呂蒙
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331
ななしのよっしん
2013/10/06(日) 21:35:49 ID: /FxLw5jzKB
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332
ななしのよっしん
2013/10/06(日) 22:52:35 ID: +la1vZYpOj
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>>331
状況としては初めから蜀軍に不利な状況だったと思います。
張飛は巴西太守として有事には荊州にも漢中にも動ける状態にありましたが、漢中には魏延を置いています。
これは魏が攻め込んでくる可能性があったためですが、魏延のほかにも李厳・呉懿・関興・陳到らは従軍していませんし趙雲は江州に留まり実質従軍していない状態です。
この時はまだ蜀の南方の異民族対策は十分でなかったでしょうし、劉備の入蜀後の統治が安定していなかったのかもしれません。
また、劉備の皇帝即位とほぼ同時期の出陣なので国家の体制を整えなければならないため、荊州に攻め入るタイミングとしてはよろしくないものだったのでしょう。
勝利するには勢いに乗って一気に攻め入るしかなく、その先鋒として軍を率いるようになってから負け知らずの張飛軍一万は適任でした。
その張飛が非業の死を遂げたことによりさらに蜀軍の勝算は減ったと思います。
(続く) -
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333
ななしのよっしん
2013/10/07(月) 00:07:50 ID: +la1vZYpOj
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(>>332の続き)
一方の孫権軍は持久戦の持ち込み、大打撃を受けることなく軍を後退させ、勢いに任せて進軍するしかない蜀軍の勢いを削ぐことを第一とすればいいのです。
これにより蜀軍の後方に長大な補給線を構築させることができます。
防衛すべきは三峡外の拠点です。
三峡内には物資を現地調達できるような拠点は多くありませんし、夷道や枝江といった拠点さえ守り抜けば三峡内の拠点を水軍で長江を遡り急襲でき、蜀軍の退路を断つことができます。
規模や方法は違いますが島津の釣り野伏せのようなものです。
陸遜は孫桓が夷道の救援を求めた時点で「蜀軍を破る計略がある」という発言をしており、持久戦を実行しているためこの様な考えは持っていたでしょう。
この時孫権軍の後方には江陵があるだけとあり、夷道は孫桓が守備していたので、おそらく孫権軍本隊は枝江あたりにいたのだと思います。
仮に呂蒙・蒋欽・孫皎らが生きていたとして彼らが陸遜の上に立つとした場合、陸遜は献策していたでしょうし、実際の戦いでも陸遜は勝利に導いています。
(続く) -
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334
ななしのよっしん
2013/10/07(月) 01:05:38 ID: +la1vZYpOj
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(>>333の続き)
なので張飛がいない分蜀軍がハンデを背負ったと思います。
もちろん張飛が従軍したとして、呂蒙らが生きていれば防衛戦はより計算できるものになったでしょうが、呂蒙らがいなくても大局は変わらなかったと思います。
孫権軍が呂蒙らを亡くしてハンデを背負ったのは魏の侵攻の時だと思います。
夷陵の戦いでは若干孫権軍の方が兵力が多く、先に書いたように一転攻勢を仕掛けることのできる状況を意図的に作ることができました。
しかし魏の侵攻ではそのような状況を意図的に作ることはできません。
呂範は孫策時代から政治軍事の両面で功績を残してきた重鎮ですがもともと建業の守備担当でしたし、他はこの防衛戦で名を上げたという印象の強い面々です。
魏軍も各方面の大将格が曹仁以外曹休・曹真・夏侯尚といった次代を担う将だったり、対峙中に孫権が恐れている張遼が病死したりと万全の布陣ではありませんでした。
それでも魏軍は補給線の確保ができていますし、防衛戦とは言っても戦力差は明らかです。
この様な状況で頼るべき呂蒙らのような存在がいなかったことは孫権軍にとって手痛いものだったと思います。 -
