三遊亭圓楽とは、日本の落語家である。とりわけ、「笑点」の回答者・及び司会者として有名。本名は吉河寛海。馬ではない。
経歴
1933年東京都出身。かの戦国武将吉川経家がご先祖様というお寺の家に生まれる。東京大空襲を経験したのちに埼玉県の農業高校に入学し卒業。1955年に6代目三遊亭圓生に弟子入りし、三遊亭全生を名乗る。この時「30歳までに真打に昇進できなかったらやめます」と師匠に宣言し、その宣言通りに30歳になるまでに真打昇進を成し遂げ、5代目三遊亭圓楽を襲名した。入門してわずか7年で真打昇進は極めて異例。
その後、数多くのテレビ番組に出演するようになり、「星の王子さま」としてお茶の間の人気者になる。「笑点」のレギュラー出演もこの頃から。しかし師匠の圓生から「落語に精を出しなさい」との厳命を受け、1977年ごろから笑点以外のテレビ出演を全て降板。以後、落語家として名を上げる事になる。
また、時を同じくして「落語協会分裂騒動」を引き起こす(詳細はwikipedliaにて)。この時に後の円楽一門会を設立。自分の金で寄席「若竹」を江東区東陽町(江東区役所前)に建設し、時折「笑点」の収録もここで行っていたが経営難により閉鎖してしまった。この件は生前に「笑点」でもたびたびネタにされた。
1983年から「笑点」の司会者を務める。3問出すべき問題を2問で終わらせようとしたり、収録中に居眠りをしたり、こん平の代演で入ったたい平の名前を忘れたりといったミスも稀によくある緻密な司会ぶりであったが、歴代で最も長く笑点の司会を務めた事から笑点を見るニコニコユーザーにとってなじみ深い司会者と思われる。
回答者から罵倒されてもキレるどころか爆笑することが多かったが、座布団はキッチリしっかり没収していった。
2005年に脳梗塞を発症し、翌年に「笑点」を勇退。その後もいくつか口演するが、2007年に自分の噺に満足できず落語家を引退する事を表明し、後進の指導に当たることになった。
2009年には弟子の三遊亭楽太郎に圓楽の名前を継がせる事を決めたが、その年の10月に胃から転移した肺癌により死去。「死んでから誰か分からない人間に名乗られるよりも知ってる人間にあげると決めたほうがいい」と考えから名前を継がせる事を決めたが、生前襲名は叶わなかった。
人物像
- 酒が飲めなかった分大の甘党で、甘いものにまつわるエピソードに事欠かない。例えば仕事で長崎へ行った時、イチゴにかけるために出された加糖練乳をそのまま飲み干しておかわりを求めたり、弟子を全員集めて小言を言っていた時に目の前にあった羊羹(和菓子屋などで売っている拍子木サイズの一切れずつカットしてお茶請けに出すようなもの)の包装をバナナの皮のように剥き、小言を言いながら2棹とも平らげたり、豆をつまみながら何を言っているかわからない小言を言ったり。
- 落語界随一のヘビースモーカーで、医者に止められても禁煙出来ず、2度目の肺がんを患った時に見舞いに来た桂歌丸相手に「歌さん、タバコ持ってないかい?」と尋ねて呆れさせたというエピソードが残っている。
- 自分の弟子には寛容な一面を見せて六代目円楽や好楽などから亡くなった後も慕われる一方で自身の言動が原因で兄弟弟子からの評判はすこぶる悪く、上記の落語協会分裂騒動の一部始終を本に書いた弟弟子の圓丈からは八方美人な上にホラ吹きの気があるなどとクソミソに罵倒され、それ以外の川柳、生之助、圓龍からも
「師匠(圓生)が亡くなった後、誰も圓楽さんの一門(預かり弟子)にはならなかったんです。」(生之助)
「(圓楽の一門には)行きませんよ」(圓龍)
とボロクソに評価されている。 - 落語の中でもドジを踏むことが多かったらしい。ある時は扇子を忘れて代わりに手拭いをタバコに見立てたり、ある時は「目黒のさんま」という演目で魚を「イワシ」と言ってしまったり。しかしこれらのドジを強引に乗り切ったとも。
- 寒がりでもあり、よく厚着をしていた。時には着物の下にセーターを着込んだり足袋の下に靴下を履いたりして高座に上がってたらしい。
- 顔が長いのに比例して小言も長い。
- 実家のお寺は足立区竹ノ塚にある易行院。
そこに生前に建てた自身のお墓と1972年にインドのニューデリーで起きた航空事故で早逝した実妹の供養観音が並んで建てられている。 - 妹とは航空事故により今生の別れとなったが、自身は航空事故を回避している。
1985年8月12日、徳島での仕事のために笑点メンバー一同で飛行機に乗ろうとした際、予定していた便が遅延&条件付き運行になったので日本航空123便に振り替えようとしたが、林家こん平の一言で123便に振り替えず、予定していた便に乗って徳島へと向かい、結果事故を回避している。 - 趣味は麻雀だが、その腕前は趣味の枠を超えて名人の域に達するという雀鬼。暇さえあれば弟子を連れて自宅近くの行きつけの雀荘へ通い、「あの辺で圓楽の名前を知らないのはモグリだ」と噂されるほどその名を轟かせていた。
短気
超がつくレベルの気性難短気であり、偏頭痛に悩まされていた頃は風が吹くだけでも怒鳴った程。
有名なエピソードに全生を名乗っていた頃のこと。二つ目時代に懇意にしていた音曲師柳家小半治の訃報を耳にし、葬儀の場所を先輩の七代目橘家圓太郎と二代目古今亭甚語楼に尋ねたが、嘘の場所を教えられ葬儀に出席することが出来なかった。
後日、楽屋で2人を見かけた全生は2人相手に口論を起こすが、ちょうどその現場へ八代目林家正蔵がやって来た。正蔵に
「後輩のくせに生意気な口を利くな。俺が相手になってやるから表へ出ろ」
と叱責され、頭に血が上った全生は40歳近く歳上の正蔵に対して突っかかり、楽屋から外へ出た。すると正蔵はそれまでの怒りの形相から一転して笑顔になり
「お前は気が短いようだが、自分も短気では随分と損をして来たから、気は長く持たなければならないよ」
と優しく諭された。これがきっかけで正蔵に稽古をつけてもらうようになり、正蔵がかつて名乗っていた三遊亭圓楽の名跡を襲名することに繋がった。
なお歳を重ねる毎に気性難が改善気が長くなったようで、晩年「怒るっていうのはエネルギーが要るもんだなぁ」と弟子に言っていたという。
主な弟子
- 三遊亭鳳楽(惣領弟子、一時期大師匠である圓生の襲名を表明していたが実現しなかった)
- 三遊亭好楽(笑点のピンク)
- 三遊亭楽太郎(現・6代目三遊亭圓楽。笑点の紫)
- 三遊亭王楽(好楽の実の息子。5代目圓楽最後の直弟子)
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関連項目
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