唯一神
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91
ななしのよっしん
2016/03/17(木) 17:32:00 ID: xP11A4thtt
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>>90
その部分がどうも判然としないんだけど。
多神教→一神教って不可逆反応な訳?にしてもそれは元多神教徒の集まりが一神教徒を名乗り出したというだけの話なんだよな。
一神教も結局中でやってる事は多神教的なんだけど、ガワは厳格な一神教装わないと体面保てないってのがあんのかね。
一神教徒でいる事のメリットが多神教徒より大きく、加えて多神教の倒し方が歴史的に解明されてるって事なんだろうな。
要するにユダヤ教が編み出したものっていうのは一神教徒という体面で多神教をカバーする事で多神教的文化性を保ちつつ外圧にも強くなったって事なんだろうな。
結局"ただの一神教"を拝まされる奴が一番詰らん部分を掴まされてきた訳だ。んで、詰らんもの程周りに強く出れるというね。 -
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92
ななしのよっしん
2016/03/18(金) 21:18:51 ID: siPwFXRABO
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>>91
多神教→一神教もあれば、一神教→多神教もある。前者は19世紀、特にヴィクトリア朝(明治)時代頃の定説。この頃は原始的信仰(多神教・アニミズム)→文明的信仰(一神教)とされていた。でも今の宗教学上の定説では、一神教と多神教は類似性がある。
“多神教”“多神信仰ともいい,宗教学上同時に多数の神を認める信仰態度。一神教と対比されるが,その区別は実際には必ずしも明確ではない。一般に文明の影響をあまり受けていない,伝統的生活をおくる民族の信仰は多神教的であり,そこから一神教に発展すると考えられていたが,それらの民族のなかにも原始的な一神教とみられるものもある。”
(ブリタニカ国際大百科事典)
“あらゆる文化は低次から高次へと直線的に進化すると考える19世紀の文化進化論では、宗教の起源をアニミズム、アニマティズム、呪術(じゅじゅつ)などに求め、また一神教は多神教より進んだものとみなしたが、現存する「未開社会」を調べると、アフリカのサン(ブッシュマン)、マレー半島のセマン、オーストラリア先住民など、もっとも原始的とされる狩猟採集民の間に、しばしば最高神の観念がみられる。”
“多神教からかならずしも直線的に一神教monotheismに進化するわけではない。一神教の成立には、それなりの根源と啓示、宗教闘争、神学的反省といった種々の過程が考えられる。”(日本大百科全書)
なので、一神教徒でいるメリットや多神教の倒し方があるかは断言できない。ただ、一神教には「他の教え=邪教」とする排他的な面があるし、スピノザの汎神論のように「唯一神=一切全て」とするアニミズム的面もある。
厳格な宗教(国家神道含む)は一神教的な排他主義になり、寛容な宗教はアニミズム的な協調主義になる、とは言えるかも。 -
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93
ななしのよっしん
2016/03/19(土) 10:23:24 ID: xP11A4thtt
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94
ななしのよっしん
2016/03/23(水) 14:39:57 ID: cVa5UHUUuI
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95
ななしのよっしん
2016/03/23(水) 20:02:37 ID: xP11A4thtt
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>>94
イスラムの理屈ってか旧約がその結論を否定出来ないっしょ。ユダヤキリスト理屈って挙げてるそれでは唯一神として半端だったから砂漠の民から突っ込まれたかじゃないの?持ち込むも何も唯一神の基準満たしてるのが現状イスラムだけで「生まず生まれず」ではない唯一絶対の神という存在を神学的にも宗教学的にも立証できていないだろ。
いい加減聖書の人称芸が時代遅れだと認識したら?これでこの先も通す気で居るのか?それとも何、宗教学とか称してそっちから少しずつ緩めてってフェーズシフトする機でも伺ってんの?
>最高神=唯一神=絶対神はなにもアブラハムの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)にしか存在しないわけじゃないって段階まで論証したのが近現代の宗教研究
↑これどこの研究者/グループがやったの?論証したやつあるなら是非知りたい。てかユダヤ教・キリスト教の神は唯一絶対神じゃないよ。
あとさ「最高神=唯一神=絶対神はなにもアブラハムの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)にしか存在しないわけじゃない」ていうけど、その「アブラハムの宗教以外の宗教(何の宗教が知らんがあるなら知りたい)における最高神=唯一神=絶対神」も「アブラハムの宗教」のそれと「同一の存在」だという論旨で論証した訳?それともまた別の存在としての唯一絶対神だとでも云う訳?
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96
ななしのよっしん
2016/03/23(水) 20:09:14 ID: xP11A4thtt
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97
ななしのよっしん
2016/03/23(水) 22:40:27 ID: cVa5UHUUuI
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98
ななしのよっしん
2016/03/24(木) 00:55:01 ID: siPwFXRABO
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>>93 >>95
確かに「生まず生まれず」はイスラム教的要素だから「イスラム教的に見て唯一神(アッラー)かどうか」の基準にはなるけど、「人文科学的に見て唯一神かどうか」の基準にはならんよ。辞書(言語学情報)と事典(専門研究情報)を見ても、ユダヤ・キリスト・イスラム教は唯一神(唯一絶対神)を信仰する宗教として同列に定義されている。
”一神教””一切を創造して支配する唯一絶対の神のみを認めて信仰する宗教。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など。唯一神教。→多神教”(デジタル大辞泉)
”一神教””ただ一つの神だけの存在を認め、それを信仰の対象とする宗教。唯一神教。単一(拝一)神教、交替神教などに区別される。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など。 ⇔多神教。”(日本国語大辞典)
”一神教””複数の神々を崇拝する多神教と異なり、一つの神のみを信ずる信仰を説く宗教のこと。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、初期のゾロアスター教などに代表される。”(日本大百科全書)
>>95
辞書で「唯一神」と「絶対神」を見ると、この二つは同義語。
”唯一神””唯一絶対神”(http://prt.nu/x/ 0) ”絶対神””唯一神”(http://p rt.nu/z/ 0)
”le Dieu vivant (the living God)””(キリスト教,イスラム教における)唯一神,絶対神.”