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335
ななしのよっしん
2013/10/09(水) 03:12:30 ID: /FxLw5jzKB
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>>332-334
なるほど、戦国島津「釣り野伏せ」の引き合いは、
ニュアンスとして非常に判りやすかったです。
つまり陸遜は劣勢にあっても、常にある一定の勝算を抱いていた訳ですね。
さて、夷陵での蜀軍が呉軍よりも兵力で若干劣っていたのは知りませんでした。
確か呉軍は約5万で蜀軍の方は実数不明なのですが、自分には先入観として
「攻め手の兵力は基本的に相手よりかは多い」と云うのがあって、
なんとなく蜀の方が若干多い(5~6万?)と思い込んでおりました。
あと、そうですね、張飛健在のIFを想定するなら、当然呂蒙も生きていないと
不公平ですし、もっと云うなら、曹操の死期も延ばさないと不公平ですよね。
そこで、またもや代弁的な発言ではありますが、呂蒙による関羽討伐開始以前の
IFルートとして、当事者全員に一律5年の余命を与えた上で、
劉備や関羽の勢いに便乗した孫権が、「降伏」と云う名の休戦協定を破って
曹操領に侵攻した場合の御想像をお伺いしたいです。
前提として、「今は休戦中だが、魏はいずれまた呉を攻める」と云う危機感と
劉備陣営の勢いを見た孫権が、史実と異なる判断を下したなら?と云う形で。 -
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336
ななしのよっしん
2013/10/09(水) 18:56:50 ID: +la1vZYpOj
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>>335
完全なIFで語るならば漢中方面の劉備本隊、荊州方面の関羽本隊の行軍と連動して揚州から孫権軍が攻め込むことが前提になります。
そのためには各軍が情報を共有し、どのタイミングで攻め込むかを事前に決定しておき、各軍が他軍を信頼し全くその通りの行軍を行う必要があります。
私はこの時点でこの作戦は破綻すると思うのですがあえてうまくいくと仮定します。
また、孫権軍の関わらない戦いでの勝敗(夏侯淵の戦死・于禁軍壊滅・関羽が徐晃に敗北)は変化しないと仮定します。
関羽の侵攻により于禁の七軍が壊滅、漢中の攻防でも手痛い打撃を受けた曹操は長安を離れています。
これと並行して夏侯惇を呼び寄せ、張遼を関羽に対するための援軍として送っています。
これにより曹操軍の孫権軍に対する圧力は激減したと考えていいでしょう。
関羽軍は徐晃軍に敗れ樊城の包囲を解除し、襄陽の攻略一本に絞ることになります。
上庸にいる劉封・孟達はこの時点で完全にこの地を掌握できておらず援軍として出陣はできないでしょう。
樊城にいる曹仁は張遼らの援軍により襄陽の救援に向かうことになります。
(続く) -
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337
ななしのよっしん
2013/10/09(水) 19:23:21 ID: +la1vZYpOj
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(>>336の続き)
徐晃に敗れ後退した関羽軍はこのままではさらに後退を余儀なくされます。
全てがうまくいくと仮定して、このタイミングで劉備本隊が隴西方面及び長安方面へ出陣、孫権軍が揚州から攻め込んでくるという報告が曹操軍に通達されます。
これにより関羽軍に対する圧力は軽減できます。
ですが関羽軍は制圧後の防衛戦も含め良くて襄陽制圧が限界でしょう。
劉備軍は二つに分け一方は長安方面に、もう一方は隴西方面に軍を進めます。
隴西方面は馬超・馬岱を旗頭にし、帰順を求めながら拠点を作ります。
長安方面に侵攻する軍は扶風郡を支配下に置ければ十分です。
隴西方面を支配下に置くことができれば後方支援拠点として利用し、扶風郡の防衛を固めます。
長安を制圧できれば満点ですが、そこまで進軍できるかどうか、益州の統治の問題もあるといったこともあるので、いったん馬超・馬岱らを置いておけばいいでしょう。
益州の統治がある程度安定すれば馬超・馬岱と合流して再び侵攻すればいいでしょう。 -
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338
ななしのよっしん
