331 ななしのよっしん
2013/10/06(日) 21:35:49 ID: /FxLw5jzKB
>>326-330
ただまあ軍の突進が、の想定する以上の勢いだったのは確かでしょうね。
それについては、御摘の通り関羽討伐での指揮官が3名とも亡くなって、
人材面で弱体化ガードが甘くなった事が原因なように思えます。
が、の方も、特攻野郎黄忠の病死(彼は普通寿命かも知れないが)や
切り札張飛の横死を経た上で侵攻している訳で、結果的には双方ハンデし、
との見方もあります。その辺は如何でしょうか?
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332 ななしのよっしん
2013/10/06(日) 22:52:35 ID: +la1vZYpOj
>>331
状況としては初めから軍に不利な状況だったと思います。
張飛西太守として有事には荊州にも中にも動ける状態にありましたが、中には魏延を置いています。
これはが攻め込んでくる可性があったためですが、魏延のほかにも李厳呉懿関興陳到らは従軍していませんし趙雲は江州に留まり実質従軍していない状態です。
この時はまだ南方の異民族対策は十分でなかったでしょうし、劉備の入後の統治が安定していなかったのかもしれません。
また、劉備皇帝即位とほぼ同時期の出なので国家の体制を整えなければならないため、荊州に攻め入るタイミングとしてはよろしくないものだったのでしょう。
勝利するには勢いに乗って一気に攻め入るしかなく、その先鋒として軍を率いるようになってから負け知らずの張飛軍一万は適任でした。
その張飛が非業の死を遂げたことによりさらに軍の勝算は減ったと思います。
(続く)
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333 ななしのよっしん
2013/10/07(月) 00:07:50 ID: +la1vZYpOj
(>>332の続き)
一方の孫権軍は持久戦の持ち込み、大打撃を受けることなく軍を後退させ、勢いに任せて進軍するしかない軍の勢いを削ぐことを第一とすればいいのです。
これにより軍の後方に長大な補給線を構築させることができます。
防衛すべきは三峡外の拠点です。
三峡内には物資を現地調達できるような拠点は多くありませんし、夷や枝江といった拠点さえ守り抜けば三峡内の拠点を軍で長江を遡り急襲でき、軍の退路を断つことができます。
規模や方法は違います島津釣り野伏せのようなものです。
陸遜は孫桓が夷の救援をめた時点で「軍を破る計略がある」という発言をしており、持久戦を実行しているためこの様な考えは持っていたでしょう。
この時孫権軍の後方には江陵があるだけとあり、夷は孫桓が守備していたので、おそらく孫権軍本隊は枝江あたりにいたのだと思います。
仮に呂蒙蒋欽・孫皎らが生きていたとして彼らが陸遜の上に立つとした場合、陸遜は献策していたでしょうし、実際の戦いでも陸遜勝利に導いています。
(続く)
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334 ななしのよっしん
2013/10/07(月) 01:05:38 ID: +la1vZYpOj
(>>333の続き)
なので張飛がいない分軍がハンデを背負ったと思います。
もちろん張飛が従軍したとして、呂蒙らが生きていれば防衛戦はより計算できるものになったでしょうが、呂蒙らがいなくても大局は変わらなかったと思います。
孫権軍が呂蒙らを亡くしてハンデを背負ったのはの侵攻の時だと思います。
夷陵の戦いでは若干孫権軍の方が兵が多く、先に書いたように一転攻勢を仕掛けることのできる状況を意図的に作ることができました。
しかしの侵攻ではそのような状況を意図的に作ることはできません。
呂範孫策時代から政治軍事の両面で功績を残してきた重鎮ですがもともと建業の守備担当でしたし、他はこの防衛戦で名を上げたという印の強い面々です。
軍も各方面の大将格が曹仁以外曹休曹真夏侯尚といった次代を担う将だったり、対峙中に孫権が恐れている張遼が病死したりと万全の布ではありませんでした。
それでも軍は補給線の確保ができていますし、防衛戦とは言っても戦差は明らかです。
この様な状況で頼るべき呂蒙らのような存在がいなかったことは孫権軍にとって手痛いものだったと思います。
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335 ななしのよっしん