(小学館 ロベール仏和大辞典)
「最高神」も唯一神(絶対神)と同義語。
”supreme god””《神話・宗教》最高神、至高の神◆Supreme Godとも表記。”
(http://prt.nu/y/ 0)
こっちの辞書ではSupreme Being(最高者・最高神)の同義語はalmighty(全能者・全能神)、creator(創造主・創造神)、King of Kings(諸王の王)
(http://prt.nu/y/ 0)
研究書でも同様。
>全体として最高神、絶対神を求めようという傾向が顕著となっていた。
(近世の仏教: 華ひらく思想と文化)
>最高神,唯一神として数えられるものは出現した
(アジア仏教史: 古代インドの宗敎)
こうしてざっとまとめて、そんでイスラム教的観点から見ると、人文科学系の情報には「間違った」情報ばっかりあるんだわ -
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99
ななしのよっしん
2016/03/24(木) 01:07:30 ID: siPwFXRABO
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>>96
ID: xP11A4thttの考えがイスラム教なのか自己流哲学なのか知らんけど、とにかく、人文科学(の一つ宗教学)の考えをそのまま持ち込めば、ID: xP11A4thttのイスラム教的考えがパーになる。
逆も同じで、イスラム教的または宗教的考えを人文科学にそのまま持ち込めば、人文科学の考えがパーになる。どんな長文や論理も「俺の考えではお前は間違ってる」で済んでしまうわけだから。 じゃあざっと整理すれば各々の考えは独立して無碍にならんよねってことで整理すれば、唯一神か否かの判定基準は
ID: xP11A4thttの場合:「生まず生まれず」
人文科学の場合:辞事典や研究書にある内容
もっとざっくり言えば、イスラム教での「唯一神」はアッラー、人文科学での「唯一神」はアッラーを含め唯一絶対的な神格全部(例えば>>90の天皇も)
>>93
多神教が一神教化すると不可逆か?という疑問については、現代の人文科学が多神教と一神教は必ずしも別物扱いしてないから、そもそも多神教の一神教化も一神教の多神教化もあり得ないかも、と言える。
でも完全にあり得ないわけじゃない、例えば「原始一神教」の例。>>92でも挙げたアフリカのサン(ブッシュマン)、マレー半島のセマン、オーストラリア先住民など。こういった人々は、かつて一神教だった原始段階から多神教へと変わったとされる例。(ただ、「原始一神教」を唱えた学派は他の民族や宗教全般にも無理やり当てはめた、そこは「原始一神教」説の弱点。)
一神教の起源は近ごろ「原始一神教」説よりも「創唱宗教」説だとか、一神教圏の反一神教化(多神教化)は実際もっといろいろ複雑にあるとか・・・なんだけど、まとめにくいわ。そのうち書くかも。 -
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100
ななしのよっしん
2016/03/25(金) 19:15:44 ID: xP11A4thtt
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>ID: xP11A4thttのイスラム教的考え
>ID: xP11A4thttの場合:「生まず生まれず」
だからさあ、イスラム云々抜きで「生まず生まれず」が旧約から出て来た概念としてあって、それを今日に至るまで誰も否定できてないでしょっていう話なんだけど。これ以上の話が旧約から出て来るのかどうか、が問題なんですけど。
考えがどうとかいうよりそれ以上のものが出て来なければ最終的に出て来たものが罷り通るのは自明の理っしょ?だからこれ以上出て来るのか、誰かが新たな結論出せてますかって訊いてんの。
何教でもいい、これに真っ向から反駁して旧約にはこうこうだからその結論は変ですよねって話があるなら拝読しますよ?
で、御宅の考え:悪魔より悪人を殺しまくる神=めっちゃ強い神=最強の神に守られる自分たちスゲー みたいないじめられっ子の信念が一神教
っていうからには御宅旧約フリークでもないっしょ?そうやって旧約もお得意の「人文科学」のノリで相対化出来る訳じゃないですか。メタってりゃパーになんねえから。
私は旧約の立場から「生まず生まれず」以上のものは出て来ませんね、と確認してんの。単にそこが「重要項目」だから。
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101
ななしのよっしん
2016/04/10(日) 18:38:19 ID: siPwFXRABO
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>>93・>>95にもういっちょレス
多神教が一神教化するとその逆は起きない、との発想に対して異論はあれこれある。そもそも人文科学上は一神教と多神教に絶対的違いは無い(>>98)、とか。一神教圏のロマン主義的文学や芸術やスピノザ的哲学が表現してきたpantheismとか。pantheismの第一義は「汎神論」だが俗用では「多神教」も意味するhttp://ejje.webl io.jp/co ntent/pa ntheism
唯一神の存在証明についてだけど。前期ウィトゲンシュタイン的な人は
Q.全能なる神は存在するか否か。 A.神=全能者と定義した場合、全能者は常時存在する行為も可能なため、その問いは同語反復。問いとして無駄。 …とか答えそう。
12 : ななしのよっしん :2014/07/31(木) 06:02:09 ID: vIAUebVPb/
1. 全能の神が存在しないと仮定する。
2. 存在しない神は何も行うことはできない。
3. 2は、全能であるという神の定義に反する。
4. 3より、1の仮定からは矛盾が導かれる。
5. 4より、神は存在する。
一応いまの論理学は、「全能の逆説」があるために「全能」は論理的不可能(論理学の論理を無効化することで可能)と考えられる、と論じてるが。あとは「神の存在証明」の記事にもあるが、神の存在証明は論理学では成立しないとカントやエイヤーが唱えた。(こういうのは、近代化によって宗教から学問が分化していく流れの中にある。
ちなみにカントはその流れの中にありつつも、論理学や科学のような形而下学は純粋理性とし、霊魂や神の証明のような形而上学は実践理性としていて、カント的には純粋理性<実践理性。)
あと>>99でも触れたけど、宗教進化論と原始一神教説への批判について。あと批判から出た創唱宗教説について。
月本昭男「古代イスラエル唯一神教の成立とその逆説的特質」(113~114頁)
“一般論として進化論と原始一神教説が20世紀はじめ拮抗しておりました。原始一神教の方がマイナーであったと思います。二つの説は同じような問題点を抱えていると思います。
一つは理論的には空間を安易に時間に置き換えてしまっていることであります。つまり現代世界のより原始的なところに人類のより古い宗教形態が見えるという論であります。それに対して私は大きな疑問を感じるのであります。 -
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102
ななしのよっしん
2016/04/10(日) 18:39:38 ID: siPwFXRABO
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何よりもまずアフリカや中南米、アジア等々の未開社会と言われるところに人間の古い時代の生活形態が残っているという見方に反対でありまして、アフリカなどのある部族は、都市化社会を拒絶しながら、それとは距離をおいて別の生活をする形態は十分ありうると思います。
また、西アジアにおいてシリア政府が遊牧民を何とか定住させたいので、無償でコンクリートの家を建てて提供しました。遊牧の民は感謝したが、羊を夜、入れるのにいいとその家を用いたという笑い話がございます。…
どの文明が、より原始的なのかという発想自体が、今日さまざまな形で再考が求められているに違いないと思います。石器時代、金属を使わない社会よりも金属を使う社会の方が本当に進んでいるのかどうか。
今日、お年寄りに優しい社会、女性を差別しない社会の視点から見ると、今までの文明の進歩という見方は全く違うふうに見えてくるはずであります。そういう点で、宗教進化論、原始一神教説、これらは説としては面白くありましても、多くの問題点を抱えていたと言わざるを得ません。なによりも証明の限りでないということがございます。…
少なからぬ賛同者を集めたのが、一神教=創唱宗教説であります。…これを理論的に広めたのはペッタソーニ(Pettazoni)の論文であります。…そこで彼が主張するのは、一神教というのは進化の過程で生まれてきたものでもなければ原始一神教でもない。
常に一神教は創唱者がいるのだという論でありました。イスラームにはムハンマドが、キリスト教にはイエス・キリストが、ユダヤ教にはモーセが、ゾロアスター教にはゾロアスターがいるわけであります。…
一神教は創唱宗教だという見解に関しては宗教進化論、原始一神教説に対して唱えられたという意味で意味があったと思います…評価できる点は一神教が自然発生的なものではなく、常に自覚的に宗教教説が語られないと一神教というのは維持されない、保持されないという点であろうかと思います。”
近代の反一神教(多神教)的な傾向や文化はいろいろあるので、個人的にざっと挙げてみる。
1800年代末からの自然崇拝やヌーディズム(裸体主義)、1960年代ヒッピーのようなカウンターカルチャー(対抗文化)も、かなり多神教(特にアニミズムや仏教やケルト等)に影響されていた。
宗教学・神話学・民俗学・民族学・文化人類学を大いに発展させたのは19世紀のJ. G.フレーザー。 -
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103
ななしのよっしん
2016/04/10(日) 18:41:17 ID: siPwFXRABO
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フレーザーの『金枝篇』はキリスト教を他の無数の宗教や信仰と対比させ、キリスト教をはじめ一神教がいわゆる「未開民族」の多神教や信仰と同じ構造になっていると論じた。
学者達は宗教界から反キリスト教・反一神教的だとか、または魂が無いとか、精神的高度さに欠けるとかと非難された。その影響で『金枝篇』はクトゥルフ神話では、読むと正気(SAN値)を失う魔術書扱い。
同じく19世紀のW.B.イェーツが主導したケルト復興運動(アイルランド文芸復興運動)も、反一神教的な異教主義で、アイルランドの独立運動や国家主義にも繋がってる(ただしカトリックは異教との習合もある)。
イェーツと文通したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は生まれと育ちがキリスト教環境だけど、反一神教と東洋主義と科学主義を併せ持っていて、『雪女』や『耳なし芳一』を現在知られる内容に改変し広めた。今は『東方Project』のマエリベリー・ハーン(八雲紫)の元ネタとしての方が有名か?
