ヴァレンシュタインとは、三十年戦争の時代に活躍した傭兵隊長である。
概要
アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン(1583-1634)はボヘミアに生を受けた小貴族の倅から、ヨーロッパ最大の軍事請負業者として名を馳せ、遂には神聖ローマ帝国の懐刀として各地を暴れ回った傭兵隊長である。北方の獅子王の異名を持ったスウェーデン王グスタフ2世アドルフの好敵手としても知られる。
また、傭兵のあり方を根本的に変えた人物としても知られ、それまでのように現地調達の名を借りた略奪をそのまま収入とするのではなく、予め領主に免奪税という形(皇帝のお墨付きつき)で一定額の徴収を命じてそれを受け取るというスタイルを取った。徴税なら穏当そうに見えるが、早い話が「いやー。別に断るなら断るでいいんスけど、払ってもらわないと、うちの子分たちが何するかわかんねーぞ? な? 払っとけって」という軍事力を背景にした恐喝である。
それじゃあ略奪と大差ないじゃん! という意見もあるだろうが、少なくとも領主からすれば他の私兵のように問答無用で土地や家を焼かれるよりはマシという事で、応じる事が多かった。これにより、安定した収入が望めるようになり、ここから常備軍制度が発達していったという説もあるほどだ。いわば近世への案内人といったところか。
だが、1634年にあまりにも権勢を持ちすぎたためか皇帝や貴族に謀反を疑われ、帝国を追放され、自身の居城のあるエーガーにおいて、皇帝軍の将校二人の手により暗殺の憂き目に遭う。その原因は様々なものがあり、歴史家たちの興味をひいてやまない。
彼の生涯はドイツのゲーテと並ぶ文学者・シラーによって1800年に戯曲化され、大きな人気を博した。
傭兵隊長までの道と、三十年戦争
さて、ボヘミアのいち貴族でしかなかったヴァレンシュタインがのし上がった契機は、ある裕福な未亡人との結婚であった。まだ勢い盛んなオスマン帝国と士官として戦っていた彼は、軍才を示して皇帝に気に入られ、褒美として領地とともにその未亡人と娶せられた。彼女の財産と広大な土地を元手に傭兵をかき集め、その力を蓄えていった。
そして、1618年に約200年ぶりに発生した恒例行事のプラハ窓外投擲事件が発生し、ヴァレンシュタインは皇帝軍側として反乱鎮圧に多大なる貢献を果たした。この、ドイツを中心に最初は新教と旧教、後にはハプスブルクと反ハプスブルクという対立構造で血で血を洗う地獄を現出した、後の世からは三十年戦争とよばれる大戦争で彼は大きく飛躍し、またその只中に生涯を終えることになる。
三十年戦争の詳しい経緯などは当該記事に譲るとして、彼は戦争で手柄を立て、新教派の領地や財産を征服、そこからぶんどった得た金でさらに傭兵を雇って手柄を立てての無限ループをこなした。そして、彼はヨーロッパではもはや並ぶものの居ない大富豪にして、大傭兵隊長にまでのしあがり、1625年には皇帝軍総司令官にまで任命された。
デンマーク王クリスチャン4世をはじめとする新教側の諸侯や国々を相手に、連戦連勝を重ね有頂天となっていたヴァレンシュタインだったが、後ろ盾の皇帝が1629年に勝ちに乗じて新教派の領土を取り上げて旧教側に戻す(要約)という復旧令を出したことで戦争が激化。また復旧令には教会への復権も含まれていたことから皇帝側の諸侯も反発し、遂に嫡子のローマ王選出に協力しないという姿勢までみせた。そして、その諸侯たちは成り上がり者で、また免奪税のせいで自分の分の兵糧や資金の調達が滞って割りを食っていたという経済的利権の絡みからヴァレンシュタインの罷免を要求。窮した皇帝フェルディナンド2世は1630年にそれを受諾し、彼は放逐されることになった。