2013/10/09(水) 20:14:50 ID: +la1vZYpOj
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(>>337の続き)
一方孫権軍は長江を渡り陸戦で侵攻しなければなりません。
先に書いたように孫権軍に対する圧力は軽減されているため、侵攻は比較的容易でしょう。
しかし後方(長江北岸)を遮断された場合侵攻軍は孤立してしまいます。
そのため江夏以東の長江北岸全域を制圧する必要があります。
理想を言えば得意の水軍による防衛戦を展開するために淮水の南岸を全て制圧できればいいのですが、
制圧目標地域が広大になりすぎるので流石にそれは無理でしょう。
また、侵攻がある程度成功したとして、防衛ラインは長大になり、長江での防衛と違い戦力を分散しなくてはならないため、曹操軍が反攻に転じた場合獲得した地域を維持できるかは不透明です。
(続く) -
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339
ななしのよっしん
2013/10/09(水) 20:18:10 ID: +la1vZYpOj
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(>>338の続き)
劉備軍は制圧してしまえば防衛しやすい地に侵攻することになりますし、隴西方面に顔が利く馬超・馬岱がいます。
関羽軍は後方に南郡があり、最悪侵攻が失敗しても劉備軍の補助となる働きができ、トータルで劉備軍に有利に働けます。
しかし孫権軍は侵攻が失敗すれば損しかせず、劉備勢力拡張のための人柱になるようなものです。
また、この状況で曹操領に侵攻するならば、劉備のような大義名分もない孫権は漢に反逆した逆賊となります。
これでは仮に曹操勢力の弱体化に成功しても、劉備が孫権を攻める口実を作ることになり、勢力として成り立たなくなる可能性さえあります。
このような状況で王位すらない孫権が豪族を従えるのは至難の業だと思います。
結局侵攻がうまくいこうがいかまいが孫権勢力にはマイナスしかないと思います。 -
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340
ななしのよっしん
2013/10/17(木) 02:58:24 ID: /FxLw5jzKB
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>>336-339
返答ありがとうございます。
呂蒙率いる呉軍の北上IFは、目先の利益や将来の利益以前に、
かなり上手くいったとしても孫権側には利がほとんど見受けられない事は、
自分も前々から感じておりました。
そして、おっしゃる通り蜀と呉の連携プレイは、
同陣営である劉備&関羽でさえ難しいのに、冷戦状態の劉備と孫権では不可能。
やはりこのIFは、劉備&孫権の(蜀の諸葛政権時代よりも強固な)
同盟維持が必要不可欠でありましょう。
それに孫権の「天子への階段」構想を鑑みれば、
あの時点で再び曹操と戦うのはやはり得策ではありませんね。
それ以前に、呉本国の対岸に居座る夏侯惇26軍(推定兵力8万~10万)は、
存在そのものが「数の暴力」的な抑止力として、
孫権の頭上から蓋をしているようなものでしょうか。
夏侯惇が強かろうと弱かろうと、相手(呉)に対戦する気を失わせる蓋。 -
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341
ななしのよっしん
2013/10/17(木) 22:57:42 ID: +la1vZYpOj
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>>340
諸葛亮が北伐を行った時でさえ連携が取れていませんし、おっしゃる通りこの時以上の指揮系統の統一が必要でしょう。
楽毅が率いたような連合軍を組織できれば別の話ですが、到底まとまらないでしょうね。
夏侯惇の26軍ですが、呉に対する蓋よりも曹操の負担軽減のための措置という意味合いが強いかもしれません。
劉備勢力で例えるなら荊州方面を任された関羽のような存在だったと思うんです。
216年~217年にかけて曹操は孫権勢力を潰しにかかりましたがそれが成せず曹操自身は撤退、その後は劉備勢力に対するため長安に滞在しています。
26軍はこの時揚州方面の総司令官として夏侯惇が預かったものです。
この26軍は新たに送り込まれた戦力ではなく揚州方面(長江以北の揚州・徐州及び豫洲の一部?)にいる全軍を意味するのだと思います。
