日本初のオリンピアンであり、箱根駅伝創設に携わるなど日本の長距離界に大きな貢献を果たし、「マラソンの父」と称されている。
生涯
「いだてん」誕生まで
1891年(明治24年)8月20日、熊本県玉名郡春富村(現・和水町)にて8人きょうだいの7番目として生まれる。生後まもなくは父譲りの虚弱体質で心配されたもののすくすくと成長。小学校までの往復12kmにもなる道のりを同級生とともに走って登下校したことにより、マラソンへの体作りの礎を育てていく。
旧制玉名中学(現:熊本県立玉名高等学校)を経て海軍兵学校を志すものの、身体検査が通らずに不合格。「教師になってみたらどうか」という兄のすすめもあり合格した東京高等師範学校(現:筑波大学)に入学する。当時の東京高師は嘉納治五郎校長の下スポーツを通じた教育が薦められており日本の学生スポーツの頂点にある学校であった。徒歩部(陸上部)に入部した金栗は人一倍練習を重ね、校内においても誰にも負けない選手になっていった。
オリンピックへの挑戦
1911年(明治44年)11月19日、東京・羽田で行われたストックホルムオリンピック予選会。25マイル(40.225km)のレースに足袋を履いて参加した金栗はあいにくの荒天・泥まみれの中、従来の世界記録を27分も縮める2時間32分45秒で優勝を果たし、10000m・マラソンの代表として短距離で選ばれた三島弥彦とともに日本人初のオリンピック選手として遥かストックホルムへ赴くこととなった。
翌1912年(明治45年)5月16日、東京を出発。航空も発達していない当時スウェーデンまでの道のりはそう簡単でなく、鉄道で神戸、客船でウラジオストク、そこからシベリア鉄道という道のりを実に19日間もかけ、財政的支援も充分に得られなかった為に道中・到着後の環境も決して良いものではなかった。7月6日、開会式において金栗は嘉納の提案した「NIPPON」のプラカードを掲げて入場している。
マラソン専念のため10000mの出場を見送り7月14日、マラソン当日。白夜による睡眠不足と40℃という記録的な猛暑の中走り出した金栗は26.7kmで熱中症によって倒れてしまう。気がついたときには競技も終わった翌日、沿道の農家・ペトレ家で介抱を受けている最中であったという。この日のマラソンは猛暑もあり参加者の約半数が棄権してしまい、そのうちの一人、フランシスコ・ラザロ(ポルトガル)は意識の戻らないまま死亡してしまっている。故郷熊本の期待の声に応えられなかった金栗は、失意と4年後の再起を胸に帰国することとなる。
4年後のベルリンオリンピックに向け、卒業してそのまま教師になるという道を断り研究職として東京高師に残りマラソンに打ち込んだものの第一次世界大戦により大会は中止。嘉納との相談の結果、地理教師として指導する傍ら競技を行うこととなった。また1914年(大正3年)には地元・玉名の医師の娘である春野スヤと結婚している。
「マラソンの父」として
1917年(大正6年)4月27日から29日にかけて「日本初の駅伝」として行われた「東海道五十三次駅伝徒歩競走」。関西組と関東組に分かれ京都・三条大橋から東京・上野までの約508km・23区間を昼夜通しで行った競争を金栗は関東組のアンカーとして走り優勝に貢献した。
1919年(大正8年)、後輩の陸上選手である野口源三郎・沢田英一とともに「日本の長距離界を育てるためにどうすればいいか」について話し合い、出てきた結論が「アメリカ大陸横断駅伝」であった(この企画自体はあえなく頓挫)。その予選会として、山越え区間を含むコースでの駅伝大会が企画された。金栗らが尽力し半年足らずで翌1920年(大正9年)2月14日・15日開催にこぎつけた第1回大会の参加校はわずか4校。その中で金栗の母校である東京高師が最初の覇者となったこの大会こそ、現在まで続く約1世紀の歴史と学生スポーツ屈指の人気を誇る大会「東京箱根間往復大学駅伝競走」(箱根駅伝)である。
同年、8年ぶりに開催されたアントワープオリンピックに出場。一時は5位にまで順位を上げるものの脚の痛みに悩まされ2時間48分45秒4・16位という成績に終わる。1924年(大正13年)パリオリンピックにも出場したものの、既に33歳と全盛期は過ぎており、12年前を思わせる猛暑もあり32.3kmで途中棄権。これが金栗の選手生活最後の走りとなった。