その頃、土地や財産を身ぐるみ剥がされるという危難に瀕した新教派の諸侯たちは、侵略の危険をおかすというリスクを受忍して、スウェーデン王グスタフ2世・アドルフの軍勢を受け入れることに同意した。
グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデン軍は1630年にドイツへ上陸し、わずか2年で南ドイツにあるバイエルン選帝侯の都・ミュンヘンを陥落させるという破竹の勢いを示し、神聖ローマ帝国の都・ウィーンにまでうかがう勢いを見せた。これに目を回したフェルディナンド2世は土地を喪失したバイエルン選帝侯の頼みもあって、ヴァレンシュタインに復職を懇願し、彼はこれを受け入れた。
総司令官に復職したヴァレンシュタインは、まずボヘミアを占領していたザクセン軍を賄賂によって引き下がらせ、片足を失う格好になったグスタフ2世は一旦北へ撤退。当面の危難を乗り切ることに成功した。ニュルンベルクなどでグスタフ2世とヴァレンシュタインは幾度も戦ったが、一進一退で決着がなかなかつかなかった。
だが、グスタフ2世のほうもそう悠長に構えてはいられなかった。一進一退とはいえ、フュルトやニュルンベルクで敗北を重ねたことで当初ほどの求心力を失い、風見鶏を決め込んでいたドイツ諸侯が皇帝側に動こうとする気配が見られたためである。兵糧も滞りはじめ、彼が率いるスウェーデンとプロテスタントの同盟軍は日に日に士気を落としていったのである。
そして、1632年11月にリュッツェンにてグスタフ・アドルフは賭けに出て、ヴァレンシュタイン率いる皇帝軍と衝突。両軍の実力は伯仲しており、そんな中、ヴァレンシュタインの軍勢に中央が押されている知らせをきいたグスタフ2世はその支援に向かったが、彼は近眼だった上に濃霧や硝煙の為距離を見誤って敵軍の只中に突出。腕を撃たれ、護衛兵と共に退却しようとしたところを皇帝軍の乱戦に巻き込まれて胸を更に撃たれ、たまらず落馬したところを頭に撃ち抜かれて戦死するというやや間の抜けた呆気ないものだった。
しかし、乱戦の為このスウェーデン軍総帥の死はすぐには伝わらず、また伝わっても軍は統率を失わず、遂に夕方には皇帝軍を撤退させることに成功した。ヴァレンシュタインは不利を悟ったのと日没の為、全軍を撤退させ、新教側も疲弊と多数の死者の為に追撃を行わなかった。
後世からはリュッツェンの戦いとよばれる、この会戦によって新教軍は戦術的な勝利を果たしたものの、総帥であり精神的な主柱でもあったグスタフ2世の喪失はあまりにも大きかった。以後は勢いを失い、ヴァレンシュタイン率いる皇帝軍に押されていくことになる。
だが、これでヴァレンシュタインは権勢を強めた……といえばそうではなかった。狡兎死して走狗烹らるという故事成語があるが、グスタフ2世という狡兎を仕留めた今になって、走狗たるヴァレンシュタインは最早皇帝や貴族たちにとって用済みでしかなかった。
それから2年後の1634年に突如として再度ヴァレンシュタインは総司令官を解任させられ、それどころか帝国追放令という事実上の人権剥奪に等しい宣告を受ける。そのまま彼は概要の通り、将校2名により殺害されることとなった。
グスタフ・アドルフという旗頭を失った新教軍はその後勢いを大きく落とし、1634年のネルトリンゲンで敗北した事でスウェーデン軍は孤立。一時的な講和を余儀なくされる。しかし、スウェーデンはそのまま没落はせず、名宰相オクセンシェルナとグスタフ・アドルフの娘クリスティーナ女王の下で体制を立て直し、フランスを直接引き込む事に成功。三十年戦争は新たなる局面を迎え、その混迷を増していくことになる。
関連項目
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