「ただ今馳せ参じました。蜻蛉切と申します。
いつでも出陣の準備は出来ております」
蜻蛉切(刀剣乱舞)とは、ブラウザゲーム『刀剣乱舞』に登場する刀剣男士である。
CV:櫻井トオル / イラストレーター:源覚(ニトロプラス)
概要をおろそかにして、戦に勝てはしないからな。
……自分は村正作の槍、蜻蛉切と申します。三名槍のひとつとして評価をいただいております。
名の由来は、穂先に止まった蜻蛉が両断されたことであります(刀帳)
天下三名槍のひとつで、村正の一派である藤原正真作の槍。
笹穂の槍身で桶に美しい梵字と三鈷剣が描かれている。
名の由来は穂先に止まった蜻蛉が両断されたという逸話から。
大きななりだが、性格は素朴で誠実。千子村正[1]の唯一の理解者。
他の刀剣男士らと比較して大柄な男性の姿をしており、筋骨たくましい美丈夫。
戦装束は和装で、軽装の上衣と袴姿。デザインが同じ刀派の千子村正(刀剣乱舞)と共通している。
腕や手首に巻いた紐には青い珠がいくつか用いられており、蜻蛉玉ではないかと思われる。また左胸には梵字の彫物が刻まれており、それぞれカ(地蔵菩薩)キリーク(阿弥陀如来)サ(観音菩薩) と、本体に刻印されたものと同一。
内番衣装は上下ともに黒の着物+袴で、白い襷をかけている。ちなみに一周年記念イラストでは襷を外し羽織を纏った正装で茶を点てており、新たな一面が伺える。
性格はかつての主の人となりを反映してか、生真面目な武人肌。常に礼節に気を配り、戦支度や身辺の用心を欠かさない姿勢に定評がある。
主たる審神者に対しては穏やかかつ誠実な態度で、敬語を用いて接する。他の刀種と異なるアダルティな包容力に惚れ込んだ審神者も多い。
武人としての矜持は強く、隊長に据えて出陣すれば「門を開けい!いざ、出陣する!」と勇ましく、演練に行けば「訓練で気を抜けば、それが実戦でも癖として出るぞ」と呼びかける。
一方で、馬の世話や畑仕事などの内番を頼むと「馬を疎かにして、戦に勝てはしない」「三河では武士もよく畑仕事をしていたからな」と、非常に真面目に取り組む。
また台詞の中に「みな誤解していますが、村正は、悪い奴ではないのです」という台詞が存在しており、絢爛図録の説明文と合わせると、妙法村正の事を指しているようだ。第三刷では「妙法村正」の箇所は「村正」に変更された。
実装はいつになるのか……とか言っていたら2017年1月4日、千子村正(せんごむらまさ)の実装が発表され、審神者達のお屠蘇気分を吹き飛ばす事態となった。なお妙法村正は千子村正の作である為、名前こそ違うが間違いではない。後に「村正」の箇所は「千子村正」に変更された。
詳細は千子村正(刀剣乱舞)にて。
御手杵(刀剣乱舞)、日本号(刀剣乱舞)の三人で出陣すると回想が発生。名にし負う三名槍同士、気心の知れた一面が伺える。
また2017年1月31日に実装された千子村正(刀剣乱舞)とも回想が発生し、同じ刀派ながら「困った癖」のある村正には色々と肝を焼いている様子。村正のキャラクター像が公開されて以降、「唯一の理解者ってそういう意味だったのか」と納得する審神者も少なからずいる様子で、蜻蛉切の胃がちょっと心配である。
他の刀剣とは異なり、槍には「攻撃範囲:縦」という特徴があり、敵が高レベルだったり強力な刀装で身を固めていても、それを貫通して文字通りダメージを「突き通す」。そのため、他の刀剣ではなかなかダメージを与えられない相手でも、確実に敵にダメージを与える事が出来る。
特に、十分に鍛えれば検非違使はおろか、高難度のステージで出現するレアリティ5・HP10の通称「高速槍」すらも一撃で倒してくれるようになるので重宝するだろう。