現代も異教主義の影響はファンタジーに強い。『ロード・オブ・ザ・リング』(The Lord of the Rings)から始まったエルフ・ドワーフ・ホビットのイメージとか、『ゼルダの伝説』の三女神の力トライフォースや、コキリ族・ゴロン族・ゾーラ族とか。
前者のラスボス「冥王サウロン」の別名なんか「唯一なる敵(the One Enemy)」や「かの者(the One)」だし。これについては論文「主(ザ・ロード)という呪い」にも書いてある。
他にも「大王サウロン」(Sauron the Great)ともいうけど、『スター・ウォーズ』のラスボスはエピソード4~6通して「皇帝」(emperor)で、皇帝は「諸王の王」(The Lord of the Lords)の同義語で、諸王の王は「大王」(the Great)や唯一神の同義語。
『這いよれ! ニャル子さん』や『Bloodborne』で以前よりさらに広まったクトゥルフ神話も、ゴシックロマンスの流れにあって、ゴシック≒ダークファンタジー≒異教≒多神教。
ラヴクラフトは不信心者でもあって、非一神教圏については「劣等人種」への嫌悪と、歴史や文明への興味と、未知の科学的発見への期待・恐怖とが入り混じっていた。
一般大衆にラヴクラフト的作品がバカ受けしたのは、ラヴクラフト的感情が一般的でもあったから、というのは文学や文化の評論でよく言われる。 -
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104
ななしのよっしん
2016/04/10(日) 18:42:40 ID: siPwFXRABO
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19~20世紀の「魔術師」アレイスター・クロウリーは占いやタロットカード関連の悪魔主義者だけど、”pagan”は「異教・異端・多神教・無宗教・快楽主義」の意。”daimon”は「(ギリシャの)半神半人・守護霊・悪魔」の意。クロウリーが参加した「黄金の夜明け団」は、イギリスで結成された団体で東洋思想(特に神智学)やエジプト神話を取り入れている。
つまり悪魔と神々と「神の死(唯一神の死)」には、語義的にも文化的にも繋がりがある。
神話・魔術・宗教全般での霊魂への信仰や哲学の現象を心霊主義(スピリチュアリズム)というが、狭義の心霊主義は、広義の現象を受け継いだ18~19世紀から欧米や他の近代諸国で流行し始めた近代の現象。シャーロック・ホームズを書いたコナン・ドイルも、
第一次世界大戦で息子が死んだのを切欠に、死者と交信しようとして心霊主義にハマった。メスメルは動物磁気(昔風には霊魂、今風にはエクトプラズム)を唱え、これがピップエレキバンのような磁気療法に繋がった。
心霊主義はあまりに広まったので、宗教・魔術・ファンタジーやオカルトとの区別は必ずしも無い。実際19世紀の歴史的人物は、作家でも宗教家でも哲学者でも科学者でも芸術家でも、たいてい心霊主義と関わりがある。
こんな広まった理由は一口では言えんが、一因は、キリスト教・一神教・宗教への不信の増大と、近代化(=信教の自由等の人権法、啓蒙思想・合理主義、自然科学の発展等)とがセットになっていたこと。
つまり宗教と近代の折り合いつけようとして流行ったのが疑似科学であり心霊主義で、これが神格(=唯一神・神々・神霊)のイメージを心霊(=霊魂・死霊・魂・心)のイメージにダブらせ、あの世(=天国・地獄)を異界(=あの世・別世界・無意識)にダブらせた。
こういうイメージの融合は曖昧でロマン主義的でありつつ一見科学的でもあったので、保守的な信者も、精神的問題に興味のある一般人や科学者も、死人に会いたい遺族も、奇術が得意な詐欺師も、果てはただ騒ぎたいだけの連中も引き寄せることになった。
心霊主義の占いやウィジャ盤は、日本に来てコックリさんや「学校の怪談」になった。口裂け女や人面犬も同じく。1900年代の世紀末には、ノストラダムスの大予言とか仏教過激派(オウム真理教)と合併症を起こした。 -
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105
ななしのよっしん
2016/04/10(日) 18:44:55 ID: siPwFXRABO
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もっと暴力的な「多神教」的精神論は、ナチズムがある。「神は死んだ」に代表されるニーチェの反キリスト教(=超人思想)を取り込み、グリム童話のような異教主義・ロマン主義・民族主義を強化し、ワーグナーの戯曲で鼓舞した「ゲルマン神話」を真のドイツ民族(=アーリア民族)の魂と見なした。
つっても多神教もそこまでいくと絶対主義。唯一神が総統か天皇に、一神教がゲルマン神話か国家神道に、一神教原理が指導者原理か八紘一宇に交換されただけで、構造は一神教と同様>>90。
その後のドイツがナチズム・ロマン主義・伝統主義への批判を様々に展開したのは、まあ常識だな。ドイツほどじゃないが日本も同様。
ちなみに1875~1962年に生きた柳田國男は、天皇に敬意を示すような表現をした一方で、国家神道が消そうとした民間信仰の神々の研究(民俗学)を開拓した。天皇=現人神とされている時代に、『石神問答』(1910年)で「倭名抄には既に天地部神霊類の中に、現人神を掲げて邪鬼窮鬼と同列としている」という調査結果を書いたくらい。
こういう反一神教的文化(≒多神教・過去・ロマン・反宗教主義・人文科学・反合理主義・自然・未知の可能性への興味)は色々絡み合っていて、これが始まった要因は断定できないが、「ゴシック」は大きな一因とは言える。
イギリス初代首相の息子ホレス・ウォルポールというオタクが『オトラント城奇譚』を書いた。雰囲気は昔風、場所は異国、舞台は古城、おっさん(家父長)が乙女(Damsel In Distress・純潔・純粋性)に好き勝手しようとする中で怪奇幻想・超現実的事件が起き、若者(ヒーロー)が奮闘する…
という、近代以降のファンタジーの基本が全部出てくる。「ゴシック」は妄想も文学も歴史学も考古学もごたまぜに、過去や幻想や精神や「他者」や他文明への興味を人々に沸き起こした。
フランケンシュタイン博士(1818年)もゴシックだが、宗教をふくめ幻想文学とSFの間の子で、細かく言えばゴシックSF。怪物を産んだこの科学者をcreator(=創造神・創造主・創り手)と呼ぶのは冒瀆だ、と当時は非難された。