2013/10/09(水) 03:12:30 ID: /FxLw5jzKB
>>332-334
なるほど、戦国島津釣り野伏せ」の引き合いは、
ニュアンスとして非常に判りやすかったです。
つまり陸遜は劣勢にあっても、常にある一定の勝算を抱いていた訳ですね。
さて、夷陵での軍が軍よりも兵若干劣っていたのは知りませんでした。
確か軍は約5万で軍の方は実数不明なのですが、自分には先入観として
「攻め手の兵は基本的に相手よりかは多い」とうのがあって、
なんとなくの方が若干多い(5~6万?)と思い込んでおりました。
あと、そうですね、張飛健在のIFを想定するなら、当然呂蒙も生きていないと
ですし、もっとうなら、曹操の死期も延ばさないと不ですよね。
そこで、またもや代弁的な発言ではありますが、呂蒙による関羽討伐開始以前の
IFルートとして、当事者全員に一5年の余命を与えた上で、
劉備関羽の勢いに便乗した孫権が、「降」とう名の休戦協定を破って
曹操領に侵攻した場合の御想像をお伺いしたいです。
前提として、「今は休戦中だが、はいずれまたを攻める」と危機感と
劉備営の勢いを見た孫権が、史実と異なる判断を下したなら?とう形で。
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336 ななしのよっしん
2013/10/09(水) 18:56:50 ID: +la1vZYpOj
>>335
全なIFるならば中方面の劉備本隊、荊州方面の関羽本隊の行軍と連動して揚州から孫権軍が攻め込むことが前提になります。
そのためには各軍が情報を共有し、どのタイミングで攻め込むかを事前に決定しておき、各軍が他軍を信頼し全くその通りの行軍を行う必要があります。
私はこの時点でこの作戦は破綻すると思うのですがあえてうまくいくと仮定します。
また、孫権軍の関わらない戦いでの勝敗(夏侯淵の戦死・于禁軍壊滅・関羽徐晃敗北)は変化しないと仮定します。
関羽の侵攻により于禁の七軍が壊滅、中の攻防でも手痛い打撃を受けた曹操は長安を離れています。
これと並行して夏侯惇を呼び寄せ、張遼関羽に対するための援軍として送っています。
これにより曹操軍の孫権軍に対する圧減したと考えていいでしょう。
関羽軍は徐晃軍に敗れ樊の包囲を解除し、襄陽の攻略一本に絞ることになります。
上庸にいる劉封孟達はこの時点で全にこの地を握できておらず援軍として出はできないでしょう。
にいる曹仁張遼らの援軍により襄陽の救援に向かうことになります。
(続く)
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337 ななしのよっしん
2013/10/09(水) 19:23:21 ID: +la1vZYpOj
(>>336の続き)
徐晃に敗れ後退した関羽軍はこのままではさらに後退を余儀なくされます。
全てがうまくいくと仮定して、このタイミング劉備本隊が隴西方面及び長安方面へ出孫権軍が揚州から攻め込んでくるという報告が曹操軍に通達されます。
これにより関羽軍に対する圧は軽減できます。
ですが関羽軍は制圧後の防衛戦も含め良くて襄陽制圧が限界でしょう。
劉備軍は二つに分け一方は長安方面に、もう一方は隴西方面に軍を進めます。
西方面は馬超馬岱を旗頭にし、帰順をめながら拠点を作ります。
長安方面に侵攻する軍は扶を支配下に置ければ十分です。
西方面を支配下に置くことができれば後方支援拠点として利用し、扶の防衛を固めます。
長安を制圧できれば満点ですが、そこまで進軍できるかどうか、益州の統治の問題もあるといったこともあるので、いったん馬超馬岱らを置いておけばいいでしょう。
益州の統治がある程度安定すれば馬超馬岱と合流して再び侵攻すればいいでしょう。
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338 ななしのよっしん
2013/10/09(水) 20:14:50 ID: +la1vZYpOj
(>>337の続き)
一方孫権軍は長江を渡り陸戦で侵攻しなければなりません。
先に書いたように孫権軍に対する圧は軽減されているため、侵攻は較的容易でしょう。
しかし後方(長江北)を遮断された場合侵攻軍は孤立してしまいます。
そのため江夏以東の長江北全域を制圧する必要があります。
理想を言えば得意の軍による防衛戦を展開するためにの南を全て制圧できればいいのですが、
制圧標地域が広大なりすぎるので流石にそれは理でしょう。