この間1921年(大正10年)には東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)に赴任。「将来母となる女学生の心身を鍛えるべき」と女学生に対しテニスを厳しくも楽しく指導し女子スポーツの基礎を築いていった。
1931年(昭和6年)東京女子師範を辞職し玉名に帰郷。地元・熊本においてマラソンの普及に努めるようになる。また1936年(昭和11年)には4年後にアジアで初めて開催する東京オリンピックの準備に携わるため上京。開催準備に奔走するも1938年(昭和13年)、戦火拡大のために返上、大会は幻に終わってしまう。
1945年(昭和20年)再び帰郷。再び熊本のスポーツ振興に力を入れることとなる。1947年(昭和22年)には名を冠したマラソン大会「金栗賞朝日マラソン」を熊本市で開催。開催地を転々とした後福岡に固定されたこの大会は日本初の国際マラソン大会「福岡国際マラソン」として現在も続いている。
1955年(昭和30年)、これまでの功績が評価されスポーツ選手として初めての紫綬褒章を受章。
55年ぶりのゴールイン
改めて開催される東京オリンピックを目前に控えた1962年(昭和37年)、金栗の元をひとりのスウェーデン人新聞記者が訪れる。実は50年前のストックホルムオリンピックにおいて倒れた際、競技場に戻って棄権の意志を伝えないまま宿舎に戻った金栗は「消えた日本人」として同国内で話題となっていたのだ。この「消えた日本人」の謎を解明する為日本まで訪問した取材記事はスウェーデンの新聞やテレビで大きく取り上げられた。
5年後の1967年(昭和42年)3月21日、金栗はスウェーデンオリンピック委員会より招待を受け、ストックホルムオリンピック55周年記念行事へ出席する。競技場において10メートルほどゆっくり走った後用意されたゴールテープを笑顔で切った。このとき、場内にこのようなアナウンスが流れた。
「日本の金栗選手、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3。以上をもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」
この後のスピーチで金栗は「長い道のりでした。その間に妻をめとり、子ども6人と孫10人ができました」と語り、場内を沸かせた。またこの訪問時、金栗はお世話になったペトレ家も訪れている。大会後も文通での交流を続けていたが、半世紀ぶりの再会を果たすこととなった。
晩年も地元・玉名をはじめ各地のマラソン大会に赴きスターターや激励という形で選手を見守った。「人間、足が大切」として自宅から小学校までのおよそ800mの距離を毎日2回欠かさず往復していたという。
1983年(昭和58年)11月13日、故郷の玉名市において92歳の生涯を閉じた。墓所には金栗の遺した「体力、気力、努力」の文字が刻まれている。
その後
金栗の功績を称え、富士登山駅伝・箱根駅伝の両大会において「金栗四三杯」が設けられている。前者では一般の部の優勝チームに、後者では大会の最優秀チームに授与されることとなっている。また前述の「金栗賞朝日マラソン」や「金栗記念選抜陸上中長距離熊本大会」「金栗杯玉名ハーフマラソン大会」など金栗の名を冠した大会もある。熊本県民総合運動公園陸上競技場のかつての愛称「K.K.ウイング」は金栗および「九州」「熊本」の頭文字を由来としている。
出身校の玉名高等学校、九州新幹線の新玉名駅にはそれぞれ、金栗の銅像が建立されている。
2012年(平成24年)7月14日、ストックホルムオリンピック100周年の記念マラソン大会が当時とほぼ同じコースで行われ、金栗のひ孫に当たる蔵土義明さんがスウェーデンから招待されて出場。途中100年前に金栗が倒れた場所においてペトレ家のひ孫・タチアナさんによるおもてなしを経て無事完走を果たした。同日には金栗の功績を称える銘板が、ペトレ家のあった場所に設置されている。
2019年(平成31年)には大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」に主人公のひとりとして登場する。金栗を演じるのは歌舞伎役者の六代目中村勘九郎。
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