つまりフランケンシュタイン系作品は、神と人≒創造主と被造物≒親と子≒科学者と発明≒芸術家と芸術・・・というイメージで作られている。 -
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106
ななしのよっしん
2016/04/10(日) 18:49:36 ID: siPwFXRABO
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今でもゴシックは対抗文化やファンタジーと切り離せない。『バイオハザード』やロメロ監督はゾンビで有名だが、ゾンビはもともとブードゥー教由来の「生ける人形」や幽霊。ブードゥーやらゾンビやらアフリカ(クレオール)文化については、ハーンも『仏領西インド諸島の二年間』で書いてる。
ゾンビの語源はアフリカの神々の一つ「nzambi」。ゾンビのイメージは吸血鬼(ドラキュラ)と結びついてもいる。さらにpygmalionism(人形偏愛・理想像偏愛)、死体偏愛(necrophilia)、機械偏愛(mechanophilia)、心霊偏愛(spectrophilia)とも。
有名な映画でいうと、『スター・ウォーズ』や『マッドマックス』。どちらも比較神話学者兼比較宗教学者ジョゼフ・キャンベルの理論「Hero’s Journey」(主人公の旅路)を元にしている。
キャンベルの論では、どんな宗教や神話や物語にも主人公を中心とする共通構造があり、それは人類が普遍的に意識したり好む構造。アメリカがキリスト教(一神教)的だという一般論に対してそれは単純化し過ぎてるだろと反論によく使われるのがこの理論や映画。
とまぁこれでも反一神教の極一部分でしかない。この中の単語一つ取っても、無数に研究やら感想やら二次創作やらが紙媒体にもネット上にもある。俺よりもっと上手い説明もあるっしょ。
それと多神教的でない一神教への反抗もある。人権=つまりフランス革命やアメリカ独立が宣言した権利で、1976年には国連が国際人権規約で法制化した。人権法では宗教全般が人権法の制御下にあって、そこには信教の自由も含まれる。 -
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107
ななしのよっしん
2016/04/10(日) 18:51:11 ID: siPwFXRABO
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>>100
君ID: xP11A4thttの観点がはっきりせんので整理してみるわ。
例えばID: xP11A4thttの「ユダヤ教・キリスト教の神は唯一絶対神じゃないよ」に対して、俺は>>98で、言語学・宗教学上は唯一神・絶対神・最高神は同義語だぞ、とレスした。
それについて君は>>100 で触れてないから、君の観点がはっきりしない。宗教学(人文科学)的な観点?思想家的な観点?宗教家的な観点?個人的な観点?
「ユダヤ教・キリスト教の神は唯一絶対神じゃないよ」が宗教学上の観点のつもりだったなら、それは違うわけだ、>>98にある通り。
>>98を踏まえた上で「でも自分が思うにユダヤ教・キリスト教の神は唯一絶対神じゃない」というなら、その観点は思想家的か、宗教家的か、個人的だわな?
情報ソースが無いならどちらでもなく個人的ってことね、じゃあお前がそう思うんならそうなんだろう(どれくらいの他人がどこまでそう思うかは知らんよ)、となる。
君が>>95でレスした「唯一神の基準満たしてるのが現状イスラムだけ」「いい加減聖書の人称芸が時代遅れ」も同様
>イスラム云々抜きで「生まず生まれず」が旧約から出て来た概念としてあって、それを今日に至るまで誰も否定できてないでしょ
>これ以上の話が旧約から出て来るのかどうか、が問題
>旧約の立場から「生まず生まれず」以上のものは出て来ませんね、と確認してんの。単にそこが「重要項目」だから。
それはどういう観点での問題(重要項目)? 宗教学の文献では「生まず生まれず」が問題というのはあまり見ないし、旧約由来というのはなおさら覚えがない。
>考えがどうとかいうよりそれ以上のものが出て来なければ最終的に出て来たものが罷り通るのは自明の理っしょ?だからこれ以上出て来るのか、誰かが新たな結論出せてますか
>何教でもいい、これに真っ向から反駁して旧約にはこうこうだからその結論は変ですよねって話があるなら拝読しますよ?
Aという宗教の観点では、普通はAが最も正しかったり、最終的な結論を出してたりするから、Aに対して異教が「新たな結論」や「反駁」を出せたことなんてないんじゃないすか。異教の観点では、異教がAに「新たな結論」や「反駁」を出したことあるだろう。例えばイスラム教の観点では、イスラム教がキリスト教へのツッコミという「反駁」をしたわけで。 -
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108
ななしのよっしん
2016/04/10(日) 18:53:08 ID: siPwFXRABO
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>御宅の考え:悪魔より悪人を殺しまくる神=めっちゃ強い神=最強の神に守られる自分たちスゲー みたいないじめられっ子の信念が一神教
一応そうだが、それは>>90に引用した本村凌二やフロイト・岸田の考えがもと。俺の考えの中にはそれもあるし、一神教的(旧約フリーク的)・多神教的な考えもある。スピノザのような汎神論的考えもある(その考えでは木村もフロイトもそぐわない)。
>旧約もお得意の「人文科学」のノリで相対化出来る訳じゃないですか。メタってりゃパーになんねえから。
旧約は人文科学がよく扱う題材だから、さんざん相対化されてきたと思うが。人文科学が「メタ」的ってこと?その「メタ」はメタフィクションとか形而上学でいうmeta(=「間」「超」「高次」)? そりゃ科学的ならメタ的なのでは?
科学は『大辞泉』によると”一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。また、その成果としての体系的知識。研究対象または研究方法のうえで、自然科学・社会科学・人文科学などに分類される”。
なら”種々の事象”に対してメタであるものの一部が”科学”、一方で、メタでないものは”種々の事象”、ってことじゃないすか。
別に「5W1Hや主語述語さえも意味不明なパーになった文章が読みたい」とかいうわけじゃないよね?