また、侵攻がある程度成功したとして、防衛ラインは長大になり、長江での防衛と違い戦を分散しなくてはならないため、曹操軍が反攻に転じた場合獲得した地域を維持できるかは不透明です。
(続く)
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339 ななしのよっしん
2013/10/09(水) 20:18:10 ID: +la1vZYpOj
(>>338の続き)
劉備軍は制圧してしまえば防衛しやすい地に侵攻することになりますし、隴西方面に顔が利く馬超馬岱がいます。
関羽軍は後方に南があり、最悪侵攻が失敗しても劉備軍の補助となる働きができ、トータル劉備軍に有利に働けます。
しかし孫権軍は侵攻が失敗すれば損しかせず、劉備のための人柱になるようなものです。
また、この状況で曹操領に侵攻するならば、劉備のような大義名分もない孫権に反逆した逆賊となります。
これでは仮に曹操弱体化に成功しても、劉備孫権を攻める口実を作ることになり、勢として成り立たなくなる可性さえあります。
このような状況で王位すらない孫権族を従えるのは至難の業だと思います。
結局侵攻がうまくいこうがいかまいが孫権にはマイナスしかないと思います。
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340 ななしのよっしん
2013/10/17(木) 02:58:24 ID: /FxLw5jzKB
>>336-339
返答ありがとうございます
呂蒙率いる軍の北上IFは、先の利益や将来の利益以前に、
かなり上手くいったとしても孫権側には利がほとんど見受けられない事は、
自分も前々から感じておりました。
そして、おっしゃる通りの連携プレイは、
営である劉備関羽でさえ難しいのに、冷戦状態の劉備孫権では不可能
やはりこのIFは、劉備孫権の(諸葛政権時代よりも強固な)
同盟維持が必要不可欠でありましょう。
それに孫権の「天子への階段」構想を鑑みれば、
あの時点で再び曹操と戦うのはやはり得策ではありませんね。
それ以前に、の対に居座る夏侯惇26軍(推定兵8万~10万)は、
存在そのものが「数の暴力」的な抑止として、
孫権の頭上から蓋をしているようなものでしょうか。
夏侯惇が強かろうと弱かろうと、相手()に対戦する気を失わせる蓋。
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341 ななしのよっしん
2013/10/17(木) 22:57:42 ID: +la1vZYpOj
>>340
諸葛亮が北伐を行った時でさえ連携が取れていませんし、おっしゃる通りこの時以上の揮系統の統一が必要でしょう。
楽毅が率いたような連合軍を組織できれば別の話ですが、到底まとまらないでしょうね。

夏侯惇の26軍ですが、に対する蓋よりも曹操の負担軽減のための措置という意味合いが強いかもしれません。
劉備で例えるなら荊州方面を任された関羽のような存在だったと思うんです。
216年~217年にかけて曹操孫権を潰しにかかりましたがそれが成せず曹操自身は撤退、その後は劉備に対するため長安に滞在しています。
26軍はこの時揚州方面の総司令官として夏侯惇が預かったものです。
この26軍は新たに送り込まれた戦ではなく揚州方面(長江以北の揚州・徐州及びの一部?)にいる全軍を意味するのだと思います。
曹操孫権に圧をかけたいのではなく、劉備対策に集中したいから夏侯惇に揚州方面を統括させたのかもしれません。
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342 ななしのよっしん
2013/10/18(金) 02:06:14 ID: /FxLw5jzKB
>>341
西暦210年代中頃からの曹操は、少なくとも軍略においては、
それ以前とべていささかを欠いているとうか、
有体に申せば全盛期を過ぎているとの見方はあるかと思います。
しかしそれでも、やや落ちっぽかった晩年の彼以上に軍略が巧みな者は
三国志に存在しませんので、それを思えば、儒須口での曹操との直接対決
割と優勢に戦った孫権呂蒙は、大望は果たせなかったものの割と善戦した
北伐諸葛亮同様に、やはり者ではなかったと自分は考えます。
とりわけ孫権は、最近になってすっかり浸透してしまった出負けイメージ
(間違ってはいないが正確でもない)と熟年期からの暴君イメージのせいで、
残念ながら世間的には二流君扱い。
曹操劉備と並べてるに値しない、との見方が流になりつつありますね。
さて、夏侯惇の26軍ですが、自分は、先の儒須口戦にて曹操が動員した