曹操は孫権勢力に圧力をかけたいのではなく、劉備勢力対策に集中したいから夏侯惇に揚州方面を統括させたのかもしれません。 -
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342
ななしのよっしん
2013/10/18(金) 02:06:14 ID: /FxLw5jzKB
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>>341
西暦210年代中頃からの曹操は、少なくとも軍略においては、
それ以前と比べていささか精彩を欠いていると云うか、
有体に申せば全盛期を過ぎているとの見方はあるかと思います。
しかしそれでも、やや落ち目っぽかった晩年の彼以上に軍略が巧みな者は
三国志に存在しませんので、それを思えば、儒須口での曹操との直接対決で
割と優勢に戦った孫権と呂蒙は、大望は果たせなかったものの割と善戦した
北伐諸葛亮同様に、やはり只者ではなかったと自分は考えます。
とりわけ孫権は、最近になってすっかり浸透してしまった出負けイメージ
(間違ってはいないが正確でもない)と熟年期からの暴君イメージのせいで、
残念ながら世間的には二流君主扱い。
曹操・劉備と並べて語るに値しない、との見方が主流になりつつありますね。
さて、夏侯惇の26軍ですが、自分は、先の儒須口戦にて曹操が動員した
兵力の約半数を彼が引き継いだ、と思っておりました。
揚州戦線の統括者としては、かつての趙儼がソレに近い立場かも知れませんが、
この人の場合は各営業所(?)の調整役(マネージャー)に過ぎず、
一方の夏侯惇は本社の副社長格ですから、おっしゃる通りこの時の魏の体制は
「劉備担当及び総責任者:曹操」「孫権担当の代理人:夏侯惇」でしょうね。 -
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343
ななしのよっしん
2013/10/18(金) 07:18:45 ID: +la1vZYpOj
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344
ななしのよっしん
2013/10/25(金) 15:36:48 ID: /FxLw5jzKB
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345
ななしのよっしん
2013/10/26(土) 17:50:25 ID: +la1vZYpOj
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346
ななしのよっしん
2013/10/27(日) 01:42:48 ID: /FxLw5jzKB
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347
ななしのよっしん
2013/10/27(日) 21:58:24 ID: +la1vZYpOj
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348
ななしのよっしん
2013/10/31(木) 04:27:19 ID: /FxLw5jzKB
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>>347
孫権陣営の有力一門衆は、やはり孫瑜・孫皎・孫韶・孫桓でしょうか。
この中で比較的長く活躍したのは孫韶のみで、他は短命。
しかも孫韶の場合は、本人には失礼ながら、孫権が大して期待していない中、
自力で勝手に大きくなってくれた「偶然の産物」とも云えます。
孫権や群臣が熱く期待していたのは、他の3人だったでしょうね。
孫権と同世代の孫瑜は、周瑜の大戦略でキーパーソンだった孫家随一の器量人。
(彼の稼働期間はたったの15年だが、呉宗室ではこれでも長い方?)
孫皎は、『蒼天航路』がきっかけで(?)近年に評価が進んだ次世代の逸材。
同じく次世代の孫桓は、劉備戦でその実力の片鱗を見せつけた未完の大器。
ただしこの3者、いずれも消化不良なまま退場し、嗚呼もったいない。
それを思えば、曹操一門衆の人材的重厚さは反則的です。
夏侯惇は主席臣下/君主代理の立場を担い、夏侯淵・曹仁は当代屈指の名将、
曹洪は曹操の立身に最も物理的貢献をした重要人物で、次世代の曹休・曹真も
期待通りに大きくなりましたね。
もったいない消化不良は、曹純と夏侯尚ぐらいなものです。
へ?劉備陣営?
