宮川一夫単語

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映画監督とキャメラマン夫婦めおと)の関係にある」 

 

宮川一夫は日本映画界の黄金期に数々の映画監督を籠絡し、その虜にした映画界の和泉式部、撮監督である。66年のキャメラマン人生134本の映画を生み出し、43人の監督夫婦になった。うち一人は女性である。

本記事は多くの引用元を宮川自身の自著に基づいている。そして著書を尊重し、大百科読者に対応するために少々、腐向けになっていることをご容赦願いたい。

 

撮影所入りまで

1908年、京都に生まれた宮川は7人兄弟(女5人:男2人)の末っ子に生まれた。チビで引籠り、イジメられっ子な宮川をいつも守ってくれたのは、同じチビでもケンカにめっぽう強い後の映画監督マキだった。絵を描くことが好きだった宮川少年は、近所の屋で子供デザイン仕事を始める。流行りの子供を描こうと写生に励む宮川少年は、ある日ふと思いつく。

スケッチ描くより写真撮れば楽だよね?」

 末っ子の特権・おねだり攻勢でパパカメライーストマンコダックベス単・当時15円)を買ってもらって大喜び。仕事も頑った。ちなみに当時の大卒初任給が30~40円の時代である。ところが問題が発生する。現像代がバカ高かったのだ。その額一本5円。対してデザイン料は一枚2円50銭。赤字である。宮川少年はまた考えた。

「知り合いを頼って撮所で現像してもらおう」

宮川友人日活女優がいて、そのが撮所の現像部に勤めていたのだ。速、交渉の赴いた宮川少年に、女優は交換条件を出した。

「うちの野球チームに入れよ。そしたら現像代、タダにしてやるぜ!」

関東大震災直後。東京から多くの映画人が被災を逃れて京都にやってきた。折しも世の中野ブーム。撮所内でも部署ごとに野球チームが作られ人材が不足していたのだ。宮川少年はこの条件を飲み、そしてホイホイと撮所に入り、野球少年として活躍する内に、気が付けばいつの間にか撮所に入社させられてしまったのだった。

現像部から撮影部


1926年5月15日日活で撮生活を始めた宮川青年は、約3年を現像修行に明け暮れる。しかし現像の仕組みを学ぶことに喜びを見出していた宮川青年にとって3年はあっという間だった。そんなある日、宮川青年突然、撮部の試験を受けさせられ、合格。その日付で撮部に移動させられてしまう。実は野球の腕前にをつけた撮部が宮川青年スカウトするために一計を案じたのだ。撮部でやり直すことになった宮川青年だったが、この3年の修行が後に有名な残し』などの撮技法を生み出すことになる。

余談だが、この時撮部には、後の特撮神様円谷英二が撮監督として活躍していた。

 

初恋~山中貞夫~

経歴には宮川と最初の夫婦になったのは稲垣浩である。しかし宮川には夫婦になれなかった初恋の人がいた。

山中貞夫

「盤の一生」「丹下 万両の」「人情紙風船」を生み出した名監督である。山中宮川現像部の野球チームプレイしていたころから宮川を見ていた。山中見る専門の野球好き。撮所内の対抗戦も、熱心に見物していた。そんな山中の眼に活躍する宮川の姿が映る。山中は一人が嫌だった。常に一緒にの相手をしてくれる相手が欲しかった。山中宮川を選ぶ。

 

四条に飲みに行こうよ」

「ごめん、遅れそうなんだ」

「じゃあ待ったる。いっしょに帰ろう」

 

こんな具合に宮川が遅れる時は、運転手つきのを待たせて撮所の門で彼を待ったほどだ。しかし当時、山中的は宮川と飲むことではなかった。東京にいる本命に会うため、夜行に乗るまでの時間潰しの相手が宮川だったのだ。山中の本命、それは蒲田所にいた映画監督・小二郎である。宮川はこれらを知った上で山中と付き合った。そして、京都駅に向かう山中まで毎回、一緒に赴き、見送った。 宮川が撮部に移動して技師補佐まで出世したある日。山中東宝に移籍することになった。宮川山中を追いかけようと自分も移籍を決断する。

