南方熊楠(みなかた くまぐす 1867年5月18日 - 1941年12月29日)とは、日本の博物学者、生物学者、民俗学者である。
昭和天皇に進講したことがある。
概要
博物学・生物学(粘菌)・植物学・民俗学・宗教学の第一人者である。
異常なほどの筆写魔であった。本人は抜き書きと呼んでいた。筆写したものを次々と記憶していった。子供時代は「和漢三才図会」(105巻81冊の百科事典、絵図入り)を筆写しロンドンに行ってからは「ロンドン抜書」と呼ばれる52巻に及ぶノートを作成し、 膨大な知識を貯めに溜め込んだ。
明治の文明開化で海外の知識がめちゃくちゃ必要とされた時代に日本を飛び出し(同い年の夏目漱石よりも海外留学が14年も早かった)アメリカなどに渡る。その後、当時知の最先端であるイギリスに渡り大英博物館に籠もった。欧米に行っても萎縮してしまう日本人が多いなか熊楠は堂々と議論を闘わせた。科学雑誌「ネイチャー」に51本もの論文を寄稿した。
粘菌(変形菌)に魅せられた。民俗学・神話学・大乗仏教にも深い関心を示した。
語学にめちゃめちゃ堪能。英語を始めとしてフランス語・ドイツ語・イタリア語・ラテン語・スペイン語は専門書が読めた。他にギリシア語・ロシア語・ポルトガル語・アルメニア語・中国語・アラビア語・ユダヤ語・ペルシア語・トルコ語・ヒンディー語・チベット語ができたと言われる(諸説あり)。さらにはサンスクリット語なんてのもできた。
日本でエコロギー(ecology エコロジー)運動をやった第一人者でもある。自然保護を目的として闘い続けた。特に神島の自然保護には圧倒的な活躍を見せた
昭和天皇に進講するという栄誉を手にしたことがある。昭和天皇に業績を注目されての進講だった。キャラメルの大きな箱に詰めて進呈した。
来歴
1867年現和歌山県で生まれた彼は、幼いころより神童として扱われ、大変な読書家でも有り、「和漢三才図会」(105巻81冊の百科事典、絵図入り)を全部筆写するなど筆写魔でもあった。
1883年、中学校卒業後上京し、共立学校を経て翌年に大学予備門に入学、植物採集などに明け暮れていたため学業が振るわず1886年中退。同年反対する親を説得しアメリカ留学に出発し、翌年ミシガン農業大学に入学するも更にその翌年に寄宿舎での飲酒禁止規則を破り退学。その後地衣類学者ウィリアム・カルキンスに直接師事して標本制作を学び、フロリダを中心に中南米まで足を伸ばし動植物の観察を行った。
1892年、それまでの研究データを持ってイギリスに渡り、翌年科学雑誌「ネイチャー」に初の論文「極東の星座」を寄稿。大英博物館に出入りして蔵書を読みふけり筆写しつつ論文を投稿する生活を送った。その後1895年に大英博物館の東洋図書目録編纂係として雇われるも、1898年に暴力事件を起こすなど度々問題を起こし、1900年に出入り禁止処分を受け、日本へ帰国。このイギリス滞在中に孫文と知り合い親交を深めるなどしている。
日本へ帰国後、寺に身を寄せるなどしたあと和歌山へ帰郷し父の興した酒造会社(現在の世界一統)を経営していた弟の世話になりつつ植物採集や論文の執筆などを続けた。1907年には神社合祀令(明治政府の国家神道的観点に基づいた神社を減らす法律)に自然保護的観点から反対した。これは日本最初の自然保護運動である。
その後柳田国男と交流を深め民俗学分野にもその研究範囲を広げ、1929年には紀南行幸中の昭和天皇に戦艦長門上で進講し、粘菌標本を献上した。
1941年死去。満74歳であった。なお1906年に結婚しており、妻との間に息子と娘が一人ずついたが、孫はいなかったため彼の直系の子孫は途絶えた。しかし、世界一統は弟の家系が現在も経営しており、南方熊楠生誕120周年を記念して「熊楠」というシリーズが三種ラインナップされ現在も製造されている。
彼の業績は残されたものを見る限り膨大で広範な分野にまたがっていたのは確かであるが、その一方で論文の発表数は少なく、彼の発見した新種はすべて別の研究者の手によって発表された。これらにより観察者・収集者としての評価は高いが、研究者としては業績は少ないとするのが現状である(科学研究では論文の出版発表をもって正式な業績とするため)。
