李忠成(り ただなり、1985年12月19日 - )とは、日本のサッカー選手である。
概要
身長182cm、左利き。ポジションはフォワードを務める。
横河電機SCジュニアユース、FC東京ユースを経て2004年にFC東京に入団、
2005年に柏レイソルに移籍して出場機会を得ると点取り屋としての才能を発揮する。
監督交代に伴い出場機会が激減したため、2009年8月にサンフレッチェ広島へ移籍。加入当初こそ途中出場が大半であったが、2010年シーズンからは2年連続でリーグ戦2桁得点を記録。佐藤寿人と並ぶストライカーとして活躍した。
2012年1月にフットボールリーグ・チャンピオンシップ(当時イングランド2部)のサウサンプトンFCに加入。2月のダービー・カウンティ戦で、後に年間最優秀ゴール賞に選ばれる移籍後初得点を決めるなど活躍を期待されたが、3月末に右足靭帯を損傷し戦線離脱。不本意な形でシーズンを終える事になったもののチームは見事昇格圏の2位でフィニッシュ。チームはプレミアリーグに昇格したが、ケガから回復した李はその後出番を掴めずに、2013年2月に古巣のFC東京に期限付き移籍という形で復帰。途中出場中心ながら公式戦19試合6得点とまずまずの結果を残すも、起用法で監督と一致せずに完全移籍の打診を固辞。4ヶ月後の6月にサウサンプトンに復帰した。
試合勘を取り戻しての復帰ではあったが、復帰後も李に出番は与えられず、プレミアリーグでの出場が無いまま契約解除となり、2014年はJリーグ・浦和レッドダイヤモンズへ完全移籍となった。
浦和には2018年シーズン終了まで在籍し、2019年は横浜F・マリノス、2020年からは京都サンガF.C.へと移籍している。
渾名は韓国語名からチュンソン(イ・チュンソン)。
ちなみに父親の李鉄泰(イ・チョルテ)も横浜トライスターSC(横浜フリューゲルスの前々身)に所属していた元サッカー選手である。
元々は在日韓国人4世として生まれた選手であり、U-19韓国代表候補の合宿に参加したこともあったが、
その際に本国の人間と実際に出会うことで、彼らと自分たちとの価値観の相違に直面する。
洪明甫五輪代表コーチも興味を示していたが、李は自分の立場について悩み抜いた末に「日本のために、日本人になる」ことを決意。
日本代表入りを目指して2006年に帰化を申請、2007年に晴れて日本国籍を取得し、
2008年に開催された北京五輪のサッカー日本代表メンバーに選ばれることになる。
この帰化に際しては、周囲からの猛反発もありつつ、元同胞から裏切り者の謗りを受ける事を覚悟の上に踏み切っている。
(母親には「親戚中から縁を切られても私たちはいいから自分の思うようにしなさい」と後押しを受けた)
またその一方で、上記のような経緯がありながら韓国を尊重する心も同じく持ち続ける一人の青年であり、
ブログや取材記事などでは日本・韓国2つの祖国を持つ人間としての想いを度々語っている。
2011年に開催されたAFCアジアカップ2011でザッケローニ監督にA代表として初召集されると、
オーストラリア代表との決勝戦で鮮やかなボレーシュートをゴールマウスに叩き込み、日本代表を優勝へ導いた。
(ちなみにこの左からのクロスに合わせるボレーは、小さい頃から祖母と練習していた得意の形というエピソードがある)
なお、この際もサンフレッチェ広島名物のゴールパフォーマンスを忘れないなど、この世代の選手らしい至って陽気な性格である。
談話
「大舞台で得点し世界に在日韓国人の可能性をアピールしたい」
(2008年北京五輪に際し、東京都立の高校の講演にて)
「自分が李で五輪に出て、結果を出せば、在日の人でこれからどうするか悩んでいる人たちの一つの見本みたいな感じにもなれると思った」
(2008年北京五輪に際し、帰化時に名字を李にした理由を聞かれて)
「僕は日本の文化と韓国の文化と、両方の文化で育ってきていて、日本の文化に感謝している部分がありますし、
どちらも祖国だと思って愛していますし、尊敬もしていますし、尊重もしているので、日本に恩返しができて本当に良かったと思います」
(2011年アジアカップ優勝後、インタビューに答えて)
「ゴールの場面は、ニアに動いたら、相手が食いついてきた。それを見て、ファーに動きなおした。
トラップしようかとも思ったけど、トラップしたらダメだと勘が働いた」
(2011年アジアカップ優勝後、決勝ゴールについて)
「(試合の後は)興奮して眠れなかったので、Youtube開いて自分の決勝ゴールを検索して見てました。
3時間くらい、100回以上再生してました(笑)」
(2011アジアカップ優勝の興奮をインタビューで答えて)
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関連項目
外部サイト
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