歳で渡米し、以降20年にわたりシンシナティーやニューオーリンズで新聞記者・週刊誌編集者として活躍。その出自からか異文化の接触に並ならぬ興味を示し、シンシナティ時代に行った最初の結婚が当時違法であった黒人女性が相手(2年弱で離婚)だったのがスキャンダルになり出版社を追われたことも。ニューオーリンズ時代は土地柄もあり、クレオール文化やアジア系移民の生活などを紹介する記事を多数書いている。
39歳の時に特派員として来日。ごく短期間の滞在であったが、この時の日本の印象が忘れられず、その年の内にお雇い外国人教師の資格を得て島根県松江市に渡る。翌年に武家の娘・小泉セツと結婚、その後わずか数年の内に熊本県熊本市、兵庫県神戸市と赴任地を転々とするも、45歳で東京帝国大学(のちの東京大学)の英文学教師に就任(亡くなる前年まで。解任の際には反対運動が起きるほどの信望を得ていた。なお後任はかの夏目漱石)、同じ年に日本に帰化し「小泉八雲」と名乗る。1904年、狭心症で没。享年54歳。
日本の文化や風土を研究し、それを『知られざる日本の面影』『東の国より』などの作品・手記などによって記録し後世に残した事で、現代の日本文化史・風土史の発展に大きく寄与した人物でもある。当時の学問や研究というのは、儒学や朱子学といった道徳的分野か、あるいは漢詩や俳諧などの文学的分野に限られており、小泉八雲はそれらから外れた、庶民の生活や風習、あるいは人々の口伝で語り継がれる説話に注目し、随筆や小説を書き上げた。これには日本語の読めないハーンに代わって熱心に民話や伝説を収集し読み聞かせた妻セツの内助の功も大きい。
日本の風土や文化の独自性について、小泉八雲はおおむね肯定的な姿勢で描写しており、「はるか極東のこの国」に対し、彼が深い愛着を持っていたことが随所にうかがえる。一方でそれらの描写があまりに誇張された、日本賛美にすぎるとする考え方もある。
現在では、特に怪奇文学作品集『怪談』の著者として有名。「ろくろ首」や「雪女」、「耳なし芳一」など、現在でも広く知られたこれらの怪談話は、彼の作品に基づいている。これらの怪奇作品は、妻のセツから聞いた話を、八雲が自身でまとめたものである。ちなみに日本名の「八雲」は「音読みするとハウンになるのが由来」と言われることがあるが、実際は彼が最初に在住した島根県松江市の旧国名、出雲の枕詞「八雲立つ」が由来であり、ハウン⇔八雲というのは関係ない。
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関連項目
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