兄弟同然の関羽・張飛がいるから、もうそれだけでいいじゃないですか(笑)。
さて真面目な話、孫皎は孫瑜の発展的後継者ではありますが、
しかし結局のところ孫権は、呂蒙を関羽討伐の主席指揮官に任命しました。
これは呂蒙の、孫権目線での立場を考察する上で、結構重要だと思うのです。
期待以上のやり手で群臣の声望も高いから、だけでは足りない何かを、
自分は当時の呂蒙に感じるのです。
彼が危篤に陥った際の孫権のテンパり具合や、一時回復した際の悦び具合や、
闘病の末に果てた際の凹み具合を見れば尚更。
三国志で一番もったいない人材は、彼だったのかも知れませんね。 -
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349
ななしのよっしん
2013/11/01(金) 20:49:01 ID: +la1vZYpOj
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>>348
呂蒙は比較的若い時期から戦場に立っているので年齢の割には実働年数が長めですが、それでもあと数年生きていれば情勢が変わっていたかもしれない人材だったと思います。
豪族出身でない優秀な指揮官である呂蒙は孫権にとって切り札でした。
ただそれはあくまで軍人としての評価であり、統治者としては(優秀であったでしょうが)未知数な部分が大きいと思います。
また、孫権より4歳年上である呂蒙は41歳で死んでいるため当時としてはそこまで早死にとは言えないのかもしれません。
一方孫皎は兄の孫瑜同様名士との交流を深めていましたし、関羽討伐の際孫権は呂蒙と同等の軍権を持たせるつもりでした。
また、孫権は孫皎に対する手紙で将来大きな役割(遠征軍総大将や州統治者?)を任せたいとしていたので、孫皎に対する期待も呂蒙同様に大きかったと思います。
さらに孫皎は孫権より年下で30代前半で死亡しているので長期的に見れば孫権勢力にとって呂蒙以上の損失だったかもしれません。 -
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350
ななしのよっしん
2013/11/10(日) 03:37:42 ID: /FxLw5jzKB
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351
ななしのよっしん
2013/11/11(月) 01:27:07 ID: +la1vZYpOj
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>>350
呉や蜀の全盛期の中心人物は割と土着の人物が少ないんですよね。
中原の戦乱を避けて荊州や揚州へ移った人々が中核を担っているように思えます。
呉では張昭・諸葛瑾・歩隲・厳畯らは徐州出身の代表格ですし、周瑜・魯粛・呂範らは元々袁術勢力下にありました。
呂蒙・蒋欽・周泰・陳武らは孫策の袁術配下時代に配下となっていますし長江以北の出身です。
中原が荒れていた時期は人材が南(揚州・荊州)へ流れていましたが、曹操勢力が絶対的になるにつれて再び南方から人材が中原に集まってきたのかもしれません。
益州は人口こそそれなりにいましたが、中原から戦乱を避けて向かうには僻地過ぎたのか人材が流れてきている印象はあまりありません。 -
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352
ななしのよっしん
2013/11/13(水) 03:24:01 ID: /FxLw5jzKB
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>>351
益州に関しては御指摘の地理的要因に加えて、劉焉が鎖国っぽい政策を採った事
も関係しているのかも知れませんね。
さて、呉での土着人物でビッグネームと言えば、先ず陸遜と顧雍、
次いで朱桓と全琮でしょうか。
「呉郡の四姓(陸・顧・朱・張)」が幅を利かせていたと言われる割には、
その四家の露出度が少々控え目な気がします。
残りの張は張昭じゃなくって誰だったっけ…ああ張温か、みたいな。
豪族の発言力が蜀よりも強かったとされる呉なら、四姓がもっと要職に溢れて
いてもおかしくはなさそうですが、でもそこはまあ、帝権確立と地元融和の狭間
で生きる孫権のサジ加減、妥協策だったのでしょう。
(晩年での一連のアレは、彼のベクトルが帝権「強化」に向かった末の産物?)
(孫皎をバックアップしたのは、孫家自体を四姓より強くする為だった?)