ただし他の槍や薙刀にも言えることだが、レベルが低いうちはなかなか有効打を与えられず苦労する。しかし成長すれば強力なアタッカーと成り得る大器晩成型なので、根気強く鍛え上げよう。
御手杵よりは生存と衝力が高く、機動と偵察が低いという大太刀に近いステータスが特徴。一方で日本号は機動に特化されたタイプであり、それぞれに特色があるユニークな能力値になっている。
極実装
2019年7月30日、極が実装。奇しくもこの日は旧暦に直すと「姉川の戦い」と同日(1570年)である。
レア度の上昇に伴い刀装のスロット数が一つ追加された。Lv65で修行に出す事が可能。
また極の固有能力として、敵への攻撃回数が稀に3回になる能力が追加された。この能力が発現した際には特殊なエフェクトと演出が見られる。
修行先に選んだのは三河、前の主である本多忠勝の許だった。
そこで蜻蛉切は一兵卒に身をやつして忠勝の下で戦いながら、改めて「戦国最強」と謳われた忠勝の武働きを目の当たりにする。武勇だけではなく指揮能力にも長けた忠勝を前に、「主が自分に求めている強さはこれであると思うと誇らしくもあり、同時にその期待の重さに身が引き締まる思い」だと述懐する。
しかし忠勝は主君である徳川家康が天下を取った後、その影が薄くなっていったと蜻蛉切は手紙に綴る。戦乱の世を自らの手で終わらせ、それ故に自らを不遇な立場に置かれる事となった忠勝の姿に自身を重ね、歴史修正主義者との戦いが終われば自分もまた再び美術品に戻るのだろうと考える。だが蜻蛉切は、晩年の忠勝がなお主君への忠誠を保ち続けたように、「己の存在意義がなくなるその日のために」戦い続けると宣言。本丸へと帰還を果たした。
武装が増え、頭には鹿の角を備えた装飾が追加。また左手に巨大な数珠を巻きつけている。
これは本多忠勝が戦場で身に着けた「鹿角脇立之兜」と、戦場で散った命を敵味方問わず弔う為に身に帯びたと伝えられる数珠を踏まえていると思われる。
生真面目な性格は相変わらず。近侍に据えた状態でつんつんすると、審神者にちょっかいをかけられて「どうしてもみあげを引っ張るんですかっ!?」と狼狽える。かわいい
また村正については「あの奇行さえなければ」と零しており、相変わらず悩みの種である様子。
忠義に厚いのは極前と同じだが、万屋に連れて行くと「荷物持ちがいるからと言って、買い過ぎは禁物です」と窘めるなど、審神者との距離を詰めたことが伺える。
出陣に際しては「大手門を開けい!いざ、出陣する!」と宣言、ボスマスでも「一番槍、もらう!」と意気軒高。演練であろうとも手は抜かず「 本気でかかってこい。そうでなければ訓練にならん」と言い放ち、より苛烈さを増している。
アニメ『活撃 刀剣乱舞』
この項目は、ネタバレ成分を多く含んでいます。 ここから下は自己責任で突っ走ってください。 |
2017年7月から放送のアニメ「活撃 刀剣乱舞」では第一話終盤から登場。
時間遡行軍に数で押される和泉守兼定(刀剣乱舞)の許に降り立った審神者により召喚され、文字通り敵を蹴散らした。
以後は第二部隊に所属してその槍を振るう。その戦働きは凄まじく、第二部隊の中でもかなりの実力を誇っている。
主に戦国時代に出陣しており、近代化を目前とした幕末の風景は物珍しい様子。第二話では港に停泊する外国の貿易船を見に行き、目を輝かせて感心すると共に、織田信長の鉄甲船を想起し、時代の移り変わりに想いを馳せていた。
仲間に対しても「殿」と敬称をつけて礼儀正しく接する一方、自己紹介の時には人の身を得て初めて食べた大福が好物となった事をカミングアウト。第五話予告でも薬研藤四郎(刀剣乱舞)を相手に、江戸で流行の黒糖大福が気になっている事を打ち明ける、第三話終盤では束の間の休息を前に湯船を堪能したいと口にするなど、微笑ましい一面を見せた。
