概要
ニコニコ動画における「立川談志」とは 主に当代(七代目)を指す。
酒と煙草を自重しないが故のダミ声、破天荒な人柄が有名だが、落語に対しては真摯であり、特に古典落語のアレンジの完成度は高く評価されている。落語以外ではよくバンダナをしており、威圧感を放っていた。
笑点の初代司会者で、大喜利の考案者。当時座布団運びだった毒蝮三太夫と喧嘩して帰らせたことも。
(その「毒蝮三太夫」の名付け親でもある。談志が単に「マムシ」と呼んでたのを、5代目円楽が「ただのマムシじゃない、毒蝮だよ」と言ったのを気に入って、つけた名前)
当時の落語協会のやり方に反発し、独自の流派「落語立川流」を興して家元になる。
上納金制度や一般枠を含むコース制など斬新なシステムを確立する。
芸能人枠のBコースにはビートたけしや 上岡龍太郎などの名前も。
石原慎太郎とは、石原本人曰く「奇妙な友人」関係を築いていた。会えば互いを罵倒しあったりしていたそうだが、談志自身は自分の息子の名付けるうえで慎太郎の名を貰っている。死後の定例記者会見(当時は知事)では本筋の話をする前に、自ら数分間談志との思い出話を切り出している。
談志亡き後の立川流は、総領弟子である土橋亭里う馬が新代表となる(上納金など一部制度を廃止)。
晩年
晩年は病でどんどん声が掠れていき、何を言っているかわからないと言われるほどに衰えてしまった。それも2011年3月に行われた手術によってほぼ完全に声を失うことになり、以降は筆談で会話するなど苦しい生活を強いられた。
手術後は一切仕事をすることはなく、公の場に姿を見せることもしなくなった。
石原慎太郎は定例記者会見やお別れの会において、談志が亡くなる数日前に電話越しに一方的な会話をしたことをしばしば口にしている。石原はいつものように憎まれ口(「お前そろそろくたばるらしいな、ざまぁみろ」)を叩き、談志はゼイゼイ言って返したという。それを聞いた石原は「あんたの人生に対する言い分が全部わかった気がする。人生で一番印象深い『会話』だった」とお別れの会の弔辞で述べている。
戒名は自分で考えた「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」。死ぬ間際まで自分流であった。毒蝮三太夫曰く「そんな名前にしたもんだからお寺がどこも引き取ってくれなかった」らしい。
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