如何に実力があったとは言え、呂蒙のような寒門出身者を国軍指導者に指名した
のもまた孫権のサジ加減なのでしょうね、月並みな意見ですが。 -
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353
ななしのよっしん
2013/11/13(水) 13:29:30 ID: +la1vZYpOj
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>>352
呉の四姓は呉郡の中の呉県出身の有力豪族だったようです。
陸家は孫家が台頭する前からの有力豪族でしたが、朱家や張家が台頭したのは孫権時代に朱桓や張温が活躍したからという印象があります。
そもそも「呉の四姓」と評したのは陸遜の孫の陸機ですし、自分の出身の呉郡呉県を持ち上げたのかもしれません。
陸家は呉郡でも有数の豪族でしたが孫策の攻撃により壊滅的な打撃を受けました。
呉郡の豪族の代表格である陸家がこのような状態になったため孫家に対する呉郡の豪族の感情は良くなかったかもしれません。
その後孫策が呉郡を制圧してからは朱治が呉郡を統治し、その統治下では呉の四姓をはじめ多くの豪族が出仕していたようです。
孫権は土着の豪族と孫家との婚姻を行っていましたし、朱治の統治も含めかなり配慮していたのかもしれません。
建国後は呉の土着豪族急速に台頭しましたし、同時期に建国に貢献した土着豪族以外の面々が次々と死んでしまっています。
これにより勢力内の権力のバランスが急速に崩れていったのかもしれません。
呉の四姓が次々と失脚したのは孫権が権力バランスを調整しようとした一面もあるかもしれないですね。 -
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354
ななしのよっしん
2013/11/27(水) 03:16:19 ID: /FxLw5jzKB
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>>353
一括りに地元豪族と言っても、呉の場合は大きく二つの派閥があるようで、
全琮・歩隲らは四姓に同調したり対立したりと、複雑ですね。
その四姓だって、挙党一致体制なのかどうかも判らず。
で、御指摘通り、呉が正式な国家となってからは、
地元豪族達に対する第三勢力とも云える呉外の出身者達が徐々に発言力を失い、
かつての呉ではエース級の活躍が出来た呂蒙ら寒門出身者も、
この時期にはほとんど見受けられず。
これには、三国鼎立が完成し人材の流入が止まった事や、呉外人材で
優秀な二代目があまり生まれなかった事も関係しているかも知れませんね。
あるいは、彼らが活躍出来る環境が、この時期の呉にはもうなかった?
宿将韓当の息子・韓綜の亡命なんかは、半分は本人の自業自得で、
もう半分はそうした環境に因るもの、でしょうか。 -
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355
ななしのよっしん
2013/11/27(水) 08:23:55 ID: /FxLw5jzKB
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356
ななしのよっしん
2013/11/27(水) 17:57:47 ID: +la1vZYpOj
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>>354
揚州という括りで考えれば豪族の筆頭は周瑜でしたが彼も他の一族は出世していませんね。
四姓の内の張氏も張温の失脚後は中枢からは退場していますし、全氏も魏への亡命者が出たりしています。
孫堅の代から孫家と婚姻関係にあった呉郡の豪族・呉氏も孫権の死の前後の内紛で失脚していますし、地元出身だからと言って常に発言力を持ち続けることは難しかったでしょうね。
地元出身で孫家に最も長期間貢献した一族は丹陽郡出身の朱治の一族でしょうか。
逆に豫州の薛綜とその子の薛珝・薛瑩や楼玄、程秉、胡綜
雍州の韋昭、兗州の濮陽興、青洲の是儀
徐州の諸葛瑾・諸葛恪・諸葛靚ら諸葛一族や歩隲とその子の歩協・歩闡、魯粛・魯淑親子、張昭とその子張承・張休
といった面々は地元豪族ではありませんが、建国後も重要な地位に就いたりしています。
末期の内紛などで失脚している人物も多いですがそれは孫家や地元豪族にも言えます。
建国後でも能力があれば活躍の機会は十分にあったと思います。
呉外の人物の活躍が減ったのは相対的に地元出身者の割合が増えたことが原因ではないでしょうか。 -
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357
ななしのよっしん
2014/01/12(日) 02:47:08 ID: /FxLw5jzKB
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>>356
御無沙汰しております。
話題が呂蒙その人からどんどんズレてしまった為、暫らくの間
こちらでの書き込みを自重しておりました。
(別のスレッドで会話を続けているのかも知れませんが…笑)
話の続きですが、御指摘の「相対的に地元出身者の割合が増えたことが原因」
は、自分が思う「人材流入が止まった事」と同じ方向性なのかも知れませんね。
それに関連して、自分の発言でもある「優秀な二代目があまり生まれなかった」
事は、実は一部の人達が唱える孫権バッシングのネタでもあります。
即ち、孫権が功臣二代目を冷遇圧迫し自ら次代の芽を摘んだ、と。
(周瑜の家が代表的によく挙げられる)
だから、そんな偏狭な孫権は曹操・劉備と並べて語るに値せず、と。
(確かに孫権は暴虐な側面があった)
この辺の一部意見に関しては、どうお考えでしょうか?