の約半数を彼が引き継いだ、と思っておりました。
揚州戦線の統括者としては、かつてのソレに近い立場かも知れませんが、
この人の場合は各営業所(?)の調整役(マネージャー)に過ぎず、
一方の夏侯惇は本社の副社長格ですから、おっしゃる通りこの時のの体制は
劉備担当及び総責任者:曹操」「孫権担当の代理人:夏侯惇」でしょうね。
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343 ななしのよっしん
2013/10/18(金) 07:18:45 ID: +la1vZYpOj
>>342
孫権全盛期と言っていい時期の曹操劉備と互以上に渡り合いを建するに至った名君なんですけど、おっしゃる通り晩年が…
戦場でもの片側に矢を受けすぎてバランスが取れなくなったからを旋回させて反対側に矢を受けるようにしてバランスを取り戻させえるなんて離れ業もしてるんですが、
征の結果があまりにもひどすぎますね。

夏侯惇曹操が生涯を通じて最も信頼した人物でしたし、人望のある人物であったことも総司令官就任の一因だったと思います。
夏侯惇との一番の違いは曹操示を仰がずに軍を動かせるかどうかだと思います。
調整役と代理人と言う表現はドンピシャですね。
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344 ななしのよっしん
2013/10/25(金) 15:36:48 ID: /FxLw5jzKB
>>343
そうえば孫権営には、曹操にとっての夏侯惇や、
劉備にとっての関羽に準ずる存在がいませんね。
周瑜魯粛呂蒙は、企画立案と実行を兼任する役であり、
夏侯惇関羽の「代理人」とは少し違うような?
(のちの陸遜が少し近い気もしますが)
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345 ななしのよっしん
2013/10/26(土) 17:50:25 ID: +la1vZYpOj
>>344
それが呂事件や二宮の変の遠因なのかもしれませんね…
本来は土着の族でない朱然諸葛瑾がその役を担うべきだったのでしょうが、
土着の有族である陸遜の実質№2となってからは
皇帝である孫権と彼らとの格があまりにも違い過ぎたのかもしれません。
孫権と同等に長生きできていれば孫や孫皎もそういった存在になれたかもしれませんが、
流石にそれは贅沢過ぎますね。
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346 ななしのよっしん
2013/10/27(日) 01:42:48 ID: /FxLw5jzKB
>>345
周瑜魯粛呂蒙がせめて50代まで生きていたなら、
それぞれが役割分担し合って、この中から代理人が生まれたかも知れませんね。
これまた贅沢過ぎる話ですが、ポジション的には呂蒙が妥当でしょうか。
遠征軍総大将周瑜企画管理の魯粛、属領総督(防衛指揮官兼任)の呂蒙
周瑜の才気や魯粛の知略は孫権の理解を越えるでしょうから、
ツーカーの仲でノンキャリア組の呂蒙なら、あるいは?
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347 ななしのよっしん
2013/10/27(日) 21:58:24 ID: +la1vZYpOj
>>346
長生き前提なら個人的には孫皎も推したいですね。
荊州は呂蒙、揚州は孫皎に任せ、
孫権は双方に睨みを利かせることのできる武で総合的な判断を下し、
周瑜魯粛孫権の近くで戦略を練り、有事には双方に動ける体制が理想だと思います。
ただ周瑜魯粛孫策世代ですし孫権以降の世代が頭を現してこないといけませんが。
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348 ななしのよっしん
2013/10/31(木) 04:27:19 ID: /FxLw5jzKB
>>347
孫権営の有力一門衆は、やはり孫・孫皎・孫韶・孫桓でしょうか。
この中で較的長く活躍したのは孫韶のみで、他は短命。
しかも孫韶の場合は、本人には失礼ながら、孫権が大して期待していない中、
で勝手に大きくなってくれた「偶然の産物」ともえます。
孫権や群臣が熱く期待していたのは、他の3人だったでしょうね。
孫権と同世代の孫は、周瑜の大戦略キーパーソンだった孫随一の器量人。
(彼の稼働期間はたったの15年だが、宗室ではこれでも長い方?)