もう一つ、人文科学を括弧「」に括ってるけど、これそんなに変な単語? 「人文学」だろ、ってこと? 日本学術会議(Science Council of Japan)は”わが国の人文・社会科学、自然科学全分野の科学者の意見をまとめ、国内外に対して発信する日本の代表機関です”(http://www.scj.g o.jp/)と公称しているし、人文科学でいいと思うが。 -
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ななしのよっしん
2016/04/10(日) 18:54:18 ID: siPwFXRABO
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あとタウヒード(神の唯一性)について
『現代アジア事典』(669頁)
”タウヒード〔Tawhid〕…タウヒードはアラビア語で、日本語では神の唯一性と訳され、イスラム教の一神教の概念を表すもの。それは神が唯一であることの信仰であり、イスラムの基本概念の1つ。多即一、多元主義的普遍主義を意味し、万物を一化することとか、万物を一に帰すること、などと表現されるように、アッラーを唯一の神とみなすと同時に、あらゆるものが同一のものから生まれるとみなす。
…預言者ムハンマドの最も重要かつ根本的な教えは神が唯一絶対の存在であることを教え信じさせることである。…神が唯一であるということの教義は全編を通じて示される。…「これぞ、神にして唯一者、神にして永遠の絶対者。生まず、生まれず、一人として並ぶものはない。」
…タウヒードが根拠となってキリスト教徒の「神の子イエス」に対する非難が生まれる。神に何かを並べて対置することはシルクと呼ばれ、最大の罪とされる。シルクは多元性とも訳され、タウヒードの反意語である。アラビア語では分割とか分離を意味し、シルクする者はムシュリクといわれるが、それは多神教徒を意味する。
後世になって生まれたイスラム神学はタウヒードの解釈から成立し、その問題を中心に発展した。アッラーの唯一性、すなわちタウヒードを信じるか否かで、人間と人間の間に異なった世界が形成させる。本当に心から信じる人たちは1つの共同体を形成し、正しい道を見出し、真理を知り、成功へと導かれる。…そうした見方を信じることがムスリムにとり、最も重要なこととなる。”
この手の事典ではイスラム教やタウヒードが異教より上とか下とは定義されてない。ってかキリスト教にも、イエスを神と認めず、神の唯一性をことさら強調する面がある
『デジタル大辞泉』
”ユニテリアン(Unitarian)”
”キリスト教プロテスタントの一派、およびその主張。キリスト教正統派教義の三位一体説に反対し、神の単一性を主張、キリストの神性を否定する。18世紀以降、英国、次いで米国などで教会が発展した。明治20年(1887)日本にも伝来。” -
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ななしのよっしん
2016/04/10(日) 18:56:13 ID: siPwFXRABO
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『世界大百科事典第2版』
“ユニテリアン【Unitarians】”
“キリスト教の正統教義である三位一体論に反対して,神ひとりだけの神性を主張し,イエスの神性を否定する教派。神学思想としては,古代教会のアリウスや宗教改革時代のセルベトゥス,ソッツィーニなどによって主張されていたが,教派としては18世紀から19世紀にかけてイギリスとアメリカで別々に成立した。
とくにアメリカでは会衆派教会のなかで,ハーバード大学神学部を中心として一教派になるまで発展した。エマソンはもとユニテリアン派の牧師であり,その合理主義にあきたらずやめたが,ユニテリアンはアメリカ思想界における合理主義と人道主義の代表的系譜を形成してきた。”
あとこういう論文でもキリスト教とイスラム教のどっちが進歩的かは決められてない。それを決めるのは宗教進化論的だし。
山口真「複合民族社会における教育・文化に関する研究」(32頁)
“キリスト教とイスラム教は単に異なった宗教であるというだけではなく,相互にきわめて排他的な世界である。ヨーロッパのキリスト教徒が教会へ行き,福音書を読み,トルコ人がモスクへ行きコーランを信ずるというような単純なことではない。
キリスト教徒によって根本的と目されているいくつかの教義がイスラム教では拒否され,実際上忌み嫌われている。例えばキリスト教の神性とか三位一体とかがそれである。三位一体は神の唯一性―彼らにとって神アッラーの本質的な特質―を曖昧化するものであるからである。人生また他人に対する態度において,キリスト教徒とイスラム教徒の間にはかなりの隔たりがある。”
こっちはタウヒードとテロの関連について扱っている論文
西野正巳「9・11同時多発テロ以降のアルカーイダの動向」(40頁)
“アルカーイダ・イラク支部は、元々はアルカーイダとは別のイスラム原理主義組織「神の唯一性と聖戦の集団」(Jama'at al-Tawhid wal-Jihad)であり、2003年以降のイラクでテロ活動を多数行っていた。” -
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ななしのよっしん
2016/04/10(日) 20:36:46 ID: siPwFXRABO
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ユダヤ・キリスト・イスラムに優劣なんてねーよという発想は18世紀にもあった
『日本大百科全書』
”賢者ナータン””Nathan der Weise ”
”ドイツの啓蒙(けいもう)思想家レッシングが牧師ゲッツェとの論争を契機に執筆した5幕の劇詩。1779年刊。第三次十字軍遠征が終わった12世紀末のエルサレムで、富と知恵を兼備したユダヤ商人ナータンは、イスラム教の名君サラディンによる難問、「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいずれが真の宗教か?」に対し、
真偽の識別がまったく不可能な三つの指輪のたとえ話(『デカメロン』に由来)を用いて、この問いの無意味さを説く。ナータンにとって唯一神への帰依と隣人愛の実践こそ正しい信仰の証(あかし)にほかならない。
彼自身深刻な懐疑を理性によって克服し、この確信を得る。筋はナータンの養女とキリスト教の若い神殿騎士の恋をめぐって進行し、2人の兄妹関係、同時にまた、彼らとサラディンとの血縁関係が認知されて大団円となる。18世紀に流行の「まじめな喜劇」、とくに家庭劇を、寛容を教える思想劇にまで高めたこの作品は、今日の舞台でなお生きている。[南大路振一]”
「神」の定義は無数にあることと、イスラム教の定義が通用しない例について
高尾利数「現代社会と宗教:宗教の課題・問題性・展望」(24~30頁)
“「神」の定義について
宗教について語る場合,まず「神」について一定の定義をしておかないと,実り豊かな議論にはならないであろう。だが,この場合にも,ほとんど無数の定義があるので簡単ではない。
①日本的な定義
広辞苑が述べる最も普通の定義では,神は「人間を超越した威力を持つ,かくれた存在。人知を以ってはかることのできぬ能力を持ち,人類に禍福を降すと考えられる威霊。人間が畏怖し,また信仰の対象とするもの」とある。…要するに「カミ」とは,何であれ「人間の力や理解を超越した威力あるもの」であった。 -
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ななしのよっしん
2016/04/10(日) 20:38:18 ID: siPwFXRABO