はどうしても山中さんの映画が撮りたい!」

しかし山中から反対される。

「おまえは日活京都の技師補や。一二年で技師になれる。そこで一二本撮れば東宝も認めてくれる。おまえが一人前になったらも考える。それまで待っておれ」

実績がなく肩書きだけの宮川東宝で潰したくない。山中の優しさ故のNOだった。宮川初恋は終わった。山中東宝傑作を幾つも生み出すが、1937年召集令状により中国に出征。そして病死した。

初恋は実らぬもの」

最初の御亭主~稲垣浩~

昭和十年に宮川は撮監督として一人立ちを果たす。そして何とか立とうとローラスケートを履いて移動撮をしたり、手持ち撮をしてみたり、ビール瓶や醤油疑似夜景作ってみたり。色々奇抜なことをやるようになる。そんな宮川を見初めた映画監督がいた。

稲垣

稲垣は盟友の伊丹万作(伊丹十三)と共に日活にやってきた移籍組だった。既に成功を収めた名監督に対して宮川新米同然。の上の存在に終始、緊してばかりだったという。しかし、稲垣宮川を可がった。稲垣フィルムを熟知し、宮川の奇抜さを理解できたのだ。宮川の意見やアイディアを積極的に作品に反映させた。宮川稲垣から、映画とは何か、フィルムとは何か、をじっくりと教わることができた。稲垣実写監督としてはしく絵コンテを用いてコマ数まで決めて映画を撮る人物だった。映画全体を絵コンテを通して容易に掴める。新人の宮川にとって稲垣は理想の監督だった。

稲垣監督と出会えて、本当に幸せです」 

しかし幸せに終わりが来る。昭和17年日活が大映に統合され、終戦から1年たった年に、稲垣の盟友・伊丹万作が死去。気落ちした稲垣伊丹の遺稿を監督すると、本妻宮川を残してふらりと東宝に移籍してしまった。 

 

禁忌を犯す~黒澤明~

稲垣に去られ、自身の凝り性から「うるさい」と会社に嫌われ、映画への情熱が冷めかけていた宮川の前に一人の男が現れる。

世界のクロサワ黒澤明

太陽を入れて撮って欲しい」

映画羅生門の撮でこう口説かれた時、宮川は困惑する。当時、太陽を撮るとフィルムが焼かれると噂され、タブー視されていたのだ。宮川は知恵を絞る。

このアイディアを出して黒澤を唸らせる。

100点だよ。キャメラ100点! 100点以上だ」 黒澤明・著『』より

幼少からデキが悪くて100点がずっと取れなかった宮川が生まれて初めてもらった100点。嬉しさは人一倍だった。そしてダイナミックに撮現場を駆け回り、役者と共に泥だらけになりながら苦楽を共にする黒澤の姿に、宮川の冷めていた情熱が再び燃え上がるのだった。宮川はその後、黒澤と「用心棒」「影武者」を生み出す。

 

再婚相手~溝口健二~

黒澤と禁忌を犯した翌年、宮川巨匠と一緒に仕事をすることになる。宮川と組むと知った巨匠は冷たく言い放つ。

「なに宮川一夫? そんな若造は知らん」

溝口健二 

完璧義者。役者泣かせ。子役時代の津川雅彦を「使えない子役」と切り捨て、美術から脚本へのそうとしていた新兼人をゆえに酷評して自殺未遂寸前にまで追い込んだ男。うるさい人との評判を聞いていた宮川仕事で結果を出そうと無我中で溝口と向き合う。

「絵面は情的なものと雰囲気、それとお芝居だけは的確に掴んで下さい」

溝口宮川に伝えたのはたったこれだけだった。宮川はこの言葉を頼りに溝口映画作りの理想を探った。そして、溝口が作品の雰囲気に浸って仕事をする人間だと突き止め、一つの結論を出す。

溝口がOKを出す時。それは現場・役者・撮の全てがシンクロして完璧な絵が生まれた時だ。こう確信した宮川カメラの位置をフリーにして、役者演技を常に最良の状態で撮ることに執心した。この熱意を溝口は受け入れた。物語の撮中、宮川溝口の自宅に御呼ばれされた。たくさんの絵巻物を見せて溝口は言った。

映画ってのはねぇ、宮川くん…絵巻物なんだよ。あと戻りして見るものじゃない。広げていって最後で見終わる。その絵の中にテーマみたいなものがあって、とにかくいらないものは、全部で隠してある。一つの絵だって、そこにが行けば、次から次へと流れていく。絶対戻すんじゃない」