孫皎は、『蒼天航路』がきっかけで(?)近年に評価が進んだ次世代の逸材。
同じく次世代の孫桓は、劉備戦でその実の片鱗を見せつけた未完の大器。
ただしこの3者、いずれも消化不良なまま退場し、嗚呼もったいない。
それを思えば、曹操一門衆の人材的重厚さは反則的です。
夏侯惇席臣下/君代理の立場を担い、夏侯淵曹仁は当代屈の名将、
曹洪曹操の立身に最も物理的貢献をした重要人物で、次世代の曹休曹真
期待通りに大きくなりましたね。
もったいない消化不良は、曹純と夏侯尚ぐらいなものです。
へ?劉備営?
兄弟同然の関羽張飛がいるから、もうそれだけでいいじゃないですか(笑)
さてな話、孫皎は孫の発展的後継者ではありますが、
しかし結局のところ孫権は、呂蒙関羽討伐の指揮官に任命しました。
これは呂蒙の、孫権線での立場を考察する上で、結構重要だと思うのです。
期待以上のやり手で群臣の望も高いから、だけでは足りない何かを、
自分は当時の呂蒙に感じるのです。
彼が危篤に陥った際の孫権テンパり具合や、一時回復した際の悦び具合や、
闘病の末に果てた際の凹み具合を見れば尚更。
三国志で一番もったいない人材は、彼だったのかも知れませんね。
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349 ななしのよっしん
2013/11/01(金) 20:49:01 ID: +la1vZYpOj
>>348
呂蒙較的若い時期から戦場に立っているので年齢の割には実働年数が長めですが、それでもあと数年生きていれば情勢が変わっていたかもしれない人材だったと思います。
族出身でない優秀な指揮官である呂蒙孫権にとって切り札でした。
ただそれはあくまで軍人としての評価であり、統治者としては(優秀であったでしょうが)未知数な部分が大きいと思います。
また、孫権より4歳年上である呂蒙は41歳で死んでいるため当時としてはそこまで死にとは言えないのかもしれません。

一方孫皎はの孫同様名士との交流を深めていましたし、関羽討伐の際孫権呂蒙と同等の軍権を持たせるつもりでした。
また、孫権は孫皎に対する手紙で将来大きな役割(遠征軍総大将や州統治者?)を任せたいとしていたので、孫皎に対する期待も呂蒙同様に大きかったと思います。
さらに孫皎は孫権より年下で30代前半で死亡しているので長期的に見れば孫権にとって呂蒙以上の損失だったかもしれません。
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350 ななしのよっしん
2013/11/10(日) 03:37:42 ID: /FxLw5jzKB
>>349
こうして呂蒙世した人物の話をしていると、
は、人材の「質」こそに見劣りしないものの、
「層」とう点では通りの差がついていたように思えます。
では惜しい人物が亡くなっても、そのあと竹の子が如く人材が生えており、
そんな中での諸葛亮陸遜の奮闘振りは、ある意味痛々しい…。
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351 ななしのよっしん
2013/11/11(月) 01:27:07 ID: +la1vZYpOj
>>350
全盛期の中心人物は割と土着の人物が少ないんですよね。
中原の戦乱を避けて荊州や揚州へ移った人々が中核を担っているように思えます。
では張昭諸葛瑾歩隲・厳畯らは徐州出身の代表格ですし、周瑜魯粛呂範らは元々袁術下にありました。
呂蒙蒋欽周泰陳武らは孫策袁術配下時代に配下となっていますし長江以北の出身です。
中原が荒れていた時期は人材が南(揚州・荊州)へ流れていましたが、曹操が絶対的になるにつれて再び南方から人材が中原に集まってきたのかもしれません。
益州は人口こそそれなりにいましたが、中原から戦乱を避けて向かうには地過ぎたのか人材が流れてきている印はあまりありません。
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352 ななしのよっしん
2013/11/13(水) 03:24:01 ID: /FxLw5jzKB
>>351
益州に関しては御摘の地理的要因に加えて、劉焉鎖国っぽい政策を採った事
も関係しているのかも知れませんね。
さて、での土着人物でビッグネームと言えば、先ず陸遜顧雍
次いで朱桓と全琮でしょうか。
の四姓(陸・顧・朱・)」が幅を利かせていたと言われる割には、
その四の露出度が少々控えな気がします。
残りの張昭じゃなくって誰だったっけ…ああ温か、みたいな。
族の発言よりも強かったとされるなら、四姓がもっと要職に溢れて
いてもおかしくはなさそうですが、でもそこはまあ、確立と地元融和の狭間
生きる孫権サジ加減、妥協策だったのでしょう。
(晩年での一連のアレは、彼のベクトル権「強化」に向かった末の産物?)