自分としては、本当に孫権が偏狭なら、呂蒙の覚醒もあり得ないと思うのです。 -
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358
ななしのよっしん
2014/01/13(月) 00:32:46 ID: +la1vZYpOj
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>>357
私も孫権が偏狭だとは思えません。
功臣の子が同様に有能とは限りませんし、失脚していった功臣の一族は少なからず自業自得の部分があるように思えます。
周瑜の一族も将軍職に就いている人物もいますが、素行不良で失脚したり名誉回復直前で病死したりと孫権にのみ非があるようには思えません。
私は逆に孫権は家柄に関わらず抜擢できる器量を持った人物だと思います。
そして自分が抜擢した人物を信頼して重用できたからこそ魯粛や呂蒙・周泰・蒋欽といった面々が活躍できたのだと思います。
ただそれが仇となったのが呂壱事件で、呂壱のことを有能な監査役として信頼しすぎたことが重臣たちからの信頼を失う結果になってしまったのでしょう。
これについては呂壱事件が深刻化する直前に30年以上孫権を支えてきた張昭が亡くなったことも遠因かもしれません。
張昭と共に若き日の孫権を支えてきた周瑜の死後魯粛・呂蒙が台頭したように、張昭の死後重臣であろうと処罰する呂壱の姿に孫権は期待してしまったのかもしれません。
(続く) -
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359
ななしのよっしん
2014/01/13(月) 01:31:04 ID: +la1vZYpOj
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(>>358の続き)
少なくとも皇帝即位までの孫権は配下との信頼関係が構築できており、無意味に処罰を下すような人物ではなかったと思います。
建国に至るまでは純粋に孫家やその勢力地域のために仕える人材が多かったのでしょうが、徐々に利己的な人材が増えていき政争が起こるようになり、孫権が成功してきたやり方が通用しなくなったのかもしれません。
孫堅の死後のどん底状態の孫家を知っていたであろう朱然からも呂壱事件後は無視されていますから、この時の孫権のショックは計り知れないものだったでしょう。
半世紀近く築いてきた信頼関係が不確かなものになってしまった上に、同時期に孫登や諸葛瑾が亡くなったことが追い打ちをかけ、泥沼の二宮の変に入っていきますがこれ以上は脱線しすぎですかね… -
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360
ななしのよっしん
2014/01/14(火) 01:58:15 ID: /FxLw5jzKB
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>>358-359
孫権の皇帝即位辺りから、孫呉の(良くも悪くも)自由闊達な風土が
徐々に影を潜め何やら妙な閉塞感が漂い始めた事には、
色々な要素が複雑に入り組んでいるように自分には思えます。
先ず、孫権自身の劣化。これは否定しません。
全盛期の彼は、時には曹操・劉備を手玉に取るほどの冴えを見せましたが、
長期政権を維持し皇帝となって慢心したのか単純に加齢によるものなのか、
元々危うかった側面がここで膨張した感はあります。
ただし、そうした危うさは曹操・劉備も充分持っており、
(だから彼らは、行動の派手さも相まって、後世の我々を魅了してやまない)
そして彼らは孫権と違って、皇帝としての治世が無い、もしくは無いに等しい
事にも留意すべきでしょうね。
次に…いや、既に御指摘の話と被るし、脱線するからやめときます(笑)。
個人的に孫権は、ダ○エー創業者某氏の全盛期直前から最晩年までのイメージ。
薬局から主婦の店時代までが初代孫堅の役で、会社を総合スーパーマーケット
として確立させたのが二代孫策の役、そこから先が孫権の役、みたいな感じ。
とにかく、自由闊達だった時代の孫呉で一番面白味のある人物は、
やはり呂蒙でしょう。 -
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