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②C・G・ユングの定義
ユングは,「私は神を信じてはいません。私は,神がいることを知っています。そして私は,善良で年取ったスイス人として,また一人の科学者として言っているのです」…と答えた。
…「古来のゲルマン語には,gött'nという言葉がある。それは〈生み出す〉という意味である。(注:現代の英語でも,父親が子をもうけることをbegetというが,それはこの古いゲルマン語に由来する。)ドイツ語の〈神〉(Gott)は,このgött'nに由来するのだ。
だから〈神〉とは,〈生み出す者〉という意味である。長い冬が終わり春が来ると,この〈生み出す力〉が働いて,一見死んだような木々の枝から新芽が吹き出るし,凍てついた大地からは生き物たちが生まれてくる。このGottの不思議な力が作用していることは,少し観察すれば誰にでも見えてくる。
科学者ならばなおのことだ。だから,信じる必要などないのだ」と。…こういう定義に基づいて論じるときには,「神が存在するかどうか」のような議論は,無意味で空虚なものになるであろう。
③言語に絶するもの
カレン・アームストロングは,『神の歴史』(拙訳,柏書房)を書き,ユダヤ教,キリスト教,イスラームの「神」概念の歴史を探求した。彼女は,「神」の定義としては端的にまず「言語に絶するもの」(ineffable)とでも言うべきだと主張している。
それゆえ彼女は,われわれ人間が「神そのもの」,いわば「裸の神」(deus nudus)を論じることなどできるわけがなく,われわれが語りうるのは,「〈神〉についてのもろもろの理念・概念にすぎないことを強調している。
それゆえ〈神〉はいわば「絶対他者」なのであり,単なるanother thingでもなければ,an other thingでもないのであり,カント的に表現すれば,「純粋理性」が本来論じることができない「叡智界」の事柄なのである。…
④ゴータマ・ブッダの警告
ゴータマ・ブッダという人は,…伝承によれば常々「私は人間のこともすべてを知っているわけではない。ましてや神々についてなど知らない」と語っていたそうである。
彼は,世界の発生や終焉や死後の生や世界の究極的意味について,所詮は憶測や願望によって思弁すること―総じて空しい形而上学―が,真の「目覚め」には無用であることを諭していたらしい。それが,かの有名な「毒矢のたとえ」の意図することであったであろう。… -
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ななしのよっしん
2016/04/10(日) 20:39:42 ID: siPwFXRABO
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⑤親鸞の洞察
阿弥陀仏の概念は無条件の救済を「本願」において開示した独特な「人格神」という相貌を呈している。それは,無条件の救済を約束するというキリスト教的な神理念に酷似しているとも言えよう。
実際,20世紀の著名な神学者カール・バルトは,最も徹底的な救済を告げる「真実の宗教」(Die wahre Religion)の典型として,「プロテスタント的」形態のキリスト教と,浄土真宗を挙げている。親鸞は,仏身論(仏の三身:法身,応身,報身についての論)において,「法身」に触れて,「色もなく,形もなく,言葉も絶へたり」(『末灯証』)と論じている。
こういう把握は,その内容に則するならば,「名もない」という面をも含むほかないであろう。私は,20代のときに,郷里の一仏僧から以下のような逸話を聞いたことがある。
ある老婆が臨終の床に横たわっていたが,枕辺にいた僧に述懐して言った。「長年の信心のおかげで,臨終に際しても阿弥陀様が二人の菩薩を率いてご来迎下さる姿が七色の輝きのなかで拝めます。有り難いことです」と。すると,件の僧が大音声で「馬鹿者!仏に色はないわ!」と喝を発した。
老婆はしばらく瞑想していたが,「私は色に惑わされていました。今はもはや色は見えません。ただ弥陀と菩薩のお姿が見えるだけです」と答えた。ところが,かの僧は間髪を入れず,「馬鹿者!仏に形はないわ!」と再び喝を下した。
しばらく黙していた老婆は再度つぶやいた。「私は形に惑わされていました。今はもはや何の形も見えません。ただ南無阿弥陀仏の六字の名号が響くのみでございます。有り難いことです」と。
するとかの僧は三度大声で,「馬鹿者!仏に名はないわ!」との喝を入れた。老婆はまたしばらく黙想していたが,「長年の信心といいながら,色や形や名に拘り続けてきました。この最後に至って,ようやく何ほどか仏法本来の要が悟れた気がします」と漏らして,微笑を浮かべながら目を閉じた。
この逸話の真偽のほどは分からないが,そしてそれについては種々反論・異論もあるようであるが,とにかく宗派を超えたそれなりの洞察が込められたものではあろう。… -
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ななしのよっしん
2016/04/10(日) 20:41:42 ID: siPwFXRABO
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⑥「モーセの十戒」の貢献
「モーセの十戒」(「出エジプト記』20:1以下)では,「あなたには,わたしをおいてほかに神があってはならない」(第1戒),「あなたの神,主の名をみだりに唱えてはならない」(第3戒)と告げられている。
「わたしをおいて」はヘブライ語で「アル・バーナイ」で,原意は「わたしの面前で」である。その含みは,古代イスラエルの民に対する無条件かつ一方的な熱情をもって,彼らをエジプトの奴隷状態から救出したヤハウェの面前では,という意味である。だからヤハウェの「唯一性」は,数的意味ではなく,「かけがえがない」ということである。…
⑦イスラームの寄与
言うまでもなくイスラームは,きわめて厳格な一神教である。イスラームの基礎となる神からの啓示は,「クルアーン』第112「純誠章」(スーラトル イフラース)において,簡潔かつ高らかに宣言されている。
恵みあまねく 慈悲ふかき神・アッラーのみ名により 1 言え「アッラーは唯独り 2 久遠至尊のお方にて 3 生まず生まれずましませば 4 比ぶるものぞなかりける(日・亜・英対訳『聖クルアーン』(アリ・安部治夫訳,谷沢書房)
…ムハンマドは,自分たちの信仰の祖が,他ならぬアブラハムであると主張したのであり,それゆえユダヤ教徒もキリスト教徒も他の民族とは根本的に違った「経典の民」だと呼び,親しみと尊敬の念さえ持っていた。
だからこそ「共通の神」であるアッラーから彼が特別で最後的な預言者として啓示を受けたことを,ユダヤ教徒も,そしてキリスト教徒も理解し賛同してくれると思っていたようである。だが彼の期待に反して,これらの「啓典の民」たちは,彼をそのような者としては受け容れてはくれず,むしろ軽蔑したり反対したりした。
そのため彼は次第にユダヤ教徒やキリスト教徒を批判し敵視するようになったのである。そこでムハンマドは,とりわけキリスト教が,ひとりの人間にすぎないナザレのイエスを独一・絶対的な意味での「神の独り子」とし,さらには三位一体の教理において,事実上「神」の高さに引き上げてしまい,
それゆえ最大の罪である「人間の神格化・偶像化」に陥ってしまったと批判するようになったのである。こうして見ると,「神」について明確な定義をしないままで議論しても,無益である場合が多いことが納得されるであろう。” -
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ななしのよっしん
2016/04/10(日) 20:43:20 ID: siPwFXRABO