(孫皎をバックアップしたのは、孫自体を四姓より強くする為だった?)
如何に実があったとは言え、呂蒙のような寒門出身者を導者に名した
のもまた孫権サジ加減なのでしょうね、並みな意見ですが。
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353 ななしのよっしん
2013/11/13(水) 13:29:30 ID: +la1vZYpOj
>>352
の四姓はの中の県出身の有族だったようです。
は孫が台頭する前からの有族でしたが、朱が台頭したのは孫権時代に朱桓温が活躍したからという印があります。
そもそも「の四姓」と評したのは陸遜の孫の陸機ですし、自分の出身の県を持ち上げたのかもしれません。
でも有数の族でしたが孫策の攻撃により壊滅的な打撃を受けました。
族の代表格である陸がこのような状態になったため孫に対する族の感情は良くなかったかもしれません。
その後孫策を制圧してからは朱治を統治し、その統治下ではの四姓をはじめ多くの族が出仕していたようです。
孫権は土着の族と孫との婚姻を行っていましたし、朱治の統治も含めかなり配慮していたのかもしれません。
後はの土着族急速に台頭しましたし、同時期に建に貢献した土着族以外の面々が次々と死んでしまっています。
これにより勢内の権バランスが急速に崩れていったのかもしれません。
の四姓が次々と失脚したのは孫権が権バランスを調整しようとした一面もあるかもしれないですね。
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354 ななしのよっしん
2013/11/27(水) 03:16:19 ID: /FxLw5jzKB
>>353
一括りに地元族と言っても、の場合は大きく二つの閥があるようで、
全琮・歩隲らは四姓に同調したり対立したりと、複雑ですね。
その四姓だって、挙党一致体制なのかどうかも判らず。
で、御摘通り、が正式な国家となってからは、
地元族達に対する第三勢ともえる外の出身者達が徐々に発言を失い、
かつてのではエース級の活躍が出来た呂蒙ら寒門出身者も、
この時期にはほとんど見受けられず。
これには、三立が完成し人材の流入が止まった事や、外人材で
優秀な二代があまり生まれなかった事も関係しているかも知れませんね。
あるいは、彼らが活躍出来る環境が、この時期のにはもうなかった?
宿将韓当息子綜の亡命なんかは、半分は本人の自業自得で、
もう半分はそうした環境に因るもの、でしょうか。
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355 ななしのよっしん
2013/11/27(水) 08:23:55 ID: /FxLw5jzKB
おっと、歩隲張昭と同じで、の地元出身者ではありませんでしたね、失礼。
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356 ななしのよっしん
2013/11/27(水) 17:57:47 ID: +la1vZYpOj
>>354
揚州という括りで考えれば族の筆頭は周瑜でしたが彼も他の一族は出世していませんね。
四姓の内の氏も温の失脚後は中枢からは退場していますし、全氏もへの亡命者が出たりしています。
孫堅の代から孫婚姻関係にあった族・氏も孫権の死の前後の内紛で失脚していますし、地元出身だからと言って常に発言を持ち続けることは難しかったでしょうね。
地元出身で孫に最も長期間貢献した一族は丹陽出身の朱治の一族でしょうか。
逆に州の薛綜とその子の薛珝・薛瑩や楼玄、程秉、胡綜
雍州の昭、州の濮陽の是儀
徐州の諸葛瑾諸葛恪諸葛靚ら諸葛一族や歩隲とその子の歩協・歩闡魯粛・魯淑子、張昭とその子承・
といった面々は地元族ではありませんが、建後も重要な地位に就いたりしています。
末期の内紛などで失脚している人物も多いですがそれは孫や地元族にも言えます。
後でもがあれば活躍の機会は十分にあったと思います。
外の人物の活躍が減ったのは相対的に地元出身者の割合が増えたことが原因ではないでしょうか。
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357 ななしのよっしん
2014/01/12(日) 02:47:08 ID: /FxLw5jzKB
>>356
沙汰しております。
話題呂蒙その人からどんどんズレてしまった為、暫らくの間
こちらでの書き込みを自重しておりました。
(別のスレッドで会話を続けているのかも知れませんが…笑)
話の続きですが、御摘の「相対的に地元出身者の割合が増えたことが原因」
は、自分が思う「人材流入が止まった事」と同じ方向性なのかも知れませんね。
それに関連して、自分の発言でもある「優秀な二代があまり生まれなかった」
事は、実は一部の人達が唱える孫権バッシングネタでもあります。
即ち、孫権が功臣二代を冷遇圧迫し自ら次代の芽を摘んだ、と。
周瑜が代表的によく挙げられる)
だから、そんな偏狭な孫権曹操劉備と並べてるに値せず、と。
(確かに孫権は暴虐な側面があった)
この辺の一部意見に関しては、どうお考えでしょうか?