なお彼は粘菌の属(種の一つ上の分類)を発見しており、それにはミナカテルラ・ロンギフィラ(標準和名:ミナカタホコリ)という彼に由来した学名が付いている。
逸話
十種の粘菌を発見し、属まで発見した南方熊楠は大学を二回中退、大英博物館出入り禁止などの輝かしい経歴でお分かりのように奇行でも有名で、それ以外にも数々の逸話が残っている。
- 汗っかきで薄着か裸で過ごすことが多く、褌一丁で山で採集などをしていたらしい。
- 自由自在にゲロを吐く特技があり、それを駆使してか喧嘩は負け知らずだったらしい。
- 野山を飛び回っていたから、また彼曰く鼻が高かったため「てんぎゃん」(天狗のこと)と呼ばれたという。この呼名は彼自身も気に入っていたらしい
- 筆者魔であることは述べたが、彼は他人の家で蔵書を見せてもらい家に帰ってから記憶を元に筆写を行っていた。また、大英博物館に通っていた頃の抜き書きは8言語で書かれていた。
- 中学校在学中、英語の文献と和漢の文献を参考に自作の「動物学」という教科書を作り上げた。
- ネイチャーには51の論文を投稿し、これはネイチャーへの日本人の最多掲載本数である。単独名の論文としては歴代投稿者全体で最多とも。もっとも当時のネイチャーは査読を行っていなかった点については留意するべきである。
- 熊楠の各論文の中にはいきなり隣人の悪口が入ったりエロ話をおっぱじめるものもあったそうである。
- 昭和天皇に粘菌標本を献上した際、キャラメルの箱に入れて献上したという。なお普通は桐箱などに入れて献上します。おつきの人曰く「変人だって聞いてたから想定内」(意訳)とのことでお咎め無し。戦前の話ですよ。おつきの人らはむしろ熊楠が天皇に暴言を吐いたりしないか心配だったが、彼も人並みの尊皇家だったので、とても丁寧な態度で天皇に接し、杞憂に終わった。熊楠も自分に気を配る天皇にいたく感激し、「やはり天皇陛下は違う」と語ったという。
- 昭和天皇が戦後白浜町に行幸された際の御製の「雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ」という歌は昭和天皇が民間人を詠んだ最初の歌である。
- サンスクリットを含む18もの言語を操ったと言われている。なお習得の極意は「対訳本を読み、酒場で繰り返し出てくる言葉を覚える」。サンスクリットは酒場で話されてないと思うんですが……。
- 定職につかなかったため生活は弟に頼りっぱなしであったが、遺産相続でもめたことをきっかけにその後生涯絶縁状態に陥った。一応著作での収入もあった。弟は熊楠危篤の報を聞き駆けつけるが臨終には間に合わなかった。
- 遺産相続でもめたのは研究所設立のための資金集めに奔走していたためであったが、この頃資金集めのために制作した履歴書は長さ7m70cm、5万5千字の長大なものであった。それを出資者に読ませる気ですか……。
- 二人の子供を溺愛していた。最後の言葉が精神病を患っていた息子を心配するものだったり、娘が女学生の時に知人から「娘さんも綺麗になられて」とおべっかを言われ何を勘違いしたか「お前なんかに娘はやらんぞ!!」とキレたりしていた。
- 酒豪で酒の上での失敗も多い。ある日、友人の柳田国男がその友人の松本烝治(終戦直後の松本憲法試案で有名)を連れて南方熊楠の家に遊びに来たが、緊張をほぐすために酒を飲んだ結果、泥酔してしまいまともに対応できなかったという。その後、酔った時に孫文からの手紙をだまし取られた事件をきっかけに断酒した。
- 猫大好き。生涯に猫を何匹も飼っていた。なお、名前はなぜか「チョボ六」で統一していた。
- 人脈は広く、孫文を筆頭に、民俗学者の柳田国男、推理作家の江戸川乱歩、紀州徳川家当主の徳川頼倫侯爵など、様々なコネクションを持っていた。
あんまり多いので詳しくはwikipedia他を各自参照してください。
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関連項目
外部リンク
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