第四話・五話において強敵・大太刀と交戦。江戸城下が炎に包まれる中、壮絶な打ち合いとなる。
最終的に相討ちに近い形で大太刀を仕留めるが、柄は折れて本体にヒビが入り、瀕死の重傷に追い込まれてしまった。まさかの事態に騒然となる視聴者、中には大福をお供えして無事を祈願する者が続出したとかしなかったとか。
本丸に帰還後、審神者の手入を受けた後も昏睡状態が続いていたが、意識を取り戻して部隊員らと対面。こんのすけには布団に飛びついて泣きつかれ、おおいに無事を喜ばれた。なおコミカライズではその後御手杵と日本号の見舞いを受ける描写が追加されている。
その後再結成された第二部隊にて、存分にその槍を振るう。最終話では第一部隊と共闘、一度は不覚を取った大太刀と対決、見事撃破する事に成功した。
史実を報告いたします。
室町時代、村正の一派である三河文珠派の刀工・藤原正真(ふじわらのまさざね)作の大笹穂槍。
徳川家康に仕えた武将にして徳川四天王にも数えられる、本多忠勝の愛槍として知られる。
号の由来は、蜻蛉が飛んできて穂先に止まった時、真っ二つに切れたという逸話に因る。
元亀3年(1572年)10月、一言坂の戦い(三方ヶ原の戦いの前哨戦)において、武田信玄と対峙した家康が退却する折、殿軍を務めた忠勝は蜻蛉切を振るって奮戦。押し寄せる武田軍の猛追をしのぎ切り、撤退戦を成功させる。
この時の忠勝の活躍を
と称える狂歌が流行り、その武勇は多くの人々の称賛を得たという。
その後も長篠、小牧・長久手、関ヶ原と、後世に伝わる戦において蜻蛉切は主と共に在り、その武功を支え続けた。
その柄は長さ二丈(約6m)もあり、通常の長槍の1.3倍近くあった。これを忠勝は軽々と振るったが、関ヶ原の戦い以後は三尺(約90cm)ほど短くさせた。
家臣がその理由を問うと「槍は自分の力に合うものが良い」と言ったと伝えられる。なおこの柄は日本号と同じ青貝螺鈿細工だったらしいが、残念ながら現存していない。
ちなみに村正に関する俗説として
「家康の祖父・正室・嫡男の死の原因となり、家康本人も怪我をした」
「徳川家に祟りをもたらすとされ、村正は皆取り捨てるよう命じられた」
「これにあやかり、徳川と敵対する者はこぞって村正を求めた」
という妖刀伝説が存在するが、これは現在ではほぼ否定されている。
実際には徳川家の御腰物帳にも記載があることと、村正自体が三河で多く作られて「良い刀」として徳川家中で多く伝わった結果、たまたま凶器になる可能性が高まったと考えられている。
以後は本多家に伝わっていたが、第二次世界大戦後に同家を出て個人蔵となった。その後、佐野美術館(静岡県)に寄託される。
これとは別に、レプリカが徳川氏ゆかりの岡崎城(愛知県)内の施設に展示されている。その他にも写しが作成され、そのうちの一つは東京国立博物館が所蔵している。
2016年11月12日~2017年2月19日、佐野美術館にて「名刀は語る 磨きの文化」展に出展。
太鼓鐘貞宗も同時に展示され、これに伴ってゲームとのコラボが実現。立ち絵パネル、描き下ろしイラストが展示され、コラボグッズが販売された。
また初日と2日目には同施設にて小夜左文字・愛染国俊も特別公開され、盛況ぶりを見せた。
2017年1月21日~3月26日、島田市博物館(静岡県)において、御手杵のレプリカ・日本号の写し・蜻蛉切本体の展示が決定し、「島田の刀鍛冶と天下三名槍」と題した企画展が開催。
展示期間にばらつきがあり、会期中に三名槍が揃うのは2月25日~3月5日限定だった。
門を開けい!いざ、ニコニコにログインする!
関連項目が追加されたようですな。
脚注
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