川中島の戦い単語

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川中島の戦いとは、戦国時代文22年(1553年)~永7年(1564年) に武田信玄上杉謙信の間で断続的に行われた戦いである。

概要

信濃国郡名入り地図

武田信玄上杉謙信の間に引き起こされた(なお名前ころころ変わるので、有名な武田信玄上杉謙信で統一する)、戦国時代中もっとも有名な合戦の一つ。両者の一騎打ち山本勘助による啄木鳥戦法とその失敗、といったエピソードが知られているが、これは永4年(1561年)に行われた第4次の戦いのみを取り上げたものにすぎない。

実際は室町時代を通して東を秩序立てていた、「鎌倉方―関東管領」体制が崩壊する中で、それぞれ固有の事情を抱えて北信濃でぶつかり合った5度に渡る長期戦だったのである。しかし、結果は両者ともに思惑通りにはいかず、武田上杉どちらも新しいフェーズに入っていく。

なお中島とは広義には、更級、埴科高井す。

ここまでのあらすじ

最初のきっかけ

室町時代武田氏の本拠地であった甲斐鎌倉府の統治領域であり、さらに言えば、後に上杉謙信を輩出する越後長尾氏が推戴した越後上杉氏の治める越後、今川氏の治める駿河、小笠原氏の治める信濃の三室町幕府の統治領域とはいえ、鎌倉府に近い存在であった。

その最初のほころびが上杉禅秀の乱であり、以降永享の乱結城合戦江ノ島合戦、享徳の乱長尾景春の乱、長享の乱永正の乱と、東では戦争状態が恒常化。そこを今川氏のもとに派遣されていた北条早雲こと伊勢宗瑞関東進出もあって、鎌倉方、関東管領上杉氏のどちらも勢を減退させたのである。

さらに当時は飢饉災害が相次ぎ、資の少ない領域を支配していた大名や国衆には軍事活動を行って資を確保する必要が生じた。それこそ地で開発が進んでおらず、内乱や関東情勢で今川氏や後北条氏の侵入の相次いだ甲斐武田氏、食糧危機の頻発した越後長尾氏の両者だったのだ。

上杉謙信の登場

越後は守護の越後上杉氏と、それを支える守護代の越後長尾氏が統治していた。もちろん越後上杉氏関東管領上杉氏の同族であり、東情勢が荒れるにつれ、本家に協してたびたび関東に出兵したのである。

ところが越後長尾氏長尾北陸一向一揆討伐中に亡くなると、後を継いだ長尾為景上杉と対立し、上杉定実を推戴して謀反上杉を永正4年(1507年)、さらに応援に駆け付けた山内上杉氏の上杉顕定をも永正7年(1510年)討ち取ったのである。こうして越後は事実長尾為景が支配する領域となった。

当然それに反発するものも多く出るが、長尾為景は徐々に反対勝利していく。やがて新たな上杉定実とも対立するが、事態を収拾させ、越中に侵攻。いったんとん挫したものの、守護・畠山尚順紀伊からの追放もあって握に成功する。こうして享元年(1528年)足利義晴から諸特権を認めさせ、越後支配の正当性を得る。

そして享天文の乱で自立しようとする上条らと戦う一方で、この頃上杉謙信が誕生する。長尾為景は苦戦し、朝廷から「御旗」や「治罰綸旨」を手に入れたものの効果はなかった。結局息子長尾晴景督を譲るということで文5年(1536年)和。ほとんど敗退に近いものであった。

しかし長尾晴景の代に上杉定実の後継者問題が浮上。羽で天文の乱が勃発する一方で、越後も混乱に陥る。こうして登場したのが、後の上杉謙信であり、一の対立の後、文17年(1548年)の和は隠居。こうして上杉謙信の下、越後は統一に向かう。

ところがその間信濃では武田信玄が蠢動していたのだった。

武田信玄の登場

甲斐武田氏は応永23年(1416年)上杉禅秀の乱上杉秀に味方して以来、内乱が相次いだ。というのも守護・武田信満は自害し、その子である武田信重、武田信長らが逃走し、守護がいったん空白になってしまったのだ。

鎌倉方・足利持氏甲斐源氏の逸見有直を代理の役に任じるが、幕府はこれに反発し、信満の山信武田信元として甲斐に送る。しかし信元はあっけなく亡くなり、武田信長息子武田伊豆千代丸を後継者として任じるが、幼い彼に事態は収拾できないと判断され、武田信重を応永30年(1423年)に守護にする。しかし信重は在を嫌がり、逸見氏は武田信長に掃討される。結果、足利持氏武田信長鎌倉に引き入れ、味方にし、武田信重に対抗しようとする。

かしこの結果、守護代・跡部氏の台頭を招き、武田信長は追い落とされてしまった。そして永享の乱の勃発でようやく武田信重が甲斐に入するも、武田信重、息子武田信守が相次いで亡くなり、1455年(康正元年)に孫の武田信昌が跡を継いだ。信は寛正6年(1465年)に跡部氏を打倒したものの、今度は嫡子・武田信縄ではなく、その信恵に督を譲ろうとして内を二分してしまう。

営は諏訪氏など周辺の国衆のみならず、足利茶々丸大森氏の生き残りである大森泰頼を抱え込み、伊勢宗瑞今川氏親の介入まで招いてしまう。かくして明応7年(1498年)の明応地震を口実に両者は和し、武田信縄が督を継ぐ。そのまま武田信昌武田信縄が相次いで亡くなると、永正4年(1507年)に登場したのが武田信虎である。

信虎の代は大井氏・今井氏といった周辺国衆や、今川氏親との戦いが相次ぎ、大永2年(1522年)にようやく今川勢の甲斐からの駆逐に成功する。さらに北条氏綱の台頭で荒れる関東に、山内・扇の両上杉氏の要請で進出。こうした後北条氏との一進一退の対立の中、文元年(1532年)にようやく甲斐を統一したのだ。

やがて文5年(1536年)に今川の死と倉の乱が勃発すると、武田信虎北条氏綱両名は今川義元を支持する。結果武田今川の方に同盟が成立し、北条氏綱がこれに対立するという構図に変化する。両上杉氏はすでに衰え、後北条氏との戦いはこの同盟が軸となるが、一方で文9年(1540年)には諏訪頼重がせ、文10年(1541年)には佐久大井氏と海野棟綱を攻め、諏訪頼重とともに佐久、小県を手中におさめ、信濃に進出。

ところが、帰婿今川義元に会いに行った際、息子である武田信玄クーデターが起き、武田信虎は追放される。これは大飢饉の後の代替わり徳政を狙ってこのタイミングで起きたともいわれている。

かくして武田氏はついに武田信玄の時代に移り、信濃への進出が本格化するのである。

武田信玄の信濃進出

諏訪郡への侵攻と諏訪氏の滅亡

武田信玄クーデターのさなか、諏訪氏は独断で山内上杉憲政の進出に対し講和を結んで領土分割を含めた協定を上杉氏との間に結んだ。これを受けて文11年(1542年)に武田信玄諏訪に侵攻。諏訪一族である高遠頼継、諏訪大社・下社もこの動きに同調した。

諏訪頼重長官守矢らがこれに対抗しようと軍勢を集め、布したが、武田の大軍に対し諏訪軍は崩壊。高遠頼継の攻勢もあって上諏訪混乱に陥った。桑原にこもった頼重であったが、ついに和。こうして諏訪は旧大祝諏訪頼高領を高遠頼継、旧惣領諏訪頼重領を武田信玄が治めることとなった。そして諏訪頼重に加え、宜太夫矢島満清の讒言で頼重の・大祝諏訪頼高の両名が自害に追い込まれたのである。

ここにみられるように諏訪氏は一族同士の内訌や、小笠原氏に対する長期遠征とそれに重なった災害による領内の不満があり、それを信玄に利用される形で諏訪頼重は滅亡に追い込まれたのであった。

そして、頼重の滅亡によって、今度は武田氏に協した高遠頼継が宜太夫矢島満清の協の下、諏訪氏惣領を狙い始めたのである。こうして武田・高遠両氏は開戦し、あっけなく武田方が高遠方を掃討した。

文15年(1546年)の諏訪の反乱もあり、諏訪氏には、諏訪頼重と信玄の間の息子千代宮丸ではなく、自分と頼重のとの間に生まれたのちの武田勝頼を後継者に据え、臣の板垣信方諏訪の統治者にした(なお諏訪大社は高遠頼継の反乱の際、自身に味方した守矢氏が長官や宜太夫を任じられた)。さらに上原が普請され、諏訪武田氏の治める地域となったのである。

佐久・小県郡への進出

次に武田氏が狙ったのは、小笠原政康が跡部氏を派遣して以来、長年対立と連携を繰り返した佐久・小県国衆たちである。

まず最初のターゲット武田諏訪両氏の混乱に乗じて行動に移った大井氏であった。前述のとおり諏訪頼重武田信虎との共闘や、山内上杉憲政との和で、長を中心にこの地域に進出していた。しかし諏訪一乱の結果、大井は長を占拠し、このことが武田信玄の攻撃の口実となったのである。

大井望月頼はあっけなく敗北、貞は生け捕りにされ、頼は一族が滅ぼされる中行方知れずとなった。こうして長佐久・小県進出の拠点としたのである。

かしこの後諏訪で再度の反乱が起きた。板垣信方はこの反乱を鎮圧したが、その背後にいたのは小笠原長時、藤沢、そして高遠頼継であった。文13年(1544年)に高遠頼継は諏訪行動を開始したが、翌年あっけなく降。頼継の政治生命はこれで断たれてしまった。ついで藤沢とそれを支援する小笠原長時が相手になるが、藤沢もあっけなく降し、上奈を制圧したことでようやく諏訪に安定した統治が行えるようになった。

武田信玄北条氏康今川義元の争いを収め、文14年(1545年)にが安定したと判断した結果、再度信濃に侵攻した。今度の相手は大井氏の庶流であった大井貞清であり、小笠原長時の協でこれを降させた。次いで佐久笠原清繁を攻めると、佐久国衆たちと関係が深い山内上杉憲政が、河越夜戦の傷も癒えないうちに進軍。武田信玄はこれに勝利し、笠原清繁のこもる志賀を陥落させたのであった。

そしていよいよ相手は北信の村上義清となった。ところがこれまで戦ってきた国衆とははるかに規模が違う村上氏相手に、文17年(1548年)上田原合戦で武田軍は敗北板垣信方甘利虎泰らが討たれるほど大打撃を受けたのであった。

この敗戦でこれまで武田氏に従ってきた信濃国衆は動揺し、村上義清大井貞清を仲介に山内上杉憲政と連携を取る。さらに村上義清武田方についていた小笠原長時、仁科外、藤沢らと接近し、諏訪に侵攻。諏訪でも反乱がおき、これまでの信濃遠征が泡に帰す危機に陥ったのである。

小笠原・村上氏との戦い

こうして小笠原長時・村上義清連合軍との戦いに入る。まず起きたのは文17年(1548年)のの戦いである。この戦いで侵攻していた小笠原軍を叩きのめし、以降小笠原氏による諏訪の侵攻はなくなったのであった。

そしてこの勝利をきっかけとして諏訪長坂虎房に任せ、佐久の再侵攻を行った。藤沢大井貞清はあっけなく降し、佐久諏訪筑摩に拠点となるを築く。さらに攻撃と真田幸綱による調略を繰り返し、佐久・小県はすぐに武田方に戻ったのであった。

村上義清との和失敗したものの、北方からの攻撃がくなったのを見届けると、次のターゲット小笠原長時を狙う。文18年(1549年)、小笠原長時は前年の敗戦の傷も癒えないまま攻められ、落。仁科外は武田方に寝返った。筑摩・安曇武田方の支配下にはいると、周辺の国衆は次々に武田方になびく。

そして文19年(1550年)、武田信玄はついに小県の戸石を狙う。この頃村上義清は北で高梨政頼と対しており、この隙を狙ったのである。ところが対は長期にわたり、村上義清高梨政頼との和が成立すると、村上軍は反転する。そして、かの有名な武田信玄の敗戦・戸石崩れが起きたのであった。

こうして南進する村上軍であったが、情報戦に敗れ撤収。小笠原長時が一人取り残される形となった。村上義清上田原合戦の頃と違い、武田方に傾いたパワーバランスを元に戻すことはできず、1551年(文20年)には真田幸綱が戸石の調略に成功した。

この結果村上義清小笠原長時と呼応して再度南進するも、文21年(1552年)には、武田信玄は小岩岳を占拠。中にいた小笠原長時は離脱し、文22年(1553年)には村上義清信濃から脱出して上杉謙信のもとに向かう。

そしてついに、12年にわたる、川中島の戦いが始まるのである。

川中島の戦い

第1次川中島の戦い

いったん自領から退いた村上義清であったが、埴科・小県を再度席巻し、旧領をほぼ回復することに成功する。だが、武田軍も反転し、村上義清を追い落とし、塩田を落させる。

ここでついに上杉謙信が侵攻。第1次川中島の戦いが起きるのである。上杉軍は虚蔵山を落とし、筑摩・安曇への侵攻も狙うが、撤退する際攻撃を受け敗戦。続いて塩田を狙うが、攻略できず、越後に引き上げた。こうして歴史的に名高い川中島の戦いは静かに始まったのであった。

武田軍の南信攻略と上杉氏の上洛

一方関東情勢は大きく変化していた。河越夜戦北条氏康勝利し、扇上杉氏は滅亡、山内上杉憲政上野に退くも、情勢は変わらずついに越後に逃亡。謙信のもとに入る。

さらに武田今川・後北条の間で甲駿相三同盟が締結される。こうしてそれぞれは後顧の憂いを気にすることなく、各地への侵攻を可にしたのである。

武田信玄は北信ではなく、まずは佐久・下への二正面作戦を展開した。下那は小笠原信定を追放、知久頼元を処刑し、反武田を一掃する。一方佐久武田義信率いる軍勢が小室大井高政と戦っていく。こちらももはや掃討戦にすぎず、小室大井高政はあっけなく降った。

そして残る信濃中島を除くと、木曽となった。木曽は川中島の戦いの傍ら、糧をふさがれ木曽義康・木曽義昌子は治元年(1555年)に降武田信玄木曽義昌ぎ、一族待遇となった。

一方この間上杉謙信は長年延ばしに延ばしていた上文22年(1553年)に決行。足利義輝には会えなかったものの、後奈良天皇との対面や、石山本願寺との関係善を行った。

第2次川中島の戦い

武田信玄文24年(1555年)に北条高広を調略するも、この反乱はあっけなく鎮圧されてしまう。しかし次第に北進し、善光寺に進出。信濃高梨氏、島津氏といった国衆危機に陥る。その結果上杉謙信は出武田信玄木曽攻略中だったものの、上杉謙信を足止めさせつつも急遽北進し、対する。

この間しびれを切らした上杉軍が渡河し、犠牲者を出したのが一の戦いで、がっぷり四つに組んだまま、武田軍は兵糧切れを、上杉軍は味方の連携の欠如を引き起こし、お互い長期対の不利を悟ったため、今川義元の仲介で和を行った。

村上義清の本領復帰はならなかったものの、武田軍は高井・埴科まで後退した。しかし武田信玄は和を守る気など毛頭なく、戦略の立て直しを図り、上杉謙信善光寺を越後に移転させるなど、対策を取り始めた。

第3次川中島の戦い

武田信玄は、落合氏等、内・高井国衆に対し調略を仕掛け、北進を始める。一方上杉方では上杉謙信の隠退騒動が起き、大熊秀の追放と引き換えに上杉謙信は政権復帰した。この騒動の間も北信には武田方の侵攻が進み、和の内容が危機にさらされたのである。

明けて、治3年(1557年)に武田信玄攻略し、善光寺を再度手中におさめつつあったものの、上杉謙信深雪のため動けなかった。島津氏は追放され、高梨政頼も籠を強いられる中、なかなか上杉謙信の出は実現しなかったのである。

しかしいったん上杉謙信の出がなると、北信濃の国衆は活発に動き始める。上杉謙信は会戦を望んだものの、武田軍は遠巻きにこれと距離を取りった。上野原で一合戦が起きたものの、上杉謙信は大きな成果をあげれず、帰した。

この戦いを終えて、一見武田軍のみが勢を拡大させたように見えるが、実は高梨政頼など北信の国衆たちは独立性を低下させ、上杉謙信の領に編入させる結果となったのである。一方武田は長年の軍事活動から、次第に領が疲弊しつつあったため、外征の傍ら、分法の整備などに着手していった。

上杉謙信の関東出兵

年間に入ると、日本各地で永の大飢饉が発生した。この結果大規模戦争が全各地で展開。関東出兵や第4次川中島の戦いといった軍事行動の直接のきっかけとなったのである。

第3次川中島の戦いの後、武田信玄は正式に信濃守護となった。これは足利義輝からの上杉謙信との和のための取引材料の一つであり、武田義信の三管領に次ぐ待遇の約束とともに、武田の威信を大きく高めたのである。

しかし武田信玄はあっけなく北進し、足利義輝激怒させた一方で、出した(最初に書いた通り、ややこしいのでずっと武田信玄で表記していたが)。

一方で上杉謙信も永2年(1559年)に上足利義輝近衛前嗣(後の近衛前久)と意気投合し、足利将軍と三管領にのみ認められた裏書御免、塗輿、関東管領職の認といった諸特権を得たのである。これらは真田幸綱すら上杉謙信に祝いの使者をたてるほど、信濃の国衆に動揺を与え、武田信玄の永3年(1560年)の攻勢を招くことになる。

上杉謙信越中神保長職を攻めた後、後北条氏に対抗するための関東への越山を初めて行った。上杉謙信にとっては関東管領の職務とは別に、上越紛争の解決の論見もあったようだ。しかし直接のきっかけは永3年(1560年)の北条氏康による里見氏攻撃であり、その他関東諸将の様々な論見を受けて、上杉謙信は出したのである(なおこの直前に桶狭間の戦い今川義元が討ち死にしている)。

これを受けて武田信玄は、越中から一向宗に攻めさせるために、北条氏康一向宗解禁を依頼し、成就させている。そして北進する武田信玄であったが、信越の境線を突破できず、ついに上杉謙信関東侵攻を阻止できなかった。

こうして上杉謙信小田原城を包囲するが、北条氏康の籠策に手も足も出なかった。これに対し武田信玄の援軍が向かう中(もう一つの同盟である今川氏真松平元康の三河握の対処で援軍を出せなかった)、上杉謙信鶴岡八幡宮関東管領と上杉氏継承のセレモニーを行う(最初に書いた通り、ややこしいのでずっと上杉謙信で表記していたが)。こうして小田原の包囲を解き、上杉謙信は撤兵した(小笠原長時は信濃の準備をしていたようだが…)。

上杉謙信足利氏を擁立し、後北条氏の擁立する足利義氏に対抗したものの、武田信玄から攻撃すべきだと判断したようである。一方この戦いで疲弊した北条氏康も、この後の何度もの上杉謙信の越山による領もあり、勢回復させるには武田信玄の協が必要と考えた。武田信玄もまた、後北条氏弱体化を防ぐために、共同作戦を展開させる必要を感じたようだ。

そして第4次川中島の戦いに

3年(1560年)に武田信玄従兄弟である勝沼信元が謀反を起こした。これを調略したのは当時当の不在を支えていた上杉方の藤田氏の藤田衆であった。勝沼氏は武田類衆の中でも突出して軍事の高い存在であり、武田信玄はこれを滅亡させると、上杉謙信の勢拡大を防ぐ方針を定めた。

武田信玄はようやく越後に進出し、割ヶ嶽を陥落させたことで、上杉謙信は厩から春日に帰還した。永4年(1561年)頃には、武田方のが築かれた。ここに置かれたのが香坂虎綱(高坂昌信)である。

上杉方は中島地方の領有を着々と進める武田方をもはや黙止できず、武田方は大勢になりつつある上杉方の調略を無視できず、双方ついに決戦を決意した。こうして両軍の突が起きたのである。

第4次川中島の戦い

4年(1561年)の第4次川中島の戦いに関する一次史料はわずか数点に過ぎない。そのため戦いの状況はほとんど軍記物語が描くものである。

上杉謙信名氏、大宝寺氏に援軍を頼み、長尾政景留守を任せた。そして中島に侵入し妻女山に布した。この布から直ちに知らされ、武田信玄は、今川氏真北条氏康に援軍を依頼しすぐに出。『甲越信戦録』以降臼山に布したとされるが、『甲陽軍鑑』によると千曲川沿いらしい。

この結果上杉軍は補給路を断たれ、士気が下がったが、武田軍も攻め手を欠いていた。武田軍は仕方なく、に入り、上杉軍の連携を一部回復させた。

そのうち一かが過ぎると飯富虎馬場信春らが先手を打つよう献策し、ここで登場するのが山本勘助啄木鳥戦法である。こうして妻女山攻撃組、八幡原布組に分かれたのであった。一方上杉謙信はこれを察知し、下山示した。武田軍はこれを察知できず、上杉軍の先制攻撃を成功させてしまったようだ。

こうして上杉軍と武田軍本隊は戦闘に入ったが、実は伯仲していたらしい。しかし次第に武田軍は崩れていき、の身代わりとして突撃した武田信繁が戦死。その後ろにいた両豊後守もく間に討たれる。

一方上杉謙信武田信玄に突撃し、旗本同士の攻防が仕掛けられた。この間山本勘助らが戦死し、状況の打開をした武田義信の突撃も逆に危機的状況をもたらしたとされる。そしてついに、武田信玄上杉謙信一騎打ちが起きたらしい。

その後、武田方の妻女山攻撃部隊上杉方の甘粕近江守隊を突き崩し、八幡原に突撃してきた。これによって状況は逆転し、上杉軍は撤退。武田軍は憤をらすように味方の首級を取り戻していったという。

局地戦としては武田軍の敗北であり、名だたる武将が討たれた武田軍に対し、上杉軍の死傷者は数のみで武将はほとんど討たれていなかった。武田信玄の発給した感状が確認できないのに対し、偽文書は多いのが、後に祖先表の拍付けに使われたと言われている。

川中島の戦いの終結

最後の戦いへ

武田信玄戦を行っている一方、北条氏康は反撃に転じ、勢回復させていった。足利氏、近衛前久上杉憲政らから救援の要請を受けた上杉謙信は、再度越山。武田軍は救援のため上野に侵攻する。上杉謙信関東への在を続けるが、足利氏と近衛前久の不仲が顕著となり、背後を狙う武田方に細心の注意を払う必要があった。

6年(1563年)ついに上杉謙信が引き上げると、北条氏康北条氏政子は足利義氏を擁立し、足利氏を閉した。さらに何度上杉謙信が越山しても、北条軍と協した武田信玄が西上野を次第に蚕食し、これまでの川中島の戦いで北信濃での勢を後退させた上杉方は劣勢に立たされたのである。

こうして武田信玄は飛騨・信越への出兵をもくろみ、上杉謙信はその阻止す。

飛騨は当時ほぼ上杉方の三木氏と、それに対抗する江氏らが争っており、武田信玄信濃での戦線を有利にすべく、中島への進出と並行して、山県昌景、甘利忠、馬場信春木曽義昌らに侵攻させたようだ。江馬輝盛を降させ三木嗣頼危機すると、上杉謙信越中河田長親に援軍を要請する。しかし、上杉謙信は事態の好転を図るために、中島への出兵を決意したのである。こうして飛騨攻略軍の孤立を憂いた武田信玄は、部隊を撤退させ、永7年(1564年)に最後の戦いが始まる。

第5次川中島の戦い

武田信玄蘆名盛氏と協して、上杉謙信を南北から攻めようとした。上杉軍が越後に撤兵すると、西上野に侵入。武蔵まで侵攻して上杉軍にゆさぶりをかけた。

そして武田信玄蘆名盛氏の出兵を依頼する一方で、上杉謙信の動きもかった。名軍を攻撃し、蘆名盛氏と和。信越に侵攻し、武田方に落ちていた野尻攻略する。こうして武田信玄戦略は破れたが、上杉謙信関東からの撤兵には成功している。

そして前述の経緯で中島への出兵を両者は論む。先に着したのは上杉軍で、その一か武田軍がに入った。しかしもはや関東上杉謙信は衰え、中島での戦いに戦略価値はかつてより下がっていたのである。こうして特に戦いも行われず、関東情勢の悪化を受けて上杉謙信は撤退。関東の諸将は情勢の打開のため信濃への攻勢を要請したものの、その記録は残されていない。

義信事件と武田信玄の方針転換

武田信玄は川中島の戦いを終えると、次の攻撃先に苦悩することとなる。というのもこのころすでに戦国大名が出そろい、国衆が多数いるの取り合いはあまり見られなくなったからである。武田信玄に取れる手は以下の3つであった。

  1. 同盟を破棄し凋落著しい今川氏を滅ぼす
  2. 同盟・織田・徳との同盟を維持し、引き続き上杉氏を攻撃する
  3. 西に進出し織田・徳氏と戦う

同盟の破棄に迷いがあり、遠山氏をめぐっての衝突以来せっかくまとまりかけた織田との同盟も捨てがたく、武田信玄はまず三河の侵攻を考えていたともいわれている。しかし織田の縁戚となった武田信玄に対し、今川氏真は疑心を抱き、結果、武田信玄駿河の攻略を選択したという。

そしてその過程で、義信事件が永8年(1565年)頃に引き起こされたらしい。嫡子武田義信が、飯富虎曽根周防長坂五郎らとクーデターを起こそうとしたというのである。これは武田信玄が進めていた武田織田の同盟を阻止しようとしたものともいわれているが、『甲陽軍鑑』が一の事件の典拠であり、詳細は不明である。

こうして今川武田義信が排除され、永10年(1567年)にする。そして翌永11年(1568年)に、武田信玄今川領侵攻が始まるのである。

川中島の戦いのその後

武田信玄長野業正後、これを受け継いだ長野業盛を永9年(1566年)に攻め、を落させた。この際初陣したのが武田勝頼である。同年には武田中から武田信玄に起請文が提出され、翌永10年(1567年)には危機感を抱いた今川氏真による武田への留めが起きている。

そして武田義信自害すると、今川氏真武田信玄侵攻に備えて上杉謙信と手を結ぼうとする。一方で上杉では本庄繁長の反乱が起きており、これに合わせて、武田信玄の越後出兵がもくろまれていたのである。

結局信越を突破できなかったものの、武田信玄は北信濃のほとんどを領化することに成功する。一方でこれは陽動であり、武田軍はついに今川に侵攻する。

本庄繁長が永12年(1569年)に降する一方で、今川は崩壊。北条氏康はこれに激怒し、上杉謙信との越相一和を結ぶ。こうして武田信玄に対する包囲網が築かれる一方で、川中島の戦いの間に織田信長の台頭を招き、新たなフェーズに入るのである。

要するに…

  1. 関東がたっぽいたっぽいな状況になったよ
  2. 謙信パッパ「下上だぜつぶせ」
  3. 信玄パッパが甲斐を統一。でも信玄に出てけされたよ!
  4. 信玄がとりあえず婿をぬっ殺したよ、もちろん領地は自分のもの
  5. そのまま北に進んで小笠原連合軍を粉砕!玉砕!大喝采!
  6. 村上義清死ぬがよい
  7. 信玄「なんか勝てた」謙信許さん
  8. 氏康「勝ったケロ謙信許さん
  9. とりあえずあいつら何とかしろ」謙信「わかった」
  10. 謙信関東に進軍したよ!氏康大ピンチ
  11. 氏康「たすけて」信玄「わかった」
  12. まさかの大会戦(詳細は風林火山最終回でも見てくれ)←これ
  13. 気づいたら謙信関東から追い出されたよ
  14. 信玄「中島抑えたけどもう用済みだな…つーわけでお前ら邪魔」義信&氏「は?」
  15. 氏康が謙信側についたと思ったら死によった!はい、死によった!
  16. 家康フルボッコにしたと思ったら、おおしんげん!しんでしまうとはなにごとだ!
  17. そして武田の当武田勝頼へ…To Be Continued

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川中島の戦い

1 ななしのよっしん
2019/08/11(日) 17:24:00 ID: qiE4rjIZ0t
記事立て、こうも長いと享徳の乱の記事にあるようなネタまとめが欲しくなる
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2 ななしのよっしん
2019/09/13(金) 02:35:46 ID: 6NWKNEj4OZ
なんでこんな流れが分かりやすい記事見逃してたんや…とか思ったけど立てられたの最近なのな
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3 ななしのよっしん
2019/09/25(水) 17:16:22 ID: QGn67XRpLD
欲を言えば、信濃の〜の位置関係がわかる地図が欲しかったり
(まあ、おそらく新たなお絵カキコが必要になるから、実現は難しかろうが)
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4 ななしのよっしん
2019/09/26(木) 19:23:21 ID: nr8Y4BYM63
地図なら任せろー
Wikipediaを基に作成
川中島の戦い当時と同じ保はありません
変等ご自由にどうぞ
信濃国の郡
タイトル:信濃国の郡
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5 ななしのよっしん
2019/09/26(木) 20:32:48 ID: QGn67XRpLD
>>4

仕事くてびっくりした、です!!

こういう用途の時、お絵カキコ文字ができないのは恨めしい…
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6 ななしのよっしん
2019/09/27(金) 09:09:40 ID: nr8Y4BYM63
文字できないならドットで打てばいいじゃない()
更級・埴科が小さいのはそれだけ重要な地域だった表れかな?

信濃国郡名入り地図
タイトル:信濃国郡名入り地図
この絵を基にしています!
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7 ななしのよっしん
2019/09/27(金) 12:40:51 ID: 9dRG+pMB0U
ひええ…!しゅ、しゅごい……
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8 ななしのよっしん
2019/09/27(金) 16:34:06 ID: QGn67XRpLD
>>6

ひょえー!本当に重ね重ねです…!
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9 ななしのよっしん
2019/09/27(金) 19:46:24 ID: nr8Y4BYM63
この記事にも出てくる木曽って西筑摩にあたるみたいね
Wikipediaによると木曽地域は当初は美濃国恵那だったのが中世に徐々に信濃筑摩と認識されるようになっていって武田信玄の支配で信濃に確定したらしい
要するに前近代行政区画は割と曖昧なんで上の地図は参考程度に
一応木曽とか下那とか分けておく?
あるいは地域はおよそで塗り分けるのもいいかもしれない
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