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諸宗教の違いに注目する論とは別に、一神教(イスラム教)と多神教(ヒンドゥー教・神道)と仏教の共通構造を扱う論もある
中沢新一「一神教と多神教:グローバル経済の謎』(548~557頁)
“一神教と多神教という概念自体は昔からあるものではなく、古く見積もっても百数十年の歴史しか持たない概念、つまり、近代的な概念にすぎないということです。…神仏習合を基本とする日本人の宗教の中で、純粋な多神教の原理が機能していたか。
…実際に神道などを見てみますと、ここには一神教と呼ばれる原理と多神教の原理の明らかな混在が見られます。…この中には必ず神々の世界の中で最も大きい神であり、そして神々の存在を根拠付けている神という概念があります。
古事記や日本書紀が著されてからは、これは天照大神という女性の神格に集中するようになりましたが、それ以前は別の神がこの役目を担っていました。おそらくはクニトコタチとか、別の神の名前で呼ばれたものが、この神々の中のより大いなる神の位置についていました。…
アメリカ先住民の宗教を研究してきた人類学者達は、アメリカ先住民が一神教の概念と無縁ではないということを、19世紀から見い出していました。
彼らの宗教を研究した人々がこう言っています。宣教師がアメリカ先住民のもとへ出かけて、あなた方は多神教徒である、そして、あなた方は神話と儀礼によってこの宇宙の真理を捉えようとしているがそれは間違いであって、この宇宙を創造したたった一人の神がいると説いたところ、
先住民達がそのようなものは私達はよく知っていると答えたと言われています。この神はグレート・スピリットと呼ばれていました。スピリットはたくさんいます。アメリカ先住民の世界には日本人と同じように無量無数のスピリットがいます。
しかしこのスピリットを統一し、そのスピリットの存在を与えているグレート・スピリットというものが考えられていました。これは平原部インディアンを中心として大いに発達した概念で、この平原部インディアンにはグレート・スピリットを中心とし、
そこから湧出してくる無数のスピリット達をめぐる一つの神学的な体系まで作り出されていました。おそらくはこの性格は、新石器時代の人々の宗教全てに共通するものであり、さらに言うと、旧石器時代の人類はこの一神教的要素がさらに強烈だったのではないかとすら推定されています。 -
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ななしのよっしん
2016/04/10(日) 20:45:14 ID: siPwFXRABO
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旧石器時代の人類と呼ぶのは、ネアンデルタール人が作っていた石器を使用していた、私達と同じ能力を持ったホモサピエンス達の文化です。ですから私達の直接の先祖と申し上げてよろしいと思いますが、この旧石器後期の人々の宗教、これは真っ暗な洞窟の中で行われる祭儀を中心にしていました。
その真っ暗闇の中で、しばしば光と共に現れる超越的なものの観念が、壁画であるとか熊の骨に施された彫刻や石に残された痕跡から推測されています。旧石器時代の人間達の宗教というのは二つの系統で成り立っていたようです。
一つは、男性達だけが秘密結社を作って洞窟の中で行う宗教でした。これは真っ暗闇の中へ入って音と歌と身体運動の踊りと、小さなランプを灯して壁面を照らす灯りが照らし出す絵画だけが作り上げる秘密の宗教の世界でした。この世界、この洞窟の中では、おそらくは極めて強度な超越性についての観念が人間を支配していただろうと考えられています。
ところが旧石器時代にはもう一つの宗教の形がありました。これは朗らかな太陽の光のもとで行われて、その主体になるのは女性達でした。この女性達が行っている宗教は、男性達が洞窟の中で行っていることは抽象性を目指し超越性を目指していたのに対して、この世界の自然の形や生物の形をそのまま具象的に表現するということから成り立っている自然な形の宗教でした。
ですから、旧石器時代において、もう既に自然環境とフィットし、そして女性の生命力というものの具体性を基にした非常に柔らかい形の宗教と、真っ暗い洞窟の中で男性秘密結社が行う抽象性の高い、超越性というものを抽象的に取り出す宗教が混在して、同居して、共生していたと考えられています。
女性達を中心に朗らかな陽光の中で行われる宗教、これはおそらく多神教の性格を多分に備えていたものであろうと思われます。ここにはたくさんのスピリット達が集っていたことでしょう。
ところが、洞窟の中で行われた男性秘密結社の行う宗教は、超越性をめぐる抽象的な観念に関心を注いでいました。ですから、これを私達の近代的な概念で、一神教への傾向をはらんでいると申し上げても構わないと思うのです。つまり、旧石器時代で既に一神教に向かう、超越的な高神へ向かう思考というものは働き始めています。 -
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ななしのよっしん
2016/04/10(日) 20:46:39 ID: siPwFXRABO
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それと、朗らかな陽光のもと自然の形とそして生物の活動をもとにしたスピリット・精霊の宗教、これは女性の産む力を土台にした宗教ですが、これを一言で多神教と申し上げるとすれば、旧石器時代から既に多神教的傾向と一神教的傾向は共生していた。
むしろ、このことから考えると、人間というものの知的能力の中には、一神教に向かおうとする傾向と多神教に向かおうとする傾向が同時に存在し、この二つが相互に補い合うことによって一つの全体性を作り出していたと考えることが出来ると思います。…
この旧石器時代以来の人間の思考形態、知的能力をストレートに表現した宗教…これはヒンドゥー教シバ派と今日では呼ばれていますが、この根源は極めて古いものです。ご存知のようにシバ神は大きな男根の石、つまりリンガで象徴されます。このリンガとそれを取り囲むヨニ、ヨニは女性器を表現しています。
つまりシバ神というのは、男性器を象徴するリンガとそれを包み込む女性器ヨニの結合体で表現されておりますが、この表現は既にハラッパ文明にも見い出すことが出来ます。ということは旧石器から新石器への移行期、考古学が中石器と呼ぶ時代に既にインド人はシバ神の概念を持っていた。そしてそれをリンガとヨニの結合体として表現する方法を持っていたことを表わしています。
…このシバ神の宗教、つまりリンガ、一の原理を目指す、monoの原理を目指すリンガと、マルチmultiを目指す、多様性を目指すヨニの結合体で出来た神の観念が、中世になると一元論monismというものに変容を遂げていきます。シバ・モニズムというものが生まれてきます。
これは中世のインドで発達したnon dual非二元論哲学の根源をなしていますが、この中ではシバとヨニ、つまり男性的な原理と女性的な原理、女性的な原理はシャクティと呼ばれるようになりましたが、この二つの原理の結合体はしかし本質において一元的であるという哲学が発達したのです。
つまりこの世界は一と多で出来ているが、その本質を統一しているのは一、これは一という概念を超えた一であるという哲学が発達するようになります。つまり中世インドでは既に、シバ派の哲学を通じて、極めて高度な一元論哲学が発達していました。そしてこの一元論哲学の中では、一者を目指す観念と多様性を目指す観念が一つに結合されておりました。… -
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ななしのよっしん
2016/04/10(日) 20:47:55 ID: siPwFXRABO
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一元論的な神学が発達し、そしてそれを元にして在来の古い宗教の形を再解釈するという運動が行われています。…こういう現象はアジアの世界においても、あるいは、実はこれはアフリカにおいてもヨーロッパにおいても、そして中近東においてもそう珍しい現象ではありません。…
イスラームの理解というのは何時も、一般の人々が信仰するイスラームと、そしてより高度な知的能力を持った人々が探究するイスラームの二つに別れて発達してきました。そしてイスラームの高度な哲学の中では「アッラーの他に神なし」という理解とは別に、
「私は存在でなかったことはない」という理解方法、つまりモーセの前に出現した神が「私は在りて在るものである」という言葉で表現された存在の世界、存在についての、この存在を統一し根拠付ける原理としてのアッラーについての理解が共存していたようです。
このアッラーの考え方をとりますと、ここでは一の原理と同時に、この世界が多様なものとして生み出されてくるものを統一的に理解するための一つの神学的な理解が発達しなければなりません。…実際に私達がイスラーム世界を仔細に点検して見ますと、
そこに決して、精霊の原理が一神教的と呼ばれるアッラーへの信仰によって、完全に掻き消されたり否定されたりしたという例は、むしろ少ないのではないかと考えることが出来ます。
そしてイスラームの中でより高度な神学理解を目指そうとした人々が作り出した神の概念、これはタウヒードと呼ばれている神学の形態の中に結晶してきましたが、ここでは一の原理と、そしてこの一が多様性の世界を生み出してくる、この過程を統一している原理こそがアッラーとして理解されています。
私達は、このアッラーについてのタウヒードの理解を深く検討してみますと、ここにヒンドゥー教のシバ派がシバ神を中心に打ち立てた非二元論的なモニズムとの深い共通点すら見い出すことが出来ます。この二つの間に本質的な違いが本当にあるのだろうかとすら疑うほどです。
…天使学はイスラームの中で発達した高度な学問ですが、イスラームの中ではこの天使学はタウヒードの理解と結び付けられ、一者が流出するあるいは産出する多様性を説明する中間的な存在として、天使の学問というものが高度に発達することになりました。ここでも天使は、一神教の理解に特殊な空間を付け加えています。 -
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ななしのよっしん
2016/04/10(日) 20:49:25 ID: siPwFXRABO
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中世の神学を見てみましても、天使が住まいする空間は、神がこの世界を創造する以前から創造したと言われています。そして、神は永遠であるが、そこは永在の世界であると言われています。永遠ではなく永在だと言われている。
それは存在と非在の中間状態にあって、常に消滅と生成を繰り返しながら、私達の世界に力を注ぎ込んでいる空間であるというふうに規定されるようになります。…
今日の世界に起こっている事態は一神教と多神教の対立などではないということです。
それは資本主義の構造を見ても良く分かることですし、イスラームの神学的な構造を見ても分かることですし、
我々が普通多神教と呼んでいるヒンドゥー教の内部の構造を見てさえ、そこにはイスラームのタウヒードの理解と共通するような一神教と多神教の共存構造というものが明らかに存在し、それは多神教の典型と呼ばれる神道の中にすら存在し、
そして、日本人は神仏習合の中から浄土教のような宗教を作り出しましたが、この浄土教こそ日本人が自前で作り出した一神教の最高形態であったとすら断言することが出来るからです。一神教も多神教も対立させることなどは出来ません。”
宗教の共通構造を重視する立場は「宗教多元主義」ともいう。
松岡幹夫「日蓮仏教と宗教多元主義」(28~32頁)
“宗教間対話を実現可能なものとする新たな宗教認識の枠組みが要請されることになり、ここに宗教の多元的存在性を認める「宗教多元主義(Religious Pluralism)」が注目されてきたのである。…中でも大きな影響力を持つ人物はヒックであろう。
一九六〇年代から宗教間対話が始められたイギリスの地で宗教哲学と神学の研究に入ったヒックは、一九八〇年代以降、アメリカのクレアモント大学院の教授として宗教多元主義に関する著作論文を次々に発表し、現在、宗教多元主義の最も有力な提唱者とみなされている。…
今日、宗教多元主義の議論においては、他宗教理解に関する、ある共通の類型論が暗黙の了解事項になっている。その類型論とは、(一)排他主義(Exclusivism)、(二)包括主義(Inclusivism)、(三)多元主義(Pluralism)、という三つの類型を用いるものである。 -
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ななしのよっしん
2016/04/10(日) 20:52:48 ID: siPwFXRABO
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これらの諸類型について簡単に説明すると、まず「排他主義」とは自らの信仰とそれ以外の信仰との間に何ら信念体系の共通性を認めない立場をいう。ヒックは排他主義の事例として、カトリック教会の「教会の外に救いなし」というドグマや、十九世紀プロテスタント教会の「キリスト教の外に救いなし」という海外宣教運勤の主張を提示している。
キリスト教以外の宗教で言えば、ヒンドゥー教至上主義やイスラム原理主義なども典型的な排他主義の事例と言えるだろう。
次に「包括主義」とは、自らの信仰の信念体系の絶対性を保持しつつ別の信仰の信念体系にも理解を示そうとする立場である。
ヒックはキリスト教的包括主義として、キリストの贖罪による法的和解がすべての人間におよぶことに基づく包括主義と、救いを人間的生の漸進的な変革として理解することによってすべての偉大な世界宗教の伝統の中に生ずる出来事を「キリストの業」であるとみなす包括主義とを挙げている。
なおキリスト教以外にも包括主義の事例は考えられ、例えばヴィシュヌ教派の化身説や仏教の垂迹説がそうであるとする意見もある。
そしてこれら排他主義、包括主義とは異なる第三の立場として、「多元主義」が捉案されるのである。「多元主義」は、自らが信仰する宗教とは独立に他宗教の存在意義を認めようとする新たな立場をとり、ヒックの言葉を借りるならば、
「〈自我中心から実在中心への人間存在の変革〉がすべての偉大な宗教的伝統のコンテクスト内において、さまざまに異なるしかたで生じつつあるものと認める見解のこと」である。
このような他宗教理解に閲する類型論は、そもそも多元主義の価値観に基づいて唱えられている点や、類型が三つに限定されている点などに、問題を残しているように思われる。
しかし現在、この類型論を欠いた宗教多元主義の議論は事実上不可能であるとも言われる。そこでわれわれとしては、この類型論に従って日蓮の他宗教理解を考えていくことにするが、その前に、従来の宗教にみられる排他主義や包括主義に対してヒックが新たに提唱する多元主義とはいかなるものかについて詳しい理解を得ておくことにしよう。
ヒックの宗教多元主義は、「宗教の一元的理解に裏づけられた多元主義」と評されるごとく、宗教多元主義をとりつつ一元的な究極者を想定するところにその最大の特徴があると言える。 -
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