これを聞いた宮川は、画面構図、色彩設計、間設計にこれまで以上に注意を払うようになる。自分の言葉を活かして発展させる宮川溝口は次第に心を許し、一緒に風呂に行く仲になる。そして…

宮川くん、凄い傷だろう…」

若い頃に色恋沙汰で女にられた背中の傷を見せる間柄にまでになるのだった。こうなると現場では二人の夫婦漫才を見ることができた。「新・平家物語宮川初のカラー作品で、宮川り切って撮に臨んだ。凝りに凝りを重ね、撮は中々進まない。製作部が、「いい加減宮川を説得してくれ」と溝口に懇願するが…

「私はいいんですよ。私はいいんですが、あのキチガイがうんと言わないんだよ」

自分のことは棚に上げて宮川濡れ衣を着せる溝口。しかし明らかに自分も困ったなぁの顔をする溝口。しかし決して宮川に催促しない溝口。もはや二人は相思相愛になっていた。ある時、宮川が別の作品を撮っていて手がかず、溝口の作品に関われないかもしれない事態が起こった。「か他の者は…」と提案した製作部長溝口はキレた。

「君ね、監督とキャメラマン夫婦みたいなもんです。私は宮川君とやる。君達は宮川君と私の仲を裂く気なんですか!」 

この言葉は冒頭で記した宮川の座右の銘となる。

こんな微笑ましい関係も、溝口白血病発症により終わりを迎える。「く撮所の諸君と楽しく仕事がしたい」との書き置きを自分の手帳に残して。

「やさしい人だった」

たった一度の浮気~小津安二郎~

館。宮川部屋の壁コンコン浮気相手がく。

「もう寝ましたか?」

「いえ、まだ起きてます」

「ちょっと来ませんか?」

終了後の土曜日常だった。大映の看板女優山本富士子が他社で仕事をすることになり、五社協定による等価交換松竹看板監督が大映で映画を作ることになったのだ。

二郎

初恋の人・山中貞夫東京で会った意中の人だった。小戦前からアグレッシブ映画を撮り続け、戦後になり「晩でようやく今日の良く知られる自身のスタイル完成させた所であった。社命でやってきた小は、大映での仕事が乗り気ではなかった。その拠に宮川と一緒に作った「浮は自身の戦前作品のリメイクである。自前を少し弄ってお茶を濁そうとしたのだ。しかしそんな小の心を宮川が射止める。初恋山中と同じく、晩酌の相手に宮川を選んだのだ。小は寂しがり屋。そして気配り屋。下戸の宮川のため、ちゃんと甘いお菓子を用意して待っていた。クリスチャンの小が酔える土曜の晩、小の相手を宮川は健気に務めた。しかし宮川も小の人柄に好感を持った。

毎日が楽しい。あんなに楽しい雰囲気を作れる監督を他に知りません。しかも思いやりがある」

酔うと宝塚コーラスライン真似バーで踊る陽気な小。酔うと童謡カラス」を館でワンコラスループで歌い続けるご機嫌な小。良い仕事ができると美味しそうにお酒を飲むのんべえ小。愉快な一面を見せる小宮川も惹かれ、ウィスキービール生卵という不摂生な小の食生活を見かね、滋養のある食事を作ってあげるなど、私生活でも女房役であった。おかげで撮終了後に小の体が健康体になって、松竹関係者が驚いたほどだ。そしてこの時、宮川は小から小の代名詞ともいえるローポジションを知ることができた。小ローに拘る理由。素に尋ねた答え。それは「好き」という二文字だった。熱燗温度計で測り美味さを調節するほどの理系だった宮川にとって、この言葉は衝撃だった。

ローポジションは小さん一人のものなんだ

「浮」の後、宮川を忘れられない小は何度も大映を訪れ、宮川仕事がしたいと持ちかけた。しかし五社協定の高いが二人を阻み、二人は二度と仕事をすることはかった。

「言ってみれば一回だけの浮気でしょうか」

宮川の半年だけの浮気だった。

 

エキセントリックな夫~市川崑~

「一番難しい監督でした」

宮川が一番苦労した夫。それが彼だった。

市川

具体的なことを言わない。抽的なものの言い方をする。独特の身振り手振りで打ち合わせをしようとする。その時はうるさいと思っても結果的に納得してしまう画面を作ってしまう。

「具体的にどうしろというんだよ…」

三島由紀夫原作炎上で初めて市川仕事をした宮川は、オロオロと戸惑いながら撮に臨んだ。エキセントリック市川の演出導に悩んでも、理解できない自分が混乱するだけである。宮川ワンカットごとに市川に確認をめることで仕事を順調に進めて事なきを得た。そして、以前に溝口健二から教わった絵巻物の発想を応用して、画面の調整に取り入れてみることにした。市川はこれを気に入った。次回作の谷崎潤一郎からは画面設計の一切を宮川に任せるようになった。こうして信頼関係を築いた二人は名夫婦ぶりを見せるようになる。市川と言えばトレードマークとも言えるほどのチェーンスモーカーだった。しかし現場では、時としてタバコが撮の邪魔をしてしまうことがある。

セットタバコを吸うとモヤるからダメです

宮川が注意すると市川は恐縮して自分の演出意図を短く的確に伝える。そして…

「外でゆっくり吸ってくるわ」

宮川が理想の画面を完成させるまで、セットの外でじっと持ち続けたという。

一番苦労した夫と一緒に生み出した原作付きの作品は、今日でも文芸作品として評価が高い。有名な残し』も、市川とのコンビで撮った作品おとうとで初めて使われたものである。後年、市川宮川が亡くなるまでの間、自分監督作品の台本を送り続けたという。

 

老いらくの恋~篠田正浩~

「なぜ私を選んだのか分からない」

松竹ヌーベルバーグの一人からオファーを貰った時、宮川は戸惑った。この時宮川63歳。時代劇は撮れても現代劇は撮れないと感じ始めていた。そんな時代遅れを自称する矢先のオファーだったからだ。原作遠藤周作の「沈黙」である。原作を読んでも自分に向いていると思えず、怖くなった宮川は自分を選んだ男に会いに行った。

篠田正浩

宮川にとって最後の夫となった映画監督である。宮川の問いかけに篠田は中々答えを言わない。対話を進める内に宮川は、小ローポジションの意味を尋ねた時と同じく率直に思いを伝えた。

篠田さん、を選んだのは、のもっとも古めかしいところが欲しいんですか?」

「そうです」

「分かりました。でよければやらせてください」

照れくさそうに答えた篠田の返答に全てを理解した宮川は、気持ちよく仕事に入ることができた。仕事を進める内に、宮川篠田が在りし日の溝口にどことなく演出が似ていることに気が付く。

  • 入念なロケーションハンティング
  • 芝居と雰囲気の重視

何より、宮川が惚れたのは篠田松竹時代に培われた優しさだった。スタッフ一人ひとりに対する細やかな気配りは論のこと、老体の宮川を気遣って助監督を一人、健康係として専任させたのだ。

「やさしさが沁みる人」

宮川が最後に撮監督として携わったのは篠田監督舞姫だった。「舞姫」の開から10年後の1999年、撮監督・宮川一夫は91歳でその生涯を終えた。自著の中で宮川は、若い世代に向けて以下の事を書き残している。以下は抜である。

映画にも歴史に残る作品というのがあります。共通しているのは、作った人が、その時代を懸命に生きて、”普遍的なもの”を追及していったことです。それらは概ね、若い感性で作られている。

最近の映像表現は、高度な技術がつぎつぎに開発されています。こうした新しい技術の進歩に適応していくを養うため、ぜひ基礎を確実に学んで欲しいと思います。

映像はこれから無限に広がっていきますよ。ありがとう。

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宮川一夫

1 ななしのよっしん
2012/07/08(日) 00:05:38 ID: giakdiWUGV
すごくいい記事なのに
なぜ腐向け要素入れたwwwwwwwwwwwwwwwwwww
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2 ななしのよっしん
2013/01/18(金) 08:41:47 ID: OTUMqbpWuZ
気合のはいいってる良い記事だ
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3 ななしのよっしん
2016/03/08(火) 15:10:34 ID: MIy5C3myxb
これ一歩間違えたらガチホモ記事と勘違いされるだろwwww
でもけっこう好き
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4 ななしのよっしん
2016/11/25(金) 03:08:38 ID: DptzvMcf2i
結構いい記事で
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