自分としては、本当に孫権が偏狭なら、呂蒙覚醒もあり得ないと思うのです。
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358 ななしのよっしん
2014/01/13(月) 00:32:46 ID: +la1vZYpOj
>>357
私も孫権が偏狭だとは思えません。
功臣の子が同様に有能とは限りませんし、失脚していった功臣の一族は少なからず自業自得の部分があるように思えます。
周瑜の一族も将軍職に就いている人物もいますが、素行不良で失脚したり名誉回復直前で病死したりと孫権にのみ非があるようには思えません。
私は逆に孫権柄に関わらず抜できる器量を持った人物だと思います。
そして自分が抜した人物を信頼して重用できたからこそ魯粛呂蒙周泰蒋欽といった面々が活躍できたのだと思います。
ただそれがとなったのが呂事件で、呂のことを有能な監役として信頼しすぎたことが重臣たちからの信頼を失う結果になってしまったのでしょう。
これについては呂事件が深刻化する直前に30年以上孫権を支えてきた張昭が亡くなったことも遠因かもしれません。
張昭と共に若き日の孫権を支えてきた周瑜の死後魯粛呂蒙が台頭したように、張昭の死後重臣であろうと処罰する呂の姿に孫権は期待してしまったのかもしれません。
(続く)
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359 ななしのよっしん
2014/01/13(月) 01:31:04 ID: +la1vZYpOj
(>>358の続き)
少なくとも皇帝即位までの孫権は配下との信頼関係が構築できており、意味に処罰を下すような人物ではなかったと思います。
に至るまでは純に孫やその勢地域のために仕える人材が多かったのでしょうが、徐々に利己的な人材が増えていき政争が起こるようになり、孫権が成功してきたやり方が通用しなくなったのかもしれません。
孫堅の死後のどん底状態の孫を知っていたであろう朱然からも呂事件後は無視されていますから、この時の孫権ショックは計り知れないものだったでしょう。
半世紀近く築いてきた信頼関係が不確かなものになってしまった上に、同時期に孫登や諸葛瑾が亡くなったことが追い打ちをかけ、泥沼の二宮の変に入っていきますがこれ以上は脱線しすぎですかね…
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360 ななしのよっしん
2014/01/14(火) 01:58:15 ID: /FxLw5jzKB
>>358-359
孫権皇帝即位辺りから、孫呉の(良くも悪くも)自由闊達な土が
徐々にを潜め何やら妙な閉塞感が漂い始めた事には、
色々な要素が複雑に入り組んでいるように自分には思えます。
先ず、孫権自身の劣化。これは否定しません。
全盛期の彼は、時には曹操劉備を手玉に取るほどの冴えを見せましたが、
長期政権を維持し皇帝となって慢心したのか単純に加齢によるものなのか、
元々危うかった側面がここで膨した感はあります。
ただし、そうした危うさ曹操劉備も充分持っており、
(だから彼らは、行動手さも相まって、後世の々を魅了してやまない)
そして彼らは孫権と違って、皇帝としての治世がい、もしくはいに等しい
事にも留意すべきでしょうね。
次に…いや、既に御摘の話と被るし、脱線するからやめときます(笑)
個人的に孫権は、ダ○エー創業者某氏の全盛期直前から最晩年までのイメージ
薬局から主婦の店時代までが初代孫堅の役で、会社を総合スーパーマーケット
として確立させたのが二代孫策の役、そこから先が孫権の役、みたいな感じ。
とにかく、自由闊達だった時代の孫呉で一番面味のある人物は、
やはり呂蒙でしょう。
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