星野ジャパンとは、2008年に結成されたわしが育てた北京オリンピック野球日本代表である。
概要
2012年のロンドンオリンピックでは野球が競技から外されることが確定していた。それゆえ2008年に行われる北京オリンピックが将来的に復活の可能性はあるものの最後のオリンピックになる。その有終の美を飾るため、金メダルを獲得すべく結成されたのが星野ジャパンであった。
2007年に予選が行われ、日本はフィリピン、韓国、台湾と対戦し3戦全勝でオリンピックへの切符を獲得した。
そして時は2008年、北京オリンピックが開幕しメダルをかけた激闘が始まった。日本は苦戦しながらも4勝3敗で何とか予選を通過し、決勝リーグへとコマを進めた。
迎えた準決勝で韓国と対戦、初回に新井のゲッツー崩れの際に1点を先制、3回にも青木のタイムリーで1点を追加して試合を優位に進めた。だが、4回にGG佐藤のエラーをきっかけに1点を失い、さらに7回に藤川がつかまり2-2の同点に追い付かれてしまう。そして運命の8回、大会中2敗を喫し絶不調の岩瀬を投入、1アウトランナー1塁で迎えるは同じく絶不調の置物イ・スンヨプ。岩瀬の投じた内角球を完璧に捕らえられ痛恨の2ラン被弾、さらにGG佐藤の落球などもありこの回4失点。2-6で敗戦し、金メダルを逃すこととなった。
そしてキューバに敗れたアメリカ相手の3位決定戦。ここでも不可解な継投、采配がさく裂し4-8で敗北。金メダルはおろか銅メダルすら取れない4位となって終戦した。
原因
まず選手の選出に不可解な点が残る。シーズン絶好調であった楽天の岩隈や横浜の内川をなぜか選ばず、また極度の不振に苦しんでいる上原を選んだことなどには疑問の声が各所から上がった。
その一方で国際試合の経験が豊富で、上原と同じくシーズン中不振に苦しんでいたジャイアンツの小笠原を選ばなかった。大会期間中打率およそ4割と絶好調だっただけに、もし参加していたらメダルに手が届いていたかもしれない。
コーチ陣も親交の深い山本浩二、田淵幸一といった面子で星野の意見に反対できる人材がいなかったのも要因の一つではある。
準決勝や3位決定戦での敗因となった継投策では勝利の方程式に固執、明らかに調子を落としている岩瀬の起用によって結果として致命的な勝ち越し点を献上するにいたった。その一方で大会中に本来の力を取り戻していた上原をここぞという場面で起用せず、最終回のみ任せるという考え方によってさらに失点を増やすという面も見られた。
また、星野仙一の古い体育会系体質によって選手が委縮、あるいは反発し本来の実力を発揮できなかったとする見方も強い。事実チームの雰囲気は最悪だったとの選手の談話が複数のメディアで伝えられている。
影響
メダルすら取れなかったこの結果に対して、星野は一度は内定しかけていた第2回WBC代表監督の座を辞退する。 しかしその後の人選の難航などもあり、いったんは辞退した星野に再び監督要請する動きがあることが分かるとこれに反発、イチローの「本気で最強のチームをつくろうとしているとは思えない、WBCをリベンジの場にされたら足並みがそろわない」といった発言もあり改めて星野は辞退、結果として原辰徳が代表監督になった。
選手やペナントレースにも重大な影響を与えた。4番バッターだった新井は腰を疲労骨折していたことが判明、残りの試合の大半を棒に振ることになり、首位阪神の後半戦の攻撃力が明らかに低下した。一方前半戦を2位で折り返した巨人は上原の復活により先発の安定化、岩瀬を打ち砕いた勢いを持ち込んだイ・スンヨプの復調、参加しなかった小笠原が打撃絶好調で大会期間の打線をけん引したことによって8月後半から9月にかけて怒涛の快進撃を続けた。その結果巨人はメイク・レジェンドと言われた奇跡の大逆転優勝を成し遂げた。ある意味巨人がこのオリンピックによって一番得をしたかもしれない。